十八 マザーテレサ
『たかしー! ご飯よー!!』
階段の下から、家中に響くような大声が飛んでくる。
僕は「うるさいなァ。今ちょうど良いとこだったのに」などと思ったが、それは口に出さずに、「はァい!」と負けないくらい大きな声で返事をした。
『早く食べなさい! 冷えちゃうわよ!!』
「はァい!!」
モタモタとテレビの前にかじりついていると、下から第二波が聞こえてきた。僕は仕方なくやりかけのゲームを手放し、一階のリビングへと降りて行った。
「お、ちょうど良かった。今秋刀魚が焼けたところだよ。ちょっと待っててな」
リビングへ行くと、エプロン姿の父さんが僕の姿を見つけてぱあっと顔を明るくさせた。僕は炊きかけのご飯の匂いに鼻をヒクヒクさせながら、黙って母さんの遺影が飾られた、その横に座った。
「いただきます」
「いただきます」
しばらくして僕と父さんは夕食と、それから母さんに手を合わせた。家族で食事をする時は、そうするのが僕の家のルールだった。僕は母さんの写真の前でムニャムニャと、考え事をする、フリをした。
僕の母さんはもうこの世にはいない。
僕が生まれるのと同時に、死んでしまった。
だから僕は生涯、写真や動画でしか母さんの姿を見ることがなく、その声を聞くことはない……ハズだった。だったのだが……これこそ母親の愛が生んだ奇跡と言うべきか、それとも単なる嫌がらせなのか……物心ついてからと言うもの、僕にはずっと母さんの『声』が聞こえていた。
どうやら僕には生まれつき、霊感があったらしい。
と言っても、幽霊の姿がはっきり見えるでもなく、たまに妙な声が聞こえるくらいだが……そのおかげで、僕には死んだ母さんの『声』が聞こえた。とはいえ聞こえてくるものと言えば、やれ『宿題は終わったの?』だとか、『靴下を丸めて洗濯機に入れないで!』だとか、小言ばっかりなのである。これには僕も参った。宿題も終わらせずにゲームをするのは確かに怖いが、でもそういうことじゃ、ない。この姿なき『声』に反論しても大抵は何も返ってこないが、いつだったか、試しに『少年ジャンプ』を買ってきてとお願いしたら、翌週『少年マガジン』が机の上に置かれていた。そうじゃ、ない。
「明日は母さんの命日だな……」
食事中、父さんが俯いたままポツリと呟いた。あいにく父さんには霊感はなく、『声』は聞こえないらしい。
「……明日は、お花買ってこような」
しばらくして、父さんがそう声を絞り出した。僕は急にメガネが曇ったフリをして、Tシャツの端で必死にレンズを拭い、しばらく父さんの方を見ないようにした。
その日の夜のことだった。僕は部屋の中から聞こえてくる、微かな物音に目を覚ました。いつの間にか窓が空いていて、淡い月明かりが部屋に差し込んで来ている。その月明かりの先に、青白い顔をした女の人が立っていた。
『たかし……』
僕は息を飲んだ。
白いカーテンがそよ風に揺られ、命ある生き物のように、ふわりと部屋の中で踊った。小さく呟かれたその声は、いつも聞いているあの『声』と同じだった。幽霊の姿を見るのは初めてだった。僕は布団に潜り込んだまま、突然現れた幽霊に目を凝らした。隣に住む大学生のお姉ちゃんと同じくらいで、友達のお母さんより大分若く見えた。そう言えば、母さんが死んだのは、そのくらいの歳だって父さんが言ってたっけ……。
「お母さん?」
僕はのそりと起き出し、急いで枕元のメガネを探った。幽霊はしばらく黙っていたが、やがて悲しそうに俯いた。
『ごめんね……』
「……どうしたの?」
『お別れを……言いに来たの』
「お別れ?」
幽霊は黙って、首からぶら下げた小さな砂時計を指差した。砂時計の砂が月明かりに照らされて、星の瞬きのように光った。中の青い砂は、ほとんど下に落ちていて、上に残っている『時間』は少なかった。幽霊が、今にも泣き出しそうな顔でほほ笑んだ。
『最後に謝りたくって……』
「お母さ……」
『黙っててごめんなさい。私はあなたの……本当のお母さんじゃないの』
僕はしばらく黙って、幽霊を見つめていた。
……薄々気づいていたことだった。
そもそも僕の名前は『たかし』ではなく『ゆうすけ』だ。メガネを嵌めて見た顔つきも、生前の母さんの写真とは、何だか違っていた。
『私、生前どうしても子供が欲しくて……それで、騙すようで悪いとは思ったんだけど……』
幽霊が心苦しそうに声を絞り出した。僕も、僕の方こそ、彼女が僕を『たかし』と呼ぶから、その間は『たかし』に成りきって過ごしていた。
『貴方の、本当のお母さんには悪いと思っていたんだけど……でもどうしても』
「気にしなくて、いいよ」
僕は幽霊にそう呟いた。本当はもっと気の利いたことを……今までありがとうとか、本当のお母さんみたいで嬉しかったとか……たくさんのことを言いたかった。でも、それ以上何も出てこなかった。
『……ありがとう』
最後にそうほほ笑んで、幽霊は消えた。
後には、開け放たれた窓から差し込む月明かりと、下側に降り積もった青い砂時計だけが残った。僕はしばらく部屋の中で突っ立っていた。死後の世界や、幽霊に一体どんなルールがあるのかは、僕には分からない。でも、今夜でお別れだと、僕にも分かった。もう彼女の『声』は聞こえない。『お腹冷やさないように、ちゃんと布団被りなさい』とか、そんな『声』はもう飛んでこない。
僕は急に、何故かメガネが曇って、Tシャツの端で必死に目元を擦った。
布団の中に潜り込みながら、明日は二人分、お花を買ってこようと僕は思った。
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