十九 健康で文化的な最低限度の小説

 お姉ちゃんには生まれつき、両足がなかった。

 私には生まれつき、心がなかった。


 四つ年上のいすずお姉ちゃんは、私が物”心つかなかった”時からずっと、車椅子に乗って生活していた。幼い時から、私の目に映るお姉ちゃんは足がなくて大変そうで、何をやるにも一苦労と言った感じだった。たとえばご飯を食べる時も、いつもお母さんが横についていた。お口に肉じゃがなんかをお箸で運んでいる時、お姉ちゃんは満面の笑みを浮かべ、おいしそうにそれを頬張るのだった。お風呂に入る時も、寝る時も、生まれつき両足のないお姉ちゃんの隣にはいつも誰かが付いていた。生まれつき心のない私は、いつもお姉ちゃんから少し離れたところで、じっとそれを見ているのだった。


「いすずちゃんは特別だから」

 

 お父さんもお母さんも、よくそんな言葉を口にした。私も何となく、心ないながら、お姉ちゃんは我が家で特別なんだなと、そう思っていた。おじいちゃんもおばあちゃんもみんな、お姉ちゃんを特別に可愛がった。私はいつも黙ってお姉ちゃんの横に立って、それを見ていた。幼い頃。私が車椅子の横に立ち、ゴツゴツした大きな車輪の隙間から席をのぞき込み、お姉ちゃんがそれを不思議そうに見つめ返す表情を、心なしか今でもよく覚えている。


 お姉ちゃんには生まれつき、両足がなかった。

 私には生まれつき、心がなかった。


 顔も姿もそっくりな私たちだったが、二人とも、ざんねんながらどこかが欠けて生まれてきてしまった。だからこそ、お互い足りないところをおぎなって、支えあって生きていかなくてはならない。えらいお医者さんにそう言われたから、きっとそうだ。私は心がないから、心あるお姉ちゃんを傷つけてしまわないように、いつもお姉ちゃんを気にかけていた。


 だけどいつからだったろう。ちょうど私がお姉ちゃんを見下ろせるくらい背が伸び始めたその頃から、お姉ちゃんはだんだんと変わっていった。お姉ちゃんは、”わがまま”になった。


「拾ってよ」


 ある日のことだった。

 その日はお父さんもお母さんも仕事で帰りが遅くなり、私がお姉ちゃんの横について夕食を食べさせていた。私がご飯のかたまりを箸でつまんでいると、突然テーブルから食べかけのシャケを床に放り投げて、お姉ちゃんはそんなことを言った。

「…………」

 私は最初意味が分からず、突っ立ったまま黙ってつぶれたシャケを見ていた。お姉ちゃんが苛立たしげに、もう一度「拾ってよ」と言った。ようやく意味を理解した私は、表情を変えないまま腰を落とし、形の崩れたシャケを素手で掴んだ。足元の赤いじゅうたんに、シャケの油が滲み出て黒ずんだ汚れを作っていた。


 私はテーブルの下から顔を出し、拾ったシャケを自分のお盆の脇に乗せた。もう食べられないと思ったからだ。お姉ちゃんは不機嫌そうに身を乗り出し、もう一度シャケに手を伸ばすと、今度はそれを思い切り窓に叩きつけた。

「…………」

「拾ってよ」

 つぶれたシャケは鈍い音を立て、窓の下に落ちた。透明な窓ガラスにべっとりと残る油の跡と、楽しそうに笑うお姉ちゃんの顔を、私は黙って交互に見た。


 それからお父さんとお母さんが帰ってくるまでに、私は床や窓を掃除しなければならなかった。結局お姉ちゃんには、床に落ちてない私のシャケを食べさせた。全てお姉ちゃんに、そう言われたからだった。お姉ちゃんが”わがまま”になってから、そんなことが、度々続くようになった。


 心ない言葉に聞こえるかもしれないが……私はお姉ちゃんが、心ない私なりに大好きだった。

 お姉ちゃんのようになりたかった。

 

 私にも心があれば。

 

 突然癇癪を起こして、身の回りにあるものを誰かに投げつけても怒られないのだろうか。

 「私はこういう人間だから」と、周りが自分に合わせるように強要できるのだろうか。

 相手のこともよく知らないくせに、平気で傷つける言葉を投げつけて笑えるのだろうか。


 私にも心があれば。お姉ちゃんのように、振る舞えただろうか。

 だけど、私には周りと同じように人の心がないから、一体なぜお姉ちゃんがそう振る舞うのかさえ、いつまで経っても分からなかった。分からないことが悲しくて、私は心ない自分を嘆いた。


