第12話 独歩の貴女

 ティエール湖南に広がる平原から、北東方向へ緩く勾配が続くその頂上付近に、相手方の騎馬の群れが佇んでいる。

 圧倒的に不利な立ち位置だと、クレア・ディーニーはそのおよそ一千ほどの敵軍騎士団を丘の上に見上げながら、思う。

 同時に、不利だからこそ、胸の奥から沸き立とうとする熱を感じる。


 ―――覚悟。


 その言葉を頭の中だけで呟き、クレアは熱を抑え込んだ。


 敵騎士団が現れたのは一刻ほど前だった。それだけの時間があれば戦局に有利なあの丘の上に陣取れたにも関わらず、従軍する王国軍一万は、丘を見上げる今のこの位置で行軍を止め、陣を張った。

 クレアは、官軍の指揮官が敢えて不利な立ち位置に軍を留めたその意図を、推し量れずにいた。或いは、そもそも何か狙いがあるわけでもなく、ただ陣の敷きやすいこの場所に安直に依った、経験の浅い将の愚決なのかと、勘ぐりもした。

 いずれにせよ恐らくそれは、あの男の指示だと、官軍の中にあって指示を出す、若い騎士に目を向ける。


 その男は、ティエール湖岸に王国軍が到着する直前に、大柄な騎士と共にたった二騎で合流した。そして大柄な騎士と一部の官軍が隊列を離れた後、湖南のこの位置に軍を配したのだ。

 状況から察するに、その若い騎士の指示であることは明白だ。

 まだ豊富とは言いがたいクレアの経験に照らしても、若い騎士のこの采配は、悪手にしか感じられなかった。


 そう。

 豊富とは言えない、経験。

 女の身でありながら髪を切り落とし、齢十七で戦場に立ってからの、十年。

 それが、クレアの経験の全てだ。

 経た時間をもって語るのなら、確かに豊富とは言えない。

 ただその時の中で過ごした日々の濃密さは、重い。

 そしてそれは、クレアが血縁を断ち切った、クレア自身の、来歴でもあった。



 ◆



 クレアは王領の東端、アウレリオ領と隣接する一帯を治める、王家直参の名家、ルーウィン家に生まれた。

 父ドミニクは、第一子であるクレアが女児であったことに対し、母アビーに責がない事は承知しつつも、露骨に落胆の色を見せ、遠回しに、苛んだ。


 母アビーは、生まれながらに病弱な体質だった。

 そして追い討ちをかけるように、心も、弱いひとだった。


 ドミニクの振る舞いに、アビーは毎日のように泣いた。

 クレアを胸に強く抱き、泣いた。

 クレアを愛でるためではなく、少女が人形を抱きしめ悲しみを紛らわせるような、自身の内側だけに向けられた感情で、強く、容赦なく、クレアを抱いて、泣いた。

 だから母の泣き声や嗚咽は、耳ではなく、身体から、音ではなく、震えで、幼いクレアに伝った。

 まだ自我すらない頃だ。

 クレアにその頃の記憶はない。

 ただその震えは、身体が本能的に覚えている。

 その震えが示す意味も、身体が、知っている。

 幼な子のクレアは、随分と早い段階から、泣かない子、になった。


 五歳になった頃、ドミニクはクレアに、訓練用の木剣を握らせるようになった。

 その頃アビーは、更に身体を弱らせ、心もまた、よりいっそう衰えて、年の半分以上をベッドの中で過ごすようになっていた。それでも、いや、だから、クレアを枕元に呼び寄せ、身を寄せて、震え、泣く、という習慣は続いていた。

 アビーがもう世継ぎを産むことの叶わぬ状態になってしまった事は、ドミニクの振る舞いを更に硬化させ、そしてその諦めの悲痛は、クレアにぶつけられた。

 

