二十七 黒の依代

「黒猫様は人を殺すと思う?」


 それはよく晴れた夏の日だったか、僕はふとした拍子に彼女に尋ねたことがある。その頃には既に彼女の正体にも感づいてはいたのだが、当時の僕は好奇心と畏怖に刺激されどうしても確かめたくてならなかったのだ。彼女はおかっぱ頭をかしげながら、キョトンとした目で僕を見つめた。


「さぁ……。でも神様は、たとえいい人だろうが悪い人だろうが、連れてく時は連れてっちゃうものよ」


 だから触らぬ神に祟りなし、って言うでしょ。

彼女は左手で僕の右手を触り、そう言って僕に顔を近づけながら微笑んだ。そのつぶらな瞳に映る自分の照れたような怯えたような顔を、未だに僕は覚えている。




 黒猫神社に呪いをお願いすると、黒猫様が祟ってくれる。



 僕が物心ついた時には、そんな噂が既に町中に広がっていた。

黒猫神社というのは都会とは程遠い寂れた僕らの町と隣町の境付近にあって、一見すると何の変哲もないただの神社だ。

敷地内には公民館が併設されていて、夕刻になると付近の小学生がそこでかくれんぼやら野球やらに興じていた。小学校時代の僕も例外ではない。決して大きな神社とは言えなかったが、子供にとっては2m以上ある木造の建築物は首が痛くなるほど巨大だった。僕はかくれんぼの時はよく神社の軒下や、賽銭箱の裏なんかに身を潜めていたのを覚えている。彼女と出会ったのもそんな遊びの最中だった。


 ある日、僕らが4~5人で野球をしていると、賽銭箱の横で頬杖をついてこちらを見ている女の子に気がついた。見たこともない顔で、最初は隣町からきた子だと思っていた。彼女はその頃から浴衣を愛用していて、おかっぱ頭と相まってその姿は神社の風景にとてもよく合っていた。


「ねえ君、一緒に野球しようよ」


 クラスでも一番のマセガキだった小鳥遊が、6回表に突然彼女を野球に誘った時僕らは仰天した。当時小学校高学年だった僕らだが、女の子を野球に誘うなんてあり得なかったのだ。小鳥遊が気取った感じで彼女に手を差し出した。それまで退屈そうにしていた彼女の顔が、パァっと明るくなった。


「いいわよ」


 そう言って彼女は自信ありげに笑ってみせた。こうして僕の代打として黒猫神社市民球場に登場した彼女、八代黒音は、その日に記念すべき第一号ホームランを放ち電撃的なデビューを飾るのだった。



 やがて中学校に進学した僕は、念願だった野球部に入部した。軟式だったが、その練習の厳しさには本当に驚かされた。何しろ始まるやいなや、一年生は500mはあるグラウンドを十周させられる。いきなり5kmのマラソンをしなくてはならないのだ。たまに練習帰りに黒猫神社に寄って彼女に愚痴ると、賽銭箱の横で楽しそうに僕の話を聞いてくれた。


「いいなぁ。私も野球部って入ってみたい」

「君じゃ無理だよ……男の僕だってきついんだから」

「あら、あなたよりは絶対活躍できると思うわ。もう覚えてないの?」


 そう言って彼女は笑った。中学校に入るとあの頃のメンバーも部活に勉強にと思い思いの生活にそれぞれ分かれていった。別に遊ばなくなったわけではないが、流石に神社で野球をしたりすることもなくなってしまった。


 黒音は僕らが中学校に上がっても、浴衣姿のままいつも森林生い茂るその神社にいた。何処に住んでるのかもわからない、僕らも無理に聞き出そうとはしなかった。僕自身は当時から霊感やら第六感なる力は皆無だったので幽霊や超常現象の類は信じてはいなかったが、黒音の存在だけは何となく

「そういうもの」

と説明するほかなかった。


 要するに、「神社にいるもの」。

その正体がいいものなのか悪いものなのか、僕らには判断がつかない。

ただ彼女はその境内野球場で通算26ホーマー、生涯打率.342と、少なくとも仲間内から畏れられていたのは確かである。ただみんな記憶がなくなったわけではないだろうが、中学くらいから黒音の話題をするものは自然といなくなってしまった。こうして今も彼女と交流を続けているのは、僕くらいのものだろう。

