六十六 どっち?
「じゃあ、行ってきます」
「はぁい」
「今日はお父さんの命日だから、美由も今日は学校を休みなさい」
「うん」
「早めに帰ってくるからね」
「はぁい」
先程まで笑顔だったお母さんの笑顔が閉められた玄関のドアの向こうに消えた。私は見送り用の笑顔からふっと表情を緩めると、備え付けのチェーンを掛けてトボトボとリビングへと向かった。
急に静かになったリビングで朝食の続きを食べ始める。私はテレビのリモコンを取って、ニュース番組やら星占いやらをはしごした。画面の向こう側のやたらと明るい声が、より一層この部屋の静けさを顕にしてしまう。何だか今日はあまり気乗りしない。それもこれも…。
「なんだよう。さっきの番組面白そうだったのに」
テレビの前で寝っ転がっていたおっさんが私を振り向きもせず文句を言う。私はため息をついた。それもこれも、きっとこのおっさんの幽霊のせいだ。
私の父親はもうこの世にはいない。私が物心つく前に死んでしまった。そのせいで私は本当の父親を知ることができず、その肉声を聞くことは叶わない…それだけに留まらず、自宅に謎のおっさんの幽霊が住み着いてしまった。おっさんは毎日休みだろうが平日だろうがテレビの前で寝っころがり、何をする訳でもなくただそこにいた。お母さんには霊感がないのでおっさんを完全に無視していたが、私にとってはいい迷惑だった。
いつの日だったか、私が登校する前にトイレに駆け込もうとすると、「今入ってるんだよ」などと妨害行為に及んだり、「今日のおかずは肉じゃがイイなぁ」なんて呟いては私たち家族の会話を邪魔してきた。働かずに家でゴロゴロするだけのおっさんがこれほど疎ましいとは思っていなかった。日に日に私のストレスは溜まっていく一方だった。
「お父さんの命日かぁ……」
朝食を取り終え、浮かない気分のままベッドに横になっていると、「ドンドン!」と部屋のドアを叩く音が聞こえた。私は驚いた。今日のおっさん、妙にアグレッシブだ。
「な、何?」
「美由。話があるんだ」
「だから何?」
「この際お前にはっきり言っておくことがある。……俺はお前の本当の父親ではない」
私は黙った。
いつもより威厳たっぷりの表情を作ったおっさんが、ドアを開けるなり私に説教を始めた。
「でもな……いい加減死んだお母さんの幽霊を追っかけるのは止めなさい」
突拍子もない冗談に私は思わず笑った。でも視線は、苦しそうに言葉を紡ぎ出すおっさんから離せなかった。
「え? 何言って……?」
「今のお前の親族権は叔父である俺にあるんだ。お前が毎日お母さんの幽霊と話してるのは知ってる。俺に霊感みたいなもんはないが……」
「お母さんが幽霊……?」
そんなはずはない。
幽霊なのはこの働いてないおっさんで、お母さんは物心ついた時から、私にごはんを作ってくれてる。お母さんが仕事に出かけるのを見送るのが私の日課だ。お母さんの仕事は……。
「お前の両親は、残念ながら事故で二人共亡くなってしまった。もうお母さんを成仏させてあげなさい」
おっさんがゆっくりと呟いた。
「…………」
「…………」
私はおっさんをその場に残して、お母さんの寝室へと走った。
バタン!
勢いよくお母さんの寝室を開ける。私は目を見開いた。そこにいたのは、さっき仕事に出て行ったはずのお母さんそのものだったのだ。部屋の隅のベッドに腰掛け、いつもの優しい微笑みを私に投げかけている。
「……お、かあさん……!?」
薄暗い寝室に開け放たれたドアから光が差し込んで、微笑むお母さんの顔を半分照らしていた。ふと背後から影が覆いかぶさる。私が振り向くと、おっさんが立っていた。逆光に照らされて、その表情まで読み取ることはできなかった。
「美由……」
「お母さん……なんでいるの!?」
お母さんはゆっくりと立ち上がった。私は理解が追いつかないまま、フラフラと部屋の中に足を踏み入れた。
「お母さん……幽霊だったの?」
お母さんは悲しそうにその笑みを崩していった。
「いいえ。私は生きてるわ。美由。その男に騙されてはダメ」
お母さんが私を睨んだ。見たこともないその憎悪の表情に、私はピタリと足を止めた。
ゆっくりと後ろを振り返ると、ドアの前でおっさんが仁王立ちしていた。逆光で、その表情は相変わらず見えない。おっさんが叫んだ。
「美由! 騙されるな! その女は幽霊だ! 幽霊じゃなけりゃ、どうやって鍵をかけた家に入り込めたっていうんだ?」
「信じて美由! その男が言ってるのは嘘よ! 死んだ和夫さんに似ているから、今まで追い出さなかっただけで……」
「美由! こっちをみろ!」
「美由!」
私は薄暗い寝室の真ん中で立ちすくんだ。前には涙を流し懇願する母親の姿をした女性と、後ろには真剣な表情の、私の叔父だと言い張る謎のおっさん……。
「「美由!!」」
私は……。
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