 「女の身で我がルーウィン家の世継ぎとなるのなら、膂力で叶わぬ分、技で相手を蹂躙する必要がある」


 ドミニクはその常套句を弁明代わりに、訓練と称して毎日、クレアを木剣で打ち据えた。

 幼いながらもクレアは、父のこの日課が決してクレアを鍛えるためではない事を感じとっていた。とは言えそれを、疎むこともなかった。


 木剣で打ち据えられる痛みの方が、母のあの震えから強いられる痛みよりも、遥かに乾いていて、陰湿さもなく、何より命という熱の塊のようなものに対して、直線的で、直接的だった。その単純さが、心地よくもあった。

 だからクレアは打ち据えられながらも、剣技に没頭した。

 そこまでぞんざいに扱われておきながら、どこか、父の淡い期待に答えたいという想いもあった。

 根拠はわからない。けれど、父に自身の存在を認めてほしいという欲求が、何故か、その時のクレアの中にあった。


 齢十二を数える頃になると、元々剣の結び合いより、王都での政争に奔走することの方が本懐だったドミニクは、クレアを相手にすることが手に余るようになった。

 クレアには、才があった。

 持って生まれた俊敏さも、器用さも、それを助けた。

 いつからか、どう身体を捌き、捩り、そこから生じる筋肉や骨のしなりに乗せて、どう剣を振るえばいいか、理屈ではわからないが、感覚では、掴めるようになった。


 そもそもクレアを本気で世継ぎにとは考えていなかったドミニクにとって、それは嬉しい誤算だった。

 その頃、自領の南端、南海湾を望む断崖の僻地に住んでいた、かつて赤の騎士ヨハン・グジョンセンの師でもあったという、剣聖ジョシュア・ディーニーに、ドミニクはクレアを預けた。彼の元で研鑽を積めば、それこそ本当に、女の身でありながらも、世継ぎを任せられるという野心を、ドミニクは抱くようになっていた。


 家を発つ時、クレアは、当時ほぼ寝たきりとなった母の元を離れることに、どこか後ろめたさを感じていた。が、人に唯一誇れる剣技を更に磨けるという感慨と期待の方が、遥かに大きかった。何より父に認められたことが、嬉しかった。

 母は出立の日に号泣したが、クレアは振り返らなかった。

 身を寄せられた時に強いられる、あの震えから、痛みから、初めて解放された気がした。


 「お前の剣は素直すぎる。お前に足りないのは、後はもう、経験と覚悟だ。ここでこれ以上学べる事はない」


 ジョシュアの元に身を寄せ、五年が経った頃、ジョシュアはそうクレアに告げた。

 それまでジョシュアと立ち会って、一度も打ち負かすことができていなかったにも関わらず、そんなふうに突き放されることには、納得がいかなかった。


 「傲るなよ。誰がどれだけ研鑽を積んだとて、お前に限らず、誰も、あのヨハンですらも、儂には敵わん。そもそも打ち負かそうという性根があるかぎり、何人も、儂には敵わんのだ」


 詰め寄っても、ジョシュアはそう言って、乾いた笑い声をあげるだけだった。

 

 ジョシュアの旧知という、カサンドロスとの紛争地帯で一軍を率いる、スコット・ムーアという男の元を、ジョシュアと共に訪れたのはその頃だった。

 その時初めて、クレアは戦場に立った。


 経験と覚悟。


 ジョシュアが最後にクレアに教示したかったものが、そこには溢れていた。


 ジョシュアと何度も繰り返した、疑似の立ち会いとは全く別の、重く湿った綿のような重圧が、相対する敵兵の振りかざす剣から伝わる。

 気を抜くと、のっぺりとしたその重圧の間隙から、鋭く、素早く、狡猾で乾いた殺意が、クレアを貫こうとする。

 時には、ねばついて、ある意味縋るような執念が、クレアの身を地に縛り付ける。

 それらの相容れないはずの人間の様相が、その地ではない交ぜになって、津波のように容赦なく、クレアに向けて押し寄せてきた。


 ジョシュアに度々救われながらも、クレアはその無秩序な感情の波の中を生き抜いて、気づく。

 隠れることも逃げ出すこともできない場所で剥き出しとなった命は、あらゆる矛盾を飲み込んで、いかようにも変容して、見栄も、建前も、恥も、正義も、名誉も、そんな表向きだけの人の思惑など踏みにじり、ただひたすらにことに、執着する。