 


「じゃあ僕は帰るよ……どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 やがて日が落ち境内の蛍光灯に明かりが灯る頃、僕が腰を上げると、彼女が賽銭箱の中を暗い顔をして覗き込んでいた。入口からはみ出していたしわくちゃの紙に、僕は手を伸ばした。


「××××を呪い殺してください」


 紙には筆で、そう殴り書きしてあった。

××××にははっきりと実名が書かれている。その手の話を信じていない僕にとっても、その言葉には薄ら寒いものを覚えた。


「誰かのいたずらね。変な噂を信じてる人もいるもんだわ」


 僕の右手からスッと紙を取り上げると、黒音はそれを袖の下にしまった。暗がりに照らし出された彼女の表情は、決して笑ってはいなかった。賽銭箱の横に佇む黒音と別れを告げて、石で出来た大きな鳥居をくぐった僕は気になって振り返った。既に彼女の姿は境内になく、蛍光灯に照らされた神社が妖しく黒々とした暗闇にその姿を溶かしていた。

 

 変な噂。黒猫神社に呪いをお願いすると、黒猫様が祟ってくれる。


 黒音はあの紙を捨てずにどうするのだろうか。

 その夜なぜだか僕はそれが気になってしばらく寝付けなかった。




「なぁ斎藤。お前八代町出身だったよな」

「そうだけど」

「黒猫神社って知ってるか。呪いの噂があるんだとか」

「知らないな」


 そう言って僕は教科書をカバンにしまった。

高校生にもなると、交友関係も行動範囲も拡大していくものだ。僕は地元の公立高校に進んだが、そこには別の町からやって来た連中ももちろんいる。


「出るんだってよあそこ。夜中になるとおかっぱ頭の黒髪の幽霊が」

「ホントぉ!? こわぁい!」

「あそこで呪いたい人の髪の毛を黒く染めて供物を捧げると、本当に呪い殺してくれるんだって」

「きゃ~! ウッソ~ぉ!?」


 僕の冷ややかな目を知ってか知らずか、目の前のクラスメイト二人がが呪いの神社の噂で盛り上がっていた。どんな噂が広まっているのか見当もつかないが、噂なんてその程度のものだろう。確かに彼女は幼少から打棒に関しては恐ろしい力を秘めてはいたが……少なくとも人を呪い殺すような真似は絶対しない。 ……そう僕は思いたい。


「フフン。実は成功例もあるんだなこれが」


 得意げになる男子の声を聞いて、僕は思わず顔を上げた。


「成功例だって?」

「お。ようやく斎藤も気になりだしたか?」

「黒音……いや黒猫様が人を呪い殺したっていうのか?」

「黒猫様? 詳しくは俺も知らないよ……ただほら、となりのクラスに高橋っているだろ? アイツが……」


 そう切り出して彼はわざとらしく声を潜めて言った。彼の隣にいた女子が興味深々で身を乗り出してきた。


「あぁ、先月入院したやつ?」

「そう。高橋ってほら、お調子者じゃん。あいつ実は、わざわざ八代町のその神社まで呪いを確かめにいったらしいんだよ」

「マジ!? アホやわぁ……それで? 入院したのは呪いに失敗して自分に返ってきちゃったってわけ?」

「違う違う。あいつ、呪いとか信じてなくて。自分の名前書いて、殺せるもんなら殺してみろって御札を賽銭箱に入れたらしい」

「はぁ!? ばっかじゃあん……」


 そう言って二人は爆笑した。

確かに高橋は自業自得だ。

でも、誰かを呪い殺そうとしなかっただけマシなのかもしれない。僕は中学生の時黒音と二人でみた呪いの紙を思い出していた。


「なぁ斎藤。お前、誰かを呪い殺したい気持ちになったことある?」

「あるよ」


 それだけ言うと僕は二人を残しカバンを引っ張って教室を出た。

誰だって生きてれば人を恨んだり妬んだりするし、そりゃ僕だって同じだ。

もしそんな気持ちを抱え込んで、それを「代行」してくれる、自分の手を汚さずに執行してくれる存在がいたとするならば…それはきっと需要はあるだろう。オレンジ色の景色が徐々に青く暗くなっていく空の下、僕は自転車を漕ぎながら自分の町へと向かった。いつもなら右に曲がる道を、迷った挙句左に曲がる。黒猫神社に寄るためだ。しばらく疎遠になっていた黒音に、どうしても会いたかった。



 夜の神社は何の意識してなくても、背筋に冷たいものを感じてしまう。併設された公民館で集会でも開かれない限り、好き好んで夜中ここにたむろするものなどいなかった。不定期に点滅を繰り返す蛍光灯や、オレンジの交通ミラーが何故だか妙に胸を騒ぎ立てる。時刻は十時を回った。門限まで時間がない。意を決して僕は自転車を押し中に入った。


「黒音……?」


 彼女を探して僕は呟いてみたが、賽銭箱のとなりには誰も居なかった。シン……と静まり返った境内で、僕は一人ポツンと佇んでいた。夜の色に塗られた周辺の木々が、空の深青を覆い尽くさんと風で揺れ動いている。ふと気になった僕は、石畳の階段を上がって賽銭箱の中を覗き込んだ。


 そこには、かつて有ったはずの木の格子が無かった。代わりに箱の中には、たくさんの紙がゴミのように投げ捨てられ、その一つ一つに、「殺す」だの「死ね」だの呪いの言葉と……僕の名前が書いてあった。


「うわっ!?」


 仰け反るように顔を箱から離した瞬間、上に釣り下がられていた鈴がガシャガシャガシャガシャ!!と大きな音を立てて揺れ始めた。僕は背中から石畳の階段を転がり落ちた。鈍器で殴られたような痛みが僕を襲ったが、生憎意識の方はそれどころじゃなかった。


 階段の下で、僕は目の前の社の扉がスー……と開いていくのを見た。そこに、真っ黒な、後ろの景色に溶け込むくらい全身真っ黒な姿をした少女が立っていて。


 縦長の赤い目で僕を睨んでいた。



 そこから先は、あまりよく覚えていない。


 「あれ」を見た瞬間、頭で考えるよりもまず体が動いた。反射的に「あれ」から背を向け、自転車には目もくれず脱兎のごとく全力で走った。中学校の5kmマラソンが、今活きてきたと喜ぶべきなのだろう。気がついたら僕は家の中にいた。汗だくで肩で息をする僕を、両親や妹は不審そうにじろじろと眺めた。その夜、僕は嫌がる妹と無理やりテレビゲームをして遊んだ。三時くらいになって怒った妹が部屋を去っても、僕はまだ眠る気にもなれなかった。 


 どこまでが幻で、どこまでが現実だったんだろうか。置いてきた自転車、賽銭箱にあった僕への呪いの言葉、鳴り響く鈴……そして何より、社から姿を現した「あれ」。「あれ」の姿は、そう、確かに……。何度も瞼の裏でフラッシュバックする映像が、僕の心臓の音を耳の奥でどんどん大きくしていった。




「ほら、怖がってないで行くぞ!」


 前を歩く小鳥遊がイライラしながら僕に舌打ちした。

元はと言えばお前が言い出したんじゃないか。そんな目をしていた。僕は汗だくの左の手のひらで金属バットを握り締め、ゴクリと唾を飲み込んだ。



 僕が夜の黒猫神社で真っ黒な「あれ」と遭遇してから、既に一ヶ月が経っていた。その一ヶ月の間に、

「どうも本当に効果があるらしい」

、そう聞きつけた大勢の人たちが、「あれ」に呪いをお願いしようとこぞって神社に集まってきたという。その話を聞いた僕は、賽銭箱に溢れかえる呪いの言葉を想像し吐きそうになった。姿を一目見れば、誰も「あれ」にお願いしようなんて思わないだろう。「あれ」はきっと話すら通じない。黒音みたいなのとはまた違う種類の「神社にいるもの」なのだ。



 やがて僕らの町だけでなく、周辺の町にまで、「黒猫様」の噂は一種の都市伝説のように広がっていった。誰かが怪我をしたり、病気になったりすると「黒猫様の祟り」だと後ろ指をさされた。

「悪いことをすると、黒猫様に怒られますよ」

そんな台詞が、小さな子供を持つ主婦から囁かれるようになった。


 僕は胃にずっしりと重たいものを抱えていた。

なんでもかんでも呪いのせいにされるのが腹立たしかった。大体とり憑いて呪う神様よりも、その呪いをお願いする人間のほうがよっぽど歪んでるじゃないか。


 神様は、たとえいい人だろうが悪い人だろうが、連れてく時は連れてっちゃうものよ。


 僕はいつぞやの黒音の言葉を思い出した。

いい子にしていれば、世の中全てオールオッケーという訳にもいかないらしい。だけど黒音は、「あれ」とはきっと違う。彼女が神様なのかどうか知らないが、誰彼構わずあっちの世界に引き釣りこんだりしないはずだ。


 要するに僕は、黒猫神社に住む彼女の無実を証明したかったのだ。これ以上地元の神社の評判を上げてんだか下げてんだか分からない状態にするのは御免だ。



 だが一体どうすればいいのだろう。

黒猫様は人を呪ったりしないんだよと皆に言いふらしても、効果があるとはとても思えない。その怪我は呪いではなくあなたの不注意が原因なのですよと指摘したところで、余計怒らせるのがオチだ。途方に暮れた僕は、幼馴染の小鳥遊に電話してみたのだった。


 小鳥遊とは小学校の頃、僕らの中で一番のマセガキだったあの小鳥遊だ。隣町の進学校に行った彼は、高校一年生の身ながら既に大学受験を見据えるという特異な学生生活を送っていた。妙なことに、あの頃一緒に野球を楽しんでいたメンバーでも、合理的で理屈っぽくなってしまった彼だけが黒音のことを覚えていた。ほかの奴らはみな忘れていたり、中には連絡が取れなくなっている奴もいた。


「きっと困っている黒音を何とかしたい」

そう切り出したとき、乗ってくれたのは小鳥遊だけだった。一通り話を聞いたあと、電話越しに小鳥遊は冷静に僕にこう返した。


「だったらお前がみた『黒い女』を、神社から追い出すしかないんじゃないか?」



 こうして僕らは黒猫神社に「あれ」を倒しに行くことになったのである。これっぽっちの霊感もない僕と、神に祈る暇があるなら過去問を解き直した方がマシだと言わんばかりの小鳥遊。そんな僕らが何故ゴーストバスターズの真似事をすることになったのか、未だに理解できない。



 僕は暗闇の中で光る腕時計を覗き込んだ。午後十時まであと十分。僕らは神社のそばの住宅街に差し掛かっていた。「できるだけ同じ条件を満たす方がいい」と、小鳥遊は同じ日付、同じ時刻になるまで神社への「参拝」を待った。メガネをくいっと右手で上げながら、神経質そうに前を歩く小鳥遊が僕を手で制した。この住宅の角を曲がれば、もう神社の入口は目の前だ。


「小鳥遊……」

「シッ!」


 彼が人差し指を唇に押し当てて僕を睨んだ。真面目なのか巫山戯ているのか良くわからないが、とにかくこの男目の前の出来事に集中している。どっちかって言うと僕の方こそ、何だってこんなことをしているのか分からなくなってるくらいだ。


「女が出てきたら……わかってるな」


 若干震えているような、それでも気取った声で彼は囁いた。

僕は頷いた。

計画はこうだ。扉が開いて「あれ」が現れたら、小鳥遊が学校の実験室から拝借してきた「塩化ナトリウム(要するに塩)」と、場合によっては「硫酸」を投げつける。霊的にも、そして物理的にもダメージを与える二重の波状攻撃だ。下手すれば事件に成りかねない。僕は気が重かった。


「それでも相手に効かなかった場合、マタタビをバラ撒きながら逃げる」

「マタタビ?」


 数日前僕の部屋で計画を練っていた彼は、至って真面目な顔でそう言い切った。


「黒猫神社というくらいだから、猫を祀ってあるのだろう。マタタビに気を取られている隙に、神社から出る」

「そんな上手くいくかな……」


 僕は不安だった。

大体神社から出たところで同じ町のちょっと歩いたところに住んでるんだから、どう考えても逃げようがない。


「神様に喧嘩を売るんだから、たとえ地球の裏側だって逃げ場なんてないさ」


 そう言って小鳥遊は気取った笑い方をした。


「……行くぞ」


 静かに夜の神社に僕らは足を踏み入れる。子供の頃の懐かしい思い出に浸っている余裕は今はなかった。僕らはゆっくり賽銭箱に近づいた。懐中電灯で照らされたそこには、やはり誰もいない。


 僕らは無言で目を合わせた。やがて小鳥遊が、ゆっくりと賽銭箱に近づいていく。僕は金属バットと塩化ナトリウムを持つ手をさらに強くした。彼が懐中電灯を掲げ、中を覗き込んだその瞬間……。


「何やってんの?」


 後ろから声をかけられた僕らは、文字通り飛び上がった。

ギョッとした顔で二人して振り返ると、そこに探していた少女……八代黒音が立っていた。相変わらずのおかっぱ頭に浴衣姿だったが、その顔立ちは凛々しく、とても美しい少女に成長していた。変わったことといえば、頭頂部から猫のような耳が生えているくらいだ。




「それで、小鳥遊くんは別の高校に行ってるんだ?」

「ああ。今は二年の秋頃習う教科書を勉強している」

「お前……まだ一年だろ」

「そうだよ」

「ふうん……変なの」


 闇に包まれた黒猫神社で、僕と小鳥遊と黒音の三人は賽銭箱の横に腰掛け会話を楽しんでいた。途方もない緊張感を抱えていたさっきまでの、そのあまりの落差に僕は拍子抜けだった。


「……それで、斉藤くんは」

「え……」


 彼女が僕をじっと見てきた。僕は言葉に詰まった。何というか彼女は……とても平気そうに見える。呪いだとか祟りだとか町中が騒いでいるのに、彼女は何も気にしてないのだろうか。いや……。


「まだ野球やってるの?」

「え……ああ、うん」

「すごーい。硬式と軟式じゃやっぱ違うでしょ?」

「まぁ……」


 歯切れ悪く僕は答える。

何故だろう、僕はあわよくば彼女とおしゃべりできたらと密かに思って此処に来たはずなのに、何か違う。


 僕は彼女から顔を背けて賽銭箱を見つめた。暗がりに浮かび上がった木箱の中には、「参拝者」が持ち込んだ呪いの依頼で溢れている。


「ああそれ。最近じゃ遊び半分で入れてく人も多いのよ」

黒音が静かに言った。

「……これじゃ神社の人も迷惑だろう」

「ええ、だから近々賽銭箱をとっぱらおうかって話も出てるみたい。これ以上良くない噂ばかり広まってもね」

「この神社は……」

「どうでしょう? 誰も信じなくなった神様に、明日の居場所なんてあるのかしら」


 僕はグルッと黒音の方を振り返った。驚いた表情の彼女の前で、僕は唇を噛んだ。


 聞くべきだ。


「あれ」のこと、呪いのこと……。

そして何より傷ついているだろう彼女のことを。

こんな事件が自分の身に降りかかって、悲しんでいない筈がない。だけど僕は聞けなかった。見え見えの平気なふりをする目の前の少女を、どうすれば癒してやれるのか。その時の僕には何も思いつかなかった。真夜中の境内に、気まずい沈黙が訪れる。



「……俺たちもう帰るよ」


 そう言って小鳥遊が立ち上がった。僕も黙ってそれに続く。「またね」と笑顔で手を振る黒音に、出口に向かいかけた小鳥遊が気取って声をかける。


「そうだ。そういえばこの神社って、黒音以外に誰か居たりする?」

「え? いないよ」

「そうなんだ」


 もしかして小鳥遊くん霊感あったりするの!? もう怖ーい。そう言って彼女は笑った。鳥居を抜けて、一番近くの県道に出るまで、僕と小鳥遊は一言も喋らなかった。


「……間違いないな」


 やがてお互いの分かれ道に差し掛かったところで、立ち止まった小鳥遊がポツリと呟いた。


「お前の幻覚じゃなけりゃ、『黒い女』ってのは八代黒音のことだ」


 僕は返事をしなかった。そばの電柱に止まっていた黒いカラスが、バサバサッと大きな音を立てて飛び立った。





 それから僕らが黒音と会って数日後、入院していたお調子者の高橋が急死した。


「呪いだって」

「黒猫様の呪いだって」

「人を殺すんだって」

「黒猫様は、自分からは神社から出れないんだって」

「でも依頼を受けると、どこまでもとり憑いてくれるんだって」

「黒猫様を怒らせたら、呪い以上に怖い罰が下るんだって」


「それで、レギュラーは取れそうなの?」

「無茶言うなよ。まだ一年だぜ」


境内でキャッチボールをしながら、僕と黒音は汗を流した。練習が休みの日は、こうして黒猫神社で自主連するのが僕の日課になりつつあった。まず朝ここに来て、風で散らばった「呪いの依頼」を拾って掃除する。それからキャッチボールにシートノックなど、軽いメニューを彼女に付き合ってもらった。最近の「変な噂」による黒猫神社への悪質な「嫌がらせ」に、とうとう賽銭箱は撤去されることが決まっていた。それでもどこからやってくるのか、相変わらず心無い人たちの「依頼投稿」は続いていたが、これで若干は減らせるだろう。


「黒猫神社の掃除がしたい」


 そう彼女にお願いした時、黒音はしばらく間を置いて嬉しそうに頷いてくれた。どうすればこの悪い流れを断ち切ることができるのか分からなかったが、僕なりに彼女を元気づけたかったのだ。ただ、その際黒音は、妙な提案をした。


「掃除に来るのは週に一回。夕日が沈むまでには必ず鳥居から外に出ておくこと」


 そう念を押された僕は、何も聞かず黙って頷いた。脳裏には、「黒いあれ」の縦長の赤い目がチラついていた。


 光と影が切り離せないように、「あれ」と黒音も表裏一体なんだろう。

それが僕と小鳥遊が出した結論だった。僕らに笑顔を見せる黒音もいれば、人を平気で呪い殺す「あれ」も同じく彼女の中に存在している。どちらが良くてどちらが悪いかなど、結局は人間側から見た価値観でしかない。高橋の死後、僕らの町にはどんよりと重い空気が立ち込めていた。


「もう! どこに打ってんのよ!」


 ポーンと打ち上げた僕の打球は、右にスライスして併設された公民館の向こうに消えていった。外野フライの練習をしていた彼女が、怒ったようにボールを拾いに走った。


「ごめんごめん!」


 僕は彼女が背を向けるのを見届けると、素早く賽銭箱に近づきポケットに隠しておいた紙を木の隙間からねじ込んだ。賽銭箱にこういうことをして、後でどんなバチが当たるのか分からない。触らぬ神に祟りなしと言うが……そもそも最初に触れてきたのは黒音の方からなのだ。



 一通り汗を流し、約束通り夕日が沈む前に僕は鳥居から外に出た。噂によると、黒猫様は依頼を受けるとどこまでも追いかけてとり憑いてくるそうだ。もっとも最近じゃ「依頼」の方が溢れかえっているから、果たしてどんな順番で呪いをかけられるのか分からないが。僕は道端で猫のように目を細めて、しばらく沈んでいく夕日を見送った。



 その晩小鳥遊から電話があった時、僕は風呂上がりで二階の自分の部屋で寝っ転がっていた。「とにかく急いで黒猫神社に来てくれ」と言われ、僕は新しく買った自転車に跨って県道を飛ばした。いきなり効果があったのだろうか。目的地前で急ブレーキし、僕は転がるように鳥居をくぐった。


 足を一歩踏み入れた瞬間、ぐにゃん、と空間が捻じ曲がった気がした。それまでとは違う妙にべっとりとした空気が僕を包む。それでもお構いなしに僕は叫んだ。


「小鳥遊ッ!?」


 返事はない。静まり返った境内に、僕の声だけが響く。僕は賽銭箱へと向かった。


「斉藤君!?」


驚いた顔の黒音が、そこで立って待っていた。僕は息を切らし、流れる汗を右腕で拭いながら彼女に聞いた。


「此処に小鳥遊来なかった!?」

「ううん。来てないよ」


 彼女の右手に、一枚の紙が握られていることに、僕は気がついた。黒音が悲しそうに僕を見つめた。僕も彼女の目から視線が離せなかった。しばらくの沈黙の後……。


「……あれだけ念を押したのに」


 そう言った瞬間、まるで猫のように、ギュンッ! と彼女の黒目が眼孔いっぱいに広がった。グシャッと紙が握りつぶされ、いつの間にか伸びていた長い爪で僕は為すすべもなく喉元を貫かれた。熱い。焼けるような痛みが首から広がっていく。速すぎていつ刺されたのかさえ分からない。視界が真っ黒に染まっていく中、縦長の赤い目がこちらを睨んでいるのを僕は見た。ソイツは口を広げ、僕の首から上に牙を突き立てた。絶命する直前、僕は化け猫が電話で騙して主人公を呼び出す映画の話を思い出していた。


 こうして僕が初めて出した「ラブレター」は、そこらへんの冴えない男子高校生と同じように僕に深い、とても深い傷を与えることになったのだった。






「えー……ここがかつて化け猫が出たと噂の神社です。光雲先生、よろしくお願いします」

「任せなさい。動物霊というのはね、私の得意分野でもあるんだよ。大体相手がどんなことをしてくるのか、手に取るようにわかる。所詮は動物の浅知恵よ」

「流石です先生。なんでもこの化け猫、もとはこの神社に祀られていたのだとか。人を呪う神様なんてのが存在していいものなのでしょうかねえ」

「まぁ君、貧乏神なんてのがいるくらいだから、人に悪いことをする神様がいたって不思議ではないよ。そもそも古来日本では……ってうぎゃああああ!!!」


「どうしました先生!? 先生ッ!? なんだこりゃ……液体?」

「ああああっ!!」

「これは……もしかして硫酸か? 理科の実験室にあるような……ってうがあ!?」

「ああああああ!! 君……君!! ハァ、ハァ……気絶するんじゃあない! やめろ! 寄るな……卑怯だぞ! 動物霊が金属バットで後ろから人間を殴るなんて……ちゃんとルールを……ぎゃあああああ!!」




 静かになった彼らを神社の外に放り投げ、僕と黒音は賽銭箱のなくなった石畳の階段に座り込んだ。あれからすっかり時が立ち、ここもかつての神社とは程遠く寂れてしまっていた。草木は荒れ果て、灯りも途絶え底なしの暗闇に佇む木造物には、猫一匹寄り付かない。それでも噂を聞きつけた輩が、いまでもこうして「依頼」や「妖怪退治」にやってくる。


 疲れた黒音が寝静まったのを感じ、僕は袖からスマホをチェックし未読の「依頼」にザッと目を通した。依頼をこなすかどうかは、猫のように気まぐれな「あれ」次第だ。僕が何故、いつまでこうやって「こんな事」をしてられるかも、所詮は「あれ」の気分次第なのだ。


 それから日が昇ったあと街へ行き、携帯料金を払い、帰りに新しいバットを買った。「姉ちゃん、そんなカッコで野球するのかい?」ショップのオヤジが浴衣に下駄履き姿の僕を見て、目を丸くした。僕は低く喉を鳴らして笑った。


 店から外に出て、降り注ぐ日の光に目を細める。「黒いあれ」と黒音が引き離せない存在だというのなら、せめて彼女だけに苦しい思いをさせたくない。その一心でお願いしたあの日の手紙は、そういえばちゃんと神様の元へと届いたのだろうか。僕は答えのない青い空を見上げた。今日は絶好の野球日和になりそうだ。


 でも日が沈む前までには、ちゃんと鳥居の「内」に帰っておかなくては。

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