第3話 理由は三つ

 コックコートを脱いでいるから京旗は私服だ。雑誌や新聞に載った写真と違うとでもいわんばかりに、男は、上から下まで何度か視線でさらい、

「君は、年齢のわりにはとてもしっかりしているな。だが、表情を別にして、顔そのものの造作や体格だけをよく見ると、確かにティーンで、高校生――というか、あそこを行くジュニア・ハイの連中と比べても、まったく変わらないくらいだね」

「あはは、中学生っすか。アジア人は実年齢よりガキッぽく見えるらしいっすからねー」

 オーダーしたカフェラテが、カウンターの中から差し出され、鏡みたいに磨き上げられたカウンターの上に置かれる。京旗は、そのカップに盛り上がった泡を無邪気に覗きこむフリをしつつ、男に、すっとぼけた返事をした。

 予想外に鋭い言葉に、実は、一瞬心臓がビョクンとなっていた。でも、おくびにも出さないよう、演技力でカバー、カバー。

「うむ。実によく言われていることだし、真実だと私も考えるところだよ。ところで、今日、お呼び立てした用件なのだが」

 男は単刀直入に、話に入った。

 ヘッドハンティングの交渉に。

「くぁ?」

 さすがに、初めてそんな話を聞いて、京旗は目を点にした。

「当社では、世界中の何人ものパティシエを検討した末、君に白羽の矢をたてた。今の仕事先を辞め、我が社に来ていただきたい」

 ニューヨークから、大西洋を飛び越えてやってきた男は、アメリカの会社のビジネスマンだった。

 自グループのとある会社に、京旗のパティシエとしての能力が欲しい。一年の契約で社員となって、商品開発に力を尽くしてくれないか――。

「全米展開するブランドの立ち上げが、仕事の中心だ。キミさえその気になってくれるなら、そのブランドにイッシキという名をつけてくれてもいいとまで、上層部では考えている」

 一気に全米デビューかよ、オレ!

 すごいチャンスが巡ってきた。顔はクールを装うのだが、心臓はもうバクバク踊りだしている。

 やった。やった!

 菓子職人にとって、一番の夢は、オーナーシェフになることだ。多くの若いパティシエは、親方のもとで修行しながら、夢を見続ける。いつになったら自分の店を持てるだろうか。明日は持てるか、来年は持てるか。希望と絶望に翻弄されながら、長い卵の時代を過ごす。

 全米ブランドになるというのは、そんな夢を軽々と突き抜けてしまうサクセスストーリーだ。どんなパトロンがついても、こんな壮大な話はそうない。

 男はしかつめらしい顔で、言葉を続けている。

「パティスリー・イッシキというブランド名はどうかね。ああ、ファースト・ネームの方をブランド名にするのもいいな。ケーキ・オブ・ケイキ。……面白くないかね。ふむ、そうか」

 男は無表情に言い、間をおいてから、勝手にうなずいた。

 ひくひくひく……。

 京旗は頬をひきつらせていた。

 男は、茶色の瞳をそわそわと彷徨わせ、手の指をくるくると回したあと、止めると、再び口を開いた。

「フランス菓子が専門なのだから、ネーミングにもフランス語を使う方がいいかね。ケーク・ド・ケイキ。……つまらんかね。ふむ、そうか」

 京旗は耐えかねて、棒読みで、

「ハハハ、面白いっすね」

 ちなみに京というのは日本語で兆の上の単位で、母親の名前が「兆」胡だとか、父親の名前が「億」良だったとか、そのほか祖父祖母やさかのぼった先祖には「万」丈(ばんじょう)や「千」歳(ちとせ)、「百」行(ひゃっこう)とか「十」和(とわ)とかいう名がのヒトビトがいて、自分の名前はそんな流れでつけられたもので……という話をする気はない。日本語のネイティブでもない相手に、うまく伝えられるとは思えない。めんどくせぇ。

「すいません、そういえば、お宅の会社の社名を伺いましたでしょうか、僕?」

 話を逸らすついでに本題に戻す。年俸は目の玉の飛び出るような破格で、既に提示されていた。

「ああ。電話で言わなかったかね? <キャタピラー・キャピタル>というグループだ。聞いたことがある、くらいは言ってくれると嬉しいのだが」

 そう言う男の顔には、謙遜しているぞ、と黒々と大書してあった。

 京旗は思わずゲッと目を見開く。詳しいことは知らないが、その名は、超有名だった。

 世界的な規模を誇るグループ。そこが持つ会社なら、そりゃあ全米展開だってするだろう。

 ただし、京旗は嬉しくて目を見張ったわけではなかった。

「お断りします」

「な、何故かねッ!!」

 男が叫び、カフェ中の客が、アメリカ人と日本人の歳の離れすぎた二人連れに振り返った。

 大注目。

 京旗は顔をしかめる。こういう下品な目立ち方は嫌いだ。

 そしらぬ顔で、ゆっくりカップを持ち上げる。残っていたカフェラテを、静かに飲み干す。自分の横顔に集まった視線が、散っていくのを辛抱強く待つ。

 ソーサーの窪みにカップを再び落ち着けて、二度と取らないで済むようにしてから、横の男に向かって、指を三本、つきたてて見せた。

「ひとつには、あんたの会社はファスト・フードのチェーンをやってて、僕はそれが好きじゃない」

 言って、指を一本折る。

「もうひとつ。あんたの会社が作ってる菓子は安いけど質がめちゃめちゃ悪くて、僕はその中でも、チョコレートが特に許せない」

 指をもう一本折って告げる。その時、鷹のように変化した京旗の目つきに、男がたじろいだ。

 迫力があったのだ。

 当然だ。

 <てめぇは菓子作りを舐めてかかってやがる>と親方は言うが、これでも本人は本気で菓子に情熱を持っている。

 そして、チョコの味わいについて本気で考えている、フランスという国のパティシエなら、そのアメリカ会社のチョコレートが、フランスでは「チョコレート」とは決して名乗れないものだということは、周知の事実だった。

 チョコとは呼べない合成物。

「ついでにもーひとつ。その<むかでキャピタル>って社名、恥ずくないっすか?」

 蔑みをこめて冷たく笑う。指は折らずにポケットに突っ込み、何ユーロか掴みだして、カフェラテ代を数えてカウンターに置いた。店員に最後の声をかけ、さっさと立ち去る。

「くっ……! この、小僧……!」

 不遜なガキの後ろ姿を見送って、アメリカ人は、しばらく額に青筋をたててわなわなと震えていた。

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