第5話 サロン・ド・ショコラ

 フランスでは、女は勿論、男でも、しかも大人でも、チョコレートを普通に食べるので、日本とは客層が決定的に違う。

 日本でも最近、『サロン・ド・ショコラ』という同名の催しを始めたようだが、あちらはバレンタインデーにぶつけて行う催し物。男女比は圧倒的に女性に傾いている。

 フランスでは、みんながとにかくぱくぱくとチョコを食べる。

 たとえダイエット中でも、一粒のチョコレートは甘いモノとは別。サプリメントのような感覚で食べる。

 イギリス人一人が一日に平均して飲む紅茶は五杯以上という伝説があるように、フランス人一人が一日に一粒もチョコレートを口にしない確率はゼロパーセント、と、どうして誰も言い出さないのか不思議なくらいだ。

 そんな世界最高のチョコ好きが集まる、チョコ祭りの会場で、特に人気を集め、長蛇の列を作っているブースがあった。実演スペースの回りには、他に数倍する人だかりができている。

 ゴトクにかかった鍋を横に、マーブル台にかがみ込むようにしてチョコのブロックをシャシャシャシャ、と高速で削っているのは、パリッと洗い上がりのコックコートを粋に着た京旗。

 ザッと紙のようなプラ板――カードですくった削りチョコをボウルに放り込み、湯煎に浮かべる。鍋の湯温の調節も素晴らしい手ぎわのよさが光る。

 ボウルの中のクーベルチュール・チョコレートはゆっくりと、けれど分かる人には分かるリズムを刻んで融けていき、褐色のトロトロになる。水面がつやつやと、朝日を受けた湖面のように輝きだす。

 一番前に陣取った小学生の兄弟などは、吸い寄せられたようにそれを見つめて、もう目が離せない。

 京旗のボウルを静かにかき回す手は、ときどき放れ、マーブル台の清掃を同時進行する。パッパッと体が切れよく踊る。小学生たちも、つられて頭が右左。

 白いコックコートの演技者は、湯煎からボウルをはずすと、液体のクーベルチュール・チョコレートに耳を済ますかのように沈黙。集中の一瞬、彼は下がっていくチョコの温度に全神経を注いでいる。今だ!と見極めると、さらに湯煎へ。そしてまた、今! 繊細にして大胆な手つきで、サーッと液チョコをマーブル台に流した。

 引き込まれていた観客がワッと声を漏らす。幼い兄弟たちの目は点。

 広がる褐色の奔流。するすると凄い速さで延び広がるチョコ。マーブル台から滝になってこぼれ落ちる! と観客がヒヤッとした一瞬。京旗の狙いどおりに止まった。

 均質な薄さ。間髪入れずに固まりはじめているチョコレート。

 野球でピッチャーが狙ったとおりにミットにストライクをきめるように、チョコレートの癖を知り尽くした京旗ならでは。もちろん、会場内の気温も肌で分析して、計算に入れてあるから成功する。

 観客の男の子たちは、チョコレートがこぼれなかったことに安堵し、ふうっと肩から力を抜いた。凄い。大人でもこんなにカッコいい実演はしないのに、京旗はまだ学生――それも調理学校でなくて普通科の高校に通ってる日本人の高校生なのに、すごい。

 台一面に広がって固まったチョコは、磨りガラスのように曇ったりしない。ますますテラッと艶やかだ。均質で、にじみ模様――ファットブルーム――なんて論外。

 チョコレートを融かしてさらに温度を上昇させてから、ある一定の温度まで下げ、またクイと上げる。この上下の振幅こそ重要な鍵。

 温度を絶妙に操作しないと、輝くようなチョコレートはできあがらない。

 水を一滴も入れてはいけないのはもちろんのこと。温度調整――テンパリングに失敗すると、曇った、見た目の冴えないチョコレートができてしまう。

 おいしそうなチョコレートの表面に、魅了されているガラス越しの視線。幼い兄弟は尊敬のなまざし。

 その背後から、

――ヤツめ、いい気になってやがるな。

 凄まじい敵視を、日本人少年の動きに向けている人物がいた。

 京旗は、既にナイフをとっていた。柄に逆の手も添えて、切っ先を一面のチョコレートに勢いよく突っ込む。

 ヒッと息を呑む観衆。

 ――もったいない!

