第2話 アメリカ資本の接触
日本人は、先天的に味覚で大いにヨーロッパ人を凌ぐ素質を持っている。唾液の分泌量が少ないせいで、食感のいいもの、味のいいものを追求し、しっとりとやわらかくうまみに満ちたものを取捨選択。匂いに対してもヨーロッパ人より何段階も細かく分類できる力がある。つまり繊細さでアドバンテージがあるのだ――という説がある。
その上、京旗は手先が器用だったことと、意外にも体力に恵まれていたこと、努力家だったことが、パティシエ修行をする上で、実に素晴らしい相乗効果をあげた。
この店が決定的に人手不足で、他の店のように釜場に二、三年、とかいった悠長な修行をやっていられなかったことも、幸いした。
次々に新しいことを教えられ、勉強していくことができた。
学校に通いながら働く身分で、全ヨーロッパに通用する技術を磨くのに、最短コースを駆け抜けた。
老シェフに感謝していないわけじゃない。
その気持ちだけは伝わっているから、老シェフもウッと詰まるのだが、振り切るように、コック帽の頭をぶんっぶんっと横に振った。
「とにかくな、てめえはまだ、偉そうに何かを語っちまうにゃ、早すぎる。口で稼ぐってなぁ、もう引退したパティシエのする、あんまし情けのねぇ仕事じゃねえか!」
一生涯一菓子職人!
京旗の頭にその瞬間、そんな漢字の書き文字が彼の背後にババーンと出ているマンガのコマみたいな画像が浮かぶ。
いかん、また斜に構えて見すぎだ。笑い出しそうになって仕方ない。
と、そのとき、扉の向こうで電話が鳴った。表の店で客にケーキの説明をしていたおばさんの声がとぎれ、電話に出る気配。わずか一秒後、ドアが開き、そばかすだらけの顔がのぞいた。ちなみにその顔に付随するものとしてあげられるのは、金髪の他に、強烈な二重アゴ。さすがはパティスリーのおかみさんだ。
「電話だよ。ムッシュー・イッシキはいらっしゃいますか、とさ」
「誰から、すか?」
「さあね。ああ、アメリカ訛りだったね。――パリ区内からだとは思うけど」
ぞんざいに渡された電話の子機を、受け取って耳にあてる京旗。
シェフは、ブンッと風切り音でもしそうな勢いできびすを返し、肩をいからせて、店のすぐ奥にある工場にドスドスと大股で歩いていった。
頑固親父を怒らせちまったなー。
今さら、ヤバいことしちまったよ……とヒヤリとしながら、電話に名乗る京旗。
相手の声が、回線越し、誰の仲介かから始まる自己紹介を喋りだした。
おかみさんが言ったように、確かにアメリカ訛りだった。
場面は再び大きく変わって、アフリカのサバンナ。
チョコレートの原料、カカオの生産量では世界第一位を誇る国。
「もはや、誰の仲介があっても、和平は成るまい……」
野戦服にゴマ塩頭のアフリカ人は、つぶやいた。
黒光りする褐色の肌。双眼鏡を携え、丘の上に立つ痩せた体。老いてはいるが、次の瞬間、躍動を始められるだろうしなやかな筋肉は衰えていない。
内戦は、数ヶ月前から始まっていた。
パパパパパ!
あっけないほど軽く、銃声が響く。
政府軍のキャンプの村。土壁の円い家、四角い家、木造集会場と広場の間を、不意の襲撃を受けて、野戦服が駆けめぐる。茶色い地面にたつ土埃。住民がサバンナの森に逃げ込んでいく。
村から応射が一発、帰ってきた。パラパラと、さみだれ式だった弾音の間隔が狭まっていく。政府軍が、体勢を立て直したのだ。
「将軍! 危険です!! いらして下さい!!」
若者が叫び、連れられて、ゴマ塩頭は退避する。
ランチャーロケット弾が白煙を吹いて飛び交う。
国の中部の農村は、政府軍と反政府軍のせめぎあう境界線にあった。
反政府軍――と、不本意にも呼ばれている。
ゴマ塩頭の老将軍は、回想する。
軍の若い兵士たちが、彼に生活の苦しさを訴えてきたのは、数ヶ月前。不況で給料の未払いが続き、食べ物も買えないという深刻な状況だった。
地図帳を開くと、アフリカ大陸の大西洋側、ギニア湾に接して北に位置するいくつもの小国のうちのひとつ、正方形に近い形をしているのが、ここアール国だ。
日本人にはほとんど知られていないが、確かに地球上にある、たくさんの国々の中の一つ。
カカオという強力な世界商品で、独立後四○年、西アフリカの国々の中では際だって順調に経済成長してきていた国だったが、近年、カカオの価格暴落に見舞われ、不況に陥っている。
軍の若い兵士たちが頼ってきた以上、ゴマ塩頭の老将軍は、どうにかしてやらなければと切実に思った。
もちろん、若い兵士たちが老将軍を担ぎ上げたのには、それをそそのかした黒幕がいた。七年前の政変で、国際機関に『栄転』させられ、国内の政権から体よく追っ払われた、一人の政治家だった。
しかし、政治家は復讐だけを望んで、国に帰ってきたわけではない。
この国は、このままでは立ち行かなくなる。
開発途上国の指導者の常で、国を憂えていた。
今の政府のやり方では駄目だ。
だから老将軍は、担ぎ上げられるのを是とした。
独立後、他のアフリカ諸国とは一線を画し、内戦に踏み込む愚を避けてきた国。だが、その平和は、皮肉にも、国を憂えた男の行動のお陰で、崩れた。
しかし、信念は固かった。
「行くしかないのだ。一気に決着をつけてやる。誰にも、我々は止められん……!!」
帰りに焼栗でも買ってこようかな、と思いながら、京旗は店の裏口を出て、短い階段をとんとんと降りた。パリの秋冬の名物である焼栗の屋台が、もう街に出はじめている。
でも、まずはカフェだ。激しく忙しい仕事の合間の休憩時間。落ち葉と石畳を踏んで、電話の主に指定された、近くの店に向かった。
路地の途中、小さなものをいろいろ揃えて売っている店の前の舗道で、何人かの中学生とすれ違う。
店から出てきたばかり。長いフランスパンを三つか四つに切って売っているのを、手で千切るように縦に割って、これもいま買ったばかりの薄い板チョコを、嬉しげに挟んでいるところ。連中は、その即席の菓子パンを持って歩き出し、かじりつつ喚きつつ、ぞろぞろと流れていく。
この近くに、学校があるのだ。
いつものこの時間帯の放課後っぽい風景の中を、京旗はズボンのポケットに手をつっこんで、スタスタと歩いていく。次の集団もすり抜けて通る。こいつらも、きっとあの店で手作り簡易チョコパンの買い食いをしていくんだろう。
カフェに近付くと、中のカウンターのこちら端に肘をついていた男が、片手をあげて目配せしてきた。電話で想像した通りの、体格のいいアメリカ人だった。その割に少し神経質そうな茶色の瞳で、周囲を見回したり、カウンターの上に置いた指を何度も組み直したりしている。
なでつけた黒髪に、白髪がメッシュのように走っていた。
死んだ自分の父親より歳いってそうだな、と京旗は見当をつけた。
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