第09話 慮外の傍輩
グレン・ワイズのいる学都ルシンバラへ続く街道は、ヘルムスリー山脈の峠道を抜けると、王都ヴィクターズ・ワーフを経由して海に流れ出るマーロウ川沿いを、緩やかに曲がりくねりながら伸びていた。
ジェレミーは、起伏のない大地をゆったりと流れる川面を見据えながら、鼻から深く息を吸い込んだ。
生まれ育った山の、樹々と湿った土とが発する青臭さとは、全く異なる匂いが鼻の奥をくすぐり、僅かに胸が高鳴った。
アーリアの護衛という、不本意な役回りを押し付けられたとは言え、あの退屈な山の中での日々を抜け出せた事は、少なからずジェレミーを昂らせた。
「もう少しですね。日暮れまでには、ルシンバラに着ければいいんですが」
ジェレミーの数歩後ろを歩くアーリアが話しかけてくる。
猟師小屋を出てからここまで、何度かこうやってアーリアから声をかけられていたが、その都度、生返事しか返せていない。
それでも腐らずに、アーリアは声をかけ続けてくれるが、その気遣いに応えられない自身を歯痒く思いはしても、どう接すればいいか、ジェレミーにはよく判