八十八 人肉列車じゃ座れない
ぎょっとした。
朝6時半。いつも乗っている通勤電車が、今日は明らかに様相が違っていた。
ホームに電車が入ってきた。車内はぎゅうぎゅうのすし詰め状態で、全く席が空いていない……のはいつものことだ……が、今日はそれどころではなかった。4両編成の薄緑の車体に、その側面や屋根の部分に、中に入り切れなかった何人もの乗客がびっしりとしがみ付いていたのだ。
黄色い線の内側に立って、
私はその異様な姿に驚愕し、しばらくその場に立ち尽くした。
車両の
汗だくになりながらしがみ付いた乗客で、車体の緑は最早見えなくなっていた。
代わりに目の前にあるのは、もぞもぞと蠢いている客の頭や、背中の部分であった。
時折苦しそうな呻き声も聞こえる。
私は、先日娘の誕生日に買ったフルーツケーキを思い出していた。
巨大な金属の
噂には聞いていた。ニュースで何度か見たことがある。
人をすし詰めにし、入りきれない乗客は外にしがみつかせる。所謂これが『人肉列車』だ。
『普通列車、D町行きです。間も無く発車いたします』
不意に無機質な
「お客さん」
風が強くなってきた。
目の前の人肉列車に途方に暮れていると、そばにいた駅員が私に声をかけた。
「もう発車ですよ。乗るんですか? 乗らないんですか?」
駅員が酷く気怠そうに私を睨めつけた。
私は軽く目眩を覚えた。
んなこと言ったって……乗る場所なんてないじゃないか。
ふと横を見ると、
私の他にホームで待っていた客たちは、人の壁に手をかけ、せっせと電車を
新たな客たちは皆、それぞれ自分の
こうして何人もの人間が折り重なって、この醜く膨れ上がった人肉列車は出来上がっていた。
「乗るんですか? 乗らないんですか?」
駅員がイライラと口を尖らせた。私は目を泳がせた。
会社に遅刻するわけには行かない。
たとえ台風だろうが地震だろうが、必ず出社しなければいけないのが、我が社のルールなのである。この電車を乗り過ごせば、出勤時間までに間に合わない。
私は慌てて目の前の、50代くらいの見知らぬサラリーマンの肩にしがみついた。
私の爪が肩に食い込み、サラリーマンの顔が憎々しげに歪んだ。
だが、私とてこれから黙って振り落とされる訳にも行かない。
心を鬼にして両手に力を込めた。
同じように私の背中に、別の若いサラリーマンがしがみついてきた。
人と人とのサンドイッチの出来上がりだ。
彼もまた、私の腹をこれでもかというくらいギュウッと締め付けてきた。
おかげで私は今朝食べたシャケの切り身を戻しそうになった。
屋根付近に登っていた客の一人が、
これはいい足場が出来たとばかりに、遠慮なく私の頭に革靴を乗せてきた。
パラパラと小石や砂利が、私の眼の中や口の中に降ってきた。
鉄を噛んだような味が私の口の中に広がった。しかし両手が塞がった状態で、どうすることもできなかった。
『ドア閉まります』
また少し風が強くなった。
冷たい外気が肌を粟立たせる。
また何処からか無機質な
私のすぐそばで、開いていた電車の扉がゆっくりと閉じて行った。
扉付近で踏ん張っていた乗客の脚が、ぐしゃっ! と嫌な音を立ててドアに挟まった。
ドアからはみ出した指はたちまち紫色に鬱血し、水風船のように膨れ上がった。
窓ガラスの向こう側に、男の苦痛に歪んだ顔が見え、くぐもった悲鳴が聞こえる。
覗き込んだ電車の中は、外以上に阿鼻叫喚の地獄絵図になっていた。
腕や首があらぬ方向に曲がり、
白目を剥いている乗客たちが、潰れた粘土のように身を寄せ合い窓に頬をへばり付けている。
酸欠状態になった女性が、金魚のように口をパクパクと動かしているのが見えた。
床から天井付近まで、びっしりと詰め込まれた乗客たちは、正に瀕死の有様だった。
これから始まる命がけの”通勤”を憂いて、私は生唾を飲み込んだ。
やがて電車が動き出した。
私は両手に力を込め、ぎゅっと体を強張らせた。
最初はゆっくりと、それから徐々に加速度を上げて行く。
時速約60キロ。
原付と同じ程度のスピードではあるが、何せ乗り方が悪い。
椅子があるわけでもなく、ただ単に人の壁にしがみ付いているだけなのだ。
突然、上から大きな爆発音がして、驚いて屋根を見上げた。
焦げ臭い匂いと、絶叫に近い悲鳴が広がる。
どうやら乗客の一人が電線に引っかかって、感電したらしかった。
真っ黒に顔が焼け爛れた人間が、電車の屋根の上で鰹節よろしく踊っている。
慄く暇もなく、今度は前方から数名、乗客が
手を離してしまい、列車の側面から振り落とされた人々だ。
彼らは何人かの
私の横をあっという間に通り過ぎ、後方に吹き飛ばされて行った。
たちまち喉がからからに乾いた。
ふと線路の外側に目を向けると、
のどかな田園風景のあちこちに、電車から振り落とされた人が何人も倒れている。
生きているんだか死んでいるんだかも分からない。
しっかり掴まっていないとこうなるぞ、と言われているようだった。
死屍累々の光景に、私は一層しがみつく両手に力を込めた。
屋根の方から誰かの血が滴り落ちてきて、私の顔をべっとりと濡らした。
私はただ
『間も無く、G駅、G駅に到着します』
無機質な
何処かで窓ガラスが割れているのかもしれない。
さっきから、人の腕だか脚だか区別のつかないものが、
前方の窓からにょきっと突き出てプラプラと風に流されている。
どう見ても折れていた。
それは、次の駅に着くまでにいつの間にか根元から千切れて、吹き飛んで行ってしまった。
ようやく次の駅が近づいてきた。
人肉列車がゆっくりと速度を下げる。
G駅に到着するまでに、
月見団子のように、人が積み重なっていた屋根も、心なしか低くなっている。
それでもG駅から、出勤通学する乗客たちが新たな壁を作りに乗り込んできた。
私は流した汗と涙と血で、顔中が、口の中がどろどろになっていた。
腕が痺れてきた。出勤前だというのに、すでに疲労困憊していた。意識が朦朧としている。頭に酸素が回っていなかった。一体これまで何人の人々が、こんな馬鹿げた出勤を強いられたせいで、亡くなっていったのだろう。
『次は、J駅、J駅』
まだたった一駅だ。
G駅から会社の最寄り駅まで、後11駅ある。それに……。
『なお、J駅から先は、この列車は特急列車となります』
無機質な
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