 兄弟は、ただただびっくり目だ。

 いちいち客を驚かせようとして、わざとらしいヤツだ――男は、唾を吐きたい衝動をこらえる。

 しかし、彼の目から見ても神速といっていい動きで、京旗のナイフは走り出している。

 シャーッと音をたてて、鋭角に切り込んだ京旗のナイフの背が褐色を削っていく。シャッ、シャッ、シャーッと迷いなく、潔いほどのよどみなさで、チョコレートを掻いていく。

 次々と薄いチョコレートが立体に造形されていった。

 波打つレースの襞、踊るリボン、バラの花、小さなつぼみ、葉脈の通った瑞々しい葉っぱ。何でもできる。力のいれ加減、ナイフの刃の角度、スピードの緩急。自由自在。

 京旗の腕は無造作にやっているようでいて、チョコレートの全面を無駄なく使い切るようにしっかりとしたイメージに沿って動いていた。

 その証拠に、ナイフが上がって弧を描き、スリットにシャコンと納められた瞬間。

 全部の褐色が削り取られて消えていて、まるで紙芝居をめくったよう。かわりに並んでいる、いくつもの見事な立体。

 猛烈な拍手喝采が湧き起こった。

 驚いた人たちの、輝いた目、目、目。京旗は満足して、横のステンレスのデシャップ台に先に準備しておいた四角いケーキの上に、ひょいひょいとバラやリボンを乗せこんでいった。

 これも大ざっぱに見えて、ひとつひとつに繊細な世界を構築している。無造作に見えるのは、目にも止まらぬ速さで腕と手先とが動いているせいだが、それこそ手早くさばかないと、チョコレートが手の体温でぐにゃりと溶け崩れてしまう。

 ことほどさように、チョコレートとは、デリケートなもの。

 ちなみに今飾っているケーキは、店で仕込んできたものだ。会場に、たてよこ二メートル超の店のオーブンを持ち込むことはさすがにできないから、仕上げだけをここで披露するために、搬入していた。

 さあできた!

 とりどりにディスプレイされたケーキを見渡すように半歩下がって、パン!と両手を打ちならし、ギュと握る。

 心の声は観客にも伝わり、オォオオー、というようなどよめきと、拍手が再び一斉に湧いた。

 離れた物陰で眺めていた赤毛の男は、嫉妬心にかられて小鼻をふくらませ、肩で息をしていた。

 黒髪黒目の少年は、今気が付いた、という表情で、小学生やパリジェンヌ、とりかこんで喝采する人々の群れを見渡している。――気障な野郎だ!

 京旗の横で、パティスリーのおかみさんがレジをたたき、今飾りつけの完成したケーキは、飛ぶように売れていく。

 小学生の兄弟も、親にねだって買って貰うと、ものすごく嬉しそうに笑いあった。

――大した人気だな。

 不気味な笑みを、赤毛の男は、口の端に浮かべた。

 京旗の周囲のブースのショコラティエや売り子、店員たちも皆、突っ立って京旗の手際についついつりこまれ、魅入っていた。

 偶然通りがかっただけのサロン・ド・ショコラの実行委員や、パトロンたちも、棒立ちで、口を開けて眺めていた。感極まって涙を流している女性もいた。

 上りつめた少年パティシエ。去年までは噂の影も形もなかった少年が、今やパリじゅうのパティシエたちの注目の的。見習いの身分だが、彼の親方は、うちの店の主力は彼だと公言してはばからなくなって久しい。多くのシェフが、少年の味のヒケツを盗みたがって訪れている。ドイツやオーストリア、ベルギー、オランダからも招待の話が舞い込む。取材は全ヨーロッパから来る。

 だが、今日この日が、お前の最後の晴れ舞台になるんだ。

 この後のコンクールで、お前は大失態をおかす。勝つのは、私だ――




――

この物語はフィクションであり、実在の団体・個人・事件とは一切関係ありません


――


これからも面白い物語にしていきますね。ぜひブックマーク・応援をお願いします

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