九十八 街角やをら異酒屋台

「おっ旦那。久しぶりですね」


 路地裏を覗くと、店先にいたサラマンダーの店主が、私を見てパッと顔を明るくした。私は照れ隠しにはにかんだ。本当に、数年ぶりである。この屋台を訪れるのは。


 高層ビルと高層ビルの隙間。

 ほんの五メートルもないような狭い路地裏に、その屋台はあった。赤い暖簾を潜る。すぐに肉の焼けた、美味しそうな匂いが漂って来た。カウンターにはすでに数人の先客が座っている。



 サラリーマン風情のスーツの男性。


 席二つ分を占領して、何やら難しい顔をしている真っ赤な鬼。


 ライオンとカンガルーの、それぞれ悪い部分を足して二で割ったような獣、など……。



 人間も、それからそうじゃないものも。



 古びたこの屋台には、様々な世界から、様々な客がやってくる。


 私の住む世界では、昼と夜の間だけ。


 陽が沈む頃。

 路地裏にひっそりと、赤い暖簾が揺れている。その間だけ、この店は開いているのだ。それ以外の時間帯には、不思議なことに何処にもない。何処を探しても、どんなに辛抱強く待っても、屋台は何処にも現れない。知る人ぞ知る、奇妙奇天烈な異界へと続く店であった。


 そしてもう一つ。

 夜になったら、客は席を立たなければならない。或いは別の世界に住む者にとっては、昼になったら、だ。


 昼と夜の間だけ。


 その短い時間にだけ、この異界屋台への扉は開いている。私の住む世界の発音では、店の名前を『やをら』と言った。


「元気してました?」

『やをら』の店主が私に尋ねた。

「まぁ何とか。おかげさんでね」

「そりゃ良かった。何にします?」

「とりあえず……えぇと、サラマンダー・ビールってまだあるのかい?」

「ありますとも。ありがとうごぜぇやす」


 サラマンダーの店主がニッと笑った。その口調が妙に懐かしかった。店主の真っ赤な鱗も、頭に生えた黒い角も、あの頃と変わりない。


 髪の毛が蛇で出来た女性の隣に座り、私は濡れタオルを受け取った。間を置かず、カウンターにドンと大きめのジョッキが乗せられた。勢い余って、カウンターに赤い泡が溢れる。


「へいお待ち!」

「懐かしいね」


 私は白い歯を見せた。上着を脱ぎ、シャツの袖を捲る。


「旦那。今日はお仲間は?」

「中々こんな時間に、全員は集まれなくてね。仕事の帰りなんだよ」

「最近はどうなんです? 『妖怪退治』の方は?」

「まさか。もうやってないって。息子も成人したしね」


 私は苦笑いを浮かべた。昔のことを思い出し、ほんの少し赤面する。口元に赤い泡が溢れた。


 初めてこの屋台を訪れたのは、まだ小学生の時だ。


 あの頃は友達と一緒に、地元の祠でナントカと言う封印を解いて……もう忘れてしまったが……学校の傍ら、夜な夜な『妖怪退治』に出かけたものだった。ある晩、弓使いのアミちゃんが小鬼にやられた。私たちはアミちゃんを抱え懸命に森を走り、そしてこの店に辿り着いた。


「懐かしいねえ。あれからもう何十年、か……」


 サラマンダーの店主がしみじみと呟いた。私も頷いた。あの頃はまだ別の世界の存在も、この店のことも何も知らなかった。


 屋台の後ろでは、サラマンダーの子供たちが何やらボードゲームに興じている。広くない店内に子供たちの笑い声が響き渡った。実はこの店主とも、私は一度戦ったことがある。あれはもう、小学生高学年の時だったろうか。あの時の戦いで、私は右脚の腱を斬られた。サラマンダーの店主は片方の翼を折られた。あの時はまだ、私の世界では人間も妖怪も、お互い憎しみ合っていた……。


「息子がゴブリンスレイヤーになるって聞かないんだよ」

 酔いが回って、つい愚痴が出た。店主はキョトンとした顔を見せた。


「何ですか? そのゴブリンスレイヤーてのは?」

「さぁね……。どっかの世界で人気の職業らしい。賞金稼ぎみたいなものらしいが。全く、何処の世界に首を突っ込むつもりやら」

「若い頃はまぁ、良いんじゃないですか。自由にやらせてみたら」

 店主は牙を見せて笑った。


「自分でやってみて、色々気づくことも多いでしょうよ。どんな世界のどんな職業でも。そっからですよ」

「どうかねぇ。せめて私と同じ世界で、YouTuberとか、プロゲーマーならまだ私にも何とか分かるんだがね。ゴブリンスレイヤー……か。危険じゃないだろうか? それに『夢を追う』ったって、どっちみち飯を食わない訳にはいかないだろう? それってちゃんと稼いでいけるのかね?」

「知りませんよンなこたぁ。それも含めて、きっと経験でさぁ」

「だと良いがね……」


 心配しすぎかもしれない。また苦笑いが出た。『妖怪退治』に明け暮れていた私に、文句を言う資格はないのかも。それからはしばらく酒の肴に舌鼓を打った。ドラゴンのもも肉。クラーケンの刺身。マンドラゴラのスープ……。どれもこれも、元の世界にはないものばかりだ。


 店内には軽快で陽気な音楽が流れている。客は誰も彼も、言葉も通じそうにもないが、皆穏やかな表情を浮かべていた。


 昼のものも。夜のものも。

 どんな世界の、どんなものでも。

 ここにいる間にだけは、立場を気にすることなく、普段着ている上着を脱ぎ捨てられる。


 それこそがこの屋台の何よりの魅力だろう。


「あっしはね、旦那」

 他の客の相手をしていた店主が、戻ってくるなりボソリと告げた。


「どうか気を悪くしないで聞いてもらいてえが。旦那に片翼千切られてなかったら、あの後も『人間狩り』をずっと続けていたと思いますよ。あの戦争が終わるまで、ね」

「…………」

「だけどまぁ、そのおかげで、こんなところにこんな屋台を開いてんだから。何がどう転ぶか分かりませんや」

「そうだね……」


 残っていたビールを飲み干した。私だって、脚を斬られていなければ、まだ『妖怪退治』を続けていたかもしれない。そうなれば、こうして店主と話しながら呑むなんてこともきっとなかっただろう。人生、どうなるか分からない。


 夜になった。客が席を立ち、それぞれの世界に戻っていく。あるものは昼に。そしてまたあるものは夜に。私も席を立った。久しぶりに呑んだからだろうか。体が熱い。少し足元がふらついた。


「旦那……」

「もし、息子が此処に来たら……」

 帰り際、私は店主に、少し多めに握らせた。

「その時は、よろしく頼むよ」

「……ありがとうごぜぇやす」


 サラマンダーの店主は私の手を握り、ニッと笑った。私たちはしばらく見つめ合った。やがて店主に頭を下げ、赤い暖簾を潜り、私は元いた世界へと戻って行った。

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