 それが人間の本性だ。

 ルーウィン家の屋敷の中では決して得ることのできない、触れることも窺うことも叶わない、生の在り方だ。

 それが、醜いまでの素直さが、心地いい。

 クレアはその本性に酔った。

 感情のうねりの中で剣を振るい、他愛もない執着を絶ち切る事に、恍惚とした。

 無意識に笑みさえ、浮かべていた。

 

 「飲まれるなよ」


 引き留めたのはジョシュアだった。


 「無防備に人間の本性に曝される。それが経験だ。曝されても、その心地好さを悟ってもなお、流されず、飲まれず、踏み留まって心を治める。これが覚悟だ。その覚悟の先に、本当の強さはある。強くあれ、クレア。それがお前が背負うべき業だ」


 ジョシュアの言葉は、クレアの胸を鷲掴んだ。

 言葉の意味するところではない。

 言葉を発するジョシュアの立ち位置が、だ。

 真正面から、或いは上段から、時に下段から、それまでクレアに向けられてきた言葉の群れ。

 ジョシュアのそれは違う。

 クレアの横に立ち、クレアと同じものを見据えながら、発せられる言葉。

 初めてだった。

 そんな位置から発せられた言葉を受け止めるのは、初めてだったのだ。

 何かが、クレアの肺腑を衝いた。

 熱く、ぎらついていて、でも柔らかい、何か。

 父ドミニクに寄せていた根拠の掴めない敬慕も、母アビーに抱いていた情動も、その熱で、情けないくらいに弱々しく、消し飛ぶ。


 頭の後ろで髪を束ねていた革紐を、解いた。

 戦場を抜ける饐えた匂いを孕んだ風に、クレアの長い銀髪が靡く。

 それを後ろ手に束ねると、血でくすんだ剣身で断ち切った。

 そして、断ち切った髪の束を、空へ放る。

 それらは一瞬だけ風を淡く銀色に染めて、そして消えた。

 それまでクレアが背負ってきた、ルーウィンとの血縁と共に。

 以来、師の、ディーニーの姓を名乗った。



 ◆



 敵騎馬団の佇む丘の西側を回り込むように、敵本体とおぼしき一団が姿を現す。

 王国軍はそれに相対して、逆三角に陣を張る構えを見せた。


 あのカサンドロスとの紛争地と同じ空気が、じわりと平原に降りてくる。

 クレアの中でまた、妙な熱が疼き始める。


 ―――覚悟。 


 改めて師ジョシュアから与えられたその言葉を、胸の中でひとりごちる。

 熱を、静める。


 「妙だな」


 その時、クレアからは少し離れたところで、そんな声が上がった。

 振り向くと、あの暴漢を斬り伏せたダレン・ウォレスに、ローリーと呼ばれていた男がいた。

 その男が抱く違和感に、クレアは興味を惹かれる。


 「どのあたりが?」


 唐突に問いかけたクレアに、男は少し驚くような素振りを見せたが、すぐにもとの、何かを訝しむような表情に戻し、自軍の陣にまなざしを向けた。


 「俺たち義勇兵は謂わば、捨て駒のはずなんだ。指揮官からすれば、本来なら盾がわりに俺たちを最前列に並べて、官軍の消耗を抑える方がどう考えても良策なはずなのに、逆に官軍が俺たち義勇兵を囲うように、陣を張ってる。特に妙なのは左翼・・・」


 言ってローリーは自軍の左側を指差す。


 「あの一角はほぼ官軍だ。しかも一部は騎馬を降りて、歩兵として構えている。つまりあそこだけ、この軍の中で異様に強度が高い」


 「鋭いですね」


 不意に、背後で声がした。

 振り向くと、指揮を執っていたあの若い騎士が目の前にいた。

 若い。

 頬にわずかにまだ、その若さを証明するような丸い線が残っている。


 「あなた達が早暁の団ですね」


 笑みながら、その若い騎士が問う。

 無言でローリーが頷き返す。


 「その左翼に、あなたたちも張ってもらいます」


 言って、男の笑みは挑むようなそれに変わった。

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