六十八 もう二度と傷つかない。

「もう二度と傷つきたくない?」

「はい」


 怪訝な顔を見せる店主に、私は至って真面目に頷いた。


「ありますよ、そりゃあ。どんな薬でも揃えているのがウチの自慢ですからね。でもね、止めといた方がいいと思うなあ……」

「お願いします」


 たとえ何と言われようと、諦めるつもりはなかった。この魔法のような薬の存在を知ってから、私は全財産を投げ打とうと手に入れると誓った。もう二度と傷つかない。最高じゃないか。全人類を敵に回しても手に入れる価値がある。どうせ敵に回ったって、私が傷つくことはないんだし。


 若い店主は腕を組んだまま、しばらく困った表情で私を眺めていた。それから私がどうしても折れないことが分かると、渋々奥の部屋に引っ込み、紫色の紙包みを持ってきた。


「こちらです。この薬を一錠でも飲めば、貴方はもう二度と誰からも傷つけられることはありません。ただし副作用として、もう二度と誰も傷つけることができません」

「素晴らしい……」


 中から取り出された紫色の錠剤を見て、私は思わず恍惚な声を上げた。流石オウガ薬局、浮世と冥府の全ての薬を揃えていると謳われるだけはある。それに副作用だって、嬉しい誤算だ。誰も傷つけなくて済むなんて、デメリットでも何でもない。人間関係に悩む全ての人が欲しがる、まさに夢のような薬だった。


「おいくらですか?」


 前のめりになる私に、店主が苦笑いを浮かべ、ズレた眼鏡をクイっと戻し光らせた。


「本当に飲むんですか?」

「もちろんです」

「傷つかないことが、良いことだと?」

「ええ」

「もう二度と、人園関係に悩むこともなくなるかもしれませんよ?」

「それが望みなんです」


 私はまっすぐ店主の目を見て、少しも逸らさずそう告げた。やがて店主は諦めたように、私に錠剤を差し出した。


「分かりました。お代はそうだな、今まで貴方が受けてきた傷、でどうですか?」

「はい?」


 財布を取り出そうとしていた私は、予想外の言葉に頭を白黒させた。細身の店主は至って真面目に頷いた。


「ですから、貴方が今まで生きてきて受けてきた傷や痛み。思い出したくもない、早く忘れた方が良い記憶。経歴、名前、信条、肉体……物理的心理的問わず、貴方の傷を全部下さい」

「そんなことが……」

「できるんです。ここはオウガ薬局ですから」


 そう言って笑うと、店主はエプロンについたポケットから何やら怪しげな錠剤を取り出した。一瞬、透明に光輝いたそれは、よく見るとどこにでもある、市販のカプセル錠だった。買い物をしたかったら、この得体のしれない薬を飲めと言うことらしい。私は手のひらに転がったその薬と、にこやかな店主の顔を何度も見比べた。


「安心して下さい。毒ではないですよ」


 当然、そんな証拠はどこにもない。私は戸惑った。やはり噂が噂を呼ぶ、都市伝説のようなこの薬局。支払い方もまともではなかった。だがこんなことで躊躇っていては、折角この店に来た意味がない。それに……過去の傷が無くなると言うのは、私にとってむしろプラスなんじゃないだろうか? これでもう、私の人生には金輪際傷というものが無くなる。何をしても、何をされても。


「……分かりました」


 意を決して、私は店主の手のひらから錠剤をむしりとった。店主は口元に笑みを浮かべたまま、だが何処か悲しげな表情で、私にコップ一杯の水を差し出した。約束の錠剤を慎重に飲み干し、店主から紙包みを受け取ると、私はそのまま逃げるように店を去った。


「お大事に」


 扉が閉まる直前、店主がそう呟く声が私の背中に届いた。




 ……今思えば、それが私に届いた最後の言葉だった。



 今でも時々思い出す。彼は一体、私に何を大事にして欲しかったのだろう? 傷つかない肉体か? 傷つかない心か? 大事にする意味のあるものを、私は果たして今持っているだろうか?


 痛まない記憶か?

 揺るぎない信念か?

 痕のない過去か?

 歪まない未来か?

 悩むことのない今か?


 自分? 家族? 友人? 恋人? それとも他人?

 

 答えが分かったら、どうか私に教えて欲しい。別に遠慮なんてしなくてもいい。だって私は、もう二度と傷つくことはないんだから。 

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