 またある日のことだった。


「ムツミちゃん」


 小学校から帰ると、突然お姉ちゃんに手招きされた。お姉ちゃんは生まれつき足がないから、私とは別の、隣町の特別な学校に通っていた。今日は休みだったのだろう。お姉ちゃんがうれしそうに私を呼び止めた。私は急いでお姉ちゃんのそばに駆け寄った。心ある人間のゴヨウを、心ない私がジャマしてはならない。お父さんとお母さんは、二人とも仕事で日に日に家に帰るのが遅くなっていた。お姉ちゃんは私に耳を貸すように促した。


「ムツミちゃんの心、見つけたよ」

「えっ」

 私は目を丸くしてお姉ちゃんを見つめた。お姉ちゃんは、いたずらっ子のようにかわいらしい笑みを浮かべた。お姉ちゃんは本当に、楽しそうに笑う。心ある人間は、笑うのが上手だ。

「ムツミちゃんの心、お父さんとお母さんが押入れの中に隠してたの。来て」

「…………」

 お姉ちゃんが顎で後ろの部屋を指し示した。私は言われるがまま、お姉ちゃんを押して押入れの前まで運んだ。着いたのは、仏間だった。仏間はお父さんとお母さんの寝室だった。仏間をのぞくと、線香の匂いがプンプン漂って来た。


「そこよ」

「…………」


 入り口の前で、お姉ちゃんが指差した。車椅子に乗っているお姉ちゃんは、畳に上がるのを嫌がった。私は黙って仏像の横の押入れを見つめた。


 あそこはお父さんの大切なものが金庫にしまってあるから、絶対に開けてはいけないと教えられていた場所だった。あそこに私の心が……。お父さんとお母さんが、誰にも触られないようにしまっている大切なものとは、私の心のことだったのだろうか。急に胸が締め付けられるような気分になって、だけど心のない私は、その感情をなんと呼べばいいのか、名前も付けられやしなかった。


「あそこにムツミちゃんの心があるんだよ」

「…………」


 車椅子に座ったいすずお姉ちゃんが、私を見上げながらそう言った。私は心がないから、とても奇妙な顔をしていたと思う。お姉ちゃんが私を見てクスクス笑った。私はふらふらと押入れに近づいて行った。恐る恐る押入れに震える指を伸ばし、触ってはダメだと言われていた襖に手をかけた。

「あっ」

 次の瞬間、私は声を上げたと思う。

 そこから先はあまり覚えていない。気がつくと私は空から降って来た大量の布団に押し潰されていた。私は苦しくて、息が詰まりそうになった。畳の上で下敷きになりながら、私はお姉ちゃんのケラケラと笑う声を遠くの方に感じていた。ようやく布団から這い出して来た時には、私は息も絶え絶えになっていた。下手すれば窒息していたかもしれない。おそらく押入れの上に布団もしまってあったのだろう。今日の朝、無理やり押し込んだので、開けると上から布団が落ちてくるのをお姉ちゃんは知っていたのだろう。お姉ちゃんの笑い声が、私の耳の奥にへばりついた。


「……何よ?」

「…………」


 ようやく立ち上がり、私はお姉ちゃんをじっと見ていた。お姉ちゃんがそれに気づいて、怪訝そうな顔をした。私は心がないから、とても奇妙な顔をしていたと思う。


「布団、しまっときなさいよね。二人が帰ってくる前に」

「…………」


 お姉ちゃんは面白くなさそうにそう言うと、自分で車椅子を操作してどこかに行ってしまった。一人残された私は、黙って布団をたたみ始めた。

「…………」

 しょうがない。だって私には心がないから。

「…………」

 お姉ちゃんには足がないし。毎日とっても苦労しているし。私には心がないから……。

「…………」

 ないからできることも……ある。



「お姉ちゃん」

 またある日のことだった。その日もお父さんとお母さんは仕事で遅くなって、夜まで帰って来ない日だった。私はお姉ちゃんの”真似”をして、できるだけ楽しそうな笑顔を作って見せた。

「何よ?」

 ベッドで寝転んでいたお姉ちゃんが、面倒くさそうに顔を歪ませた。心なしか、私の足は震えていた。

「お姉ちゃんの足。どこにあるか私、見つけたよ……」 

 そう言って、私はお姉ちゃんを抱え上げた。

 

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