六十五 狐憑き

「先生大変なんです。実は娘が『狐憑き』になってしまいまして」

「ははあ」


 やってきた患者と、その付き添いの母親を見て、医者は一瞬ぽかんと口を開けた。

問題の患者は、まだ10代と思われる少女だった。少女はぼんやりと虚空を見つめたまま、心ここに在らずと言った具合に椅子に腰掛けていた。医者は顎を撫でた。


「今時珍しいですな。『狐憑き』とは」

「先日からずっとこの調子で……先生、娘を治してやってくれませんか?」


 母親はハンカチを目に当てて頭を下げた。娘の方は、その隣で、何やら右手を高く天に掲げて、ゆっくりと体を前後に揺すっていた。一言も喋る気配もない。『狐憑き』……仮に精神錯乱状態だったとしても、これは大ごとだ。母親がすすり泣いた。


「このままでは、こっちまで気が狂ってしまいそう。家が壊れてしまいますわ」

「ご安心ください。たとえ『ハンバーガー憑き』だろうと『扇風機憑き』だろうと、きっと治して見せますよ。ウチにはそんな患者が多いんだ」


 医者はドンと胸を叩いた。窓の外はもう暗かった。

寂れた寒村のさらに奥の奥に位置するこの病院は、幽霊や妖怪ともまたちょっと違う、

『狐憑き』

『犬神』

など……いわゆる『憑き物筋』を専門にしている、知る人ぞ知る病院であった。


 医者は手元の機械をいじり、隔離病棟のサンプル映像を拡大アップして見せた。


 丸まって、髪の毛にケチャップを塗りたくり、自分がハンバーガーだと信じて止まないサラリーマン。部屋の片隅で正座したまま、ひたすら首を左右に振り続ける少女。


 映像には、とても正気とは思えない奇妙な人間たちの様子が映し出されていた。


「この患者は先祖代々、ハンバーガーをないがしろにしていたのでしょう。それでハンバーガーに呪われてしまった」

「はぁ」

「彼らは全員ウチの患者でしたが、今ではすっかり元の人間に戻っています。他にも『ツーボールワンストライク憑き』だったり、『666人憑き』だったり、色々なものに取り憑かれた人々がいましたが、みなさん全快していますよ」

「えっと、ツーボールワンストライクが……人を呪うんですか?」

「彼はツーボールワンストライクを、甘くみていたのです」

「なるほど」

「娘さんも、もしかしたら、意図せず何かしらの逆鱗に触れてしまったのでは。触らぬ神に祟りなしと言います。原因は恐らくそれでしょう。それが分かれば、きっと治りますよ」

「良かったです、先生の御評判を聞き、遠くからやってきた甲斐がありました」

「しかし娘さんは、『狐憑き』とはまたちょっと違った感じですな。なんと言うか……」


 医者はまじまじと『狐憑き』の少女を診た。実に奇妙な症状だった。右手はまっすぐ天井に向けて伸ばしたままだ。丸い回転椅子の上に正座して、時折左右を見渡しては伸ばした右手を奇妙に曲げて見せた。


「狐というよりは、まるで鶴のような」

「それって治療と関係があるんですか?」

「勿論です。自分が何に憑かれているかを知るのは、とても重要なことです。例えば『狐憑き』であれば、狸をぶつけてみるとか。『ハンバーガー憑き』であれば、ひたすら和食を与えてみるとか」

「はぁ」

「逆に『鶴憑き』に狸をぶつけても、あまり効果はありませんな。相性が大事なのです。娘さんはどうも見ていると……キツツキにも見えるし……うーむ」

「先生、どうかよろしくお願いします。じゃないと……」

 母親は涙を拭った。


「安心してください。ご家庭が壊れるような事態は、絶対に阻止してみせますとも。娘さんは一旦入院させましょう。その間、娘さんが何に憑かれたか分かったらすぐに連絡ください」

「分かりました」

「もしかしたら家に、取り憑いた対象がやって来ないとも限りません」

「そうなんですか?」

 医者は頷いた。

「ええ。大半がそう言ったケースなのです。昔から憑き物は、人や、その家に住み憑くと言うかね。狐か鶴か、はたまたキツツキか……それが分かれば、こちらの対処の仕方も変わってくるというものです」


 それから母親は何度も頭を下げながら帰って行った。医者は早速治療に取り掛かった。隔離された娘は、部屋の中で正座し、右手を高く上げたまま、じっと目を泳がせていた。一日中、大体いつもそんな感じだった。時折ゆっくりと動いては、壁や床を右手で小突いていた。


「果たして何に取り憑かれているのか……」


 医者は首をひねりながら母親からの連絡を待った。これまでの経験上、患者に取り付いたが、家にやって来るケースが多々あったからだ。『狐憑き』の娘の家に、自分を人間だと思い込んだ野山の狐が衣服を着て上がり込み、家族とともに夕飯を食べて帰った、なんて事件もあった。


 だがしばらく経ってみても、母親からの連絡はなかった。娘も一向に正気に戻る気配がない。心配になった医者は、母親に電話してみた。


「あっ先生。ご無沙汰しております」

「お母さん、どうですか。その後、家に何かしら、人間に化けた動物などが訪ねて来たりしませんでしたか?」

「いえ、実は……家は壊されてしまったのです」

「えっ? 壊された?」


 医者は驚いた。電話口の向こうで、母親はくぐもった声で頷いた。


「ええ。娘を入院させた後、すぐにショベルカーがやって来て……」

「一体どうしてまた」

「いえ、先生。

 母親はもの哀しげにすすり泣いた。


「『ショベルカー憑き』だったんです。ショベルカーの魂が、娘に取り憑いていたのですわ。それで自分を娘だと思い込んだ重機が、天井を突き破り、夕飯を食べようと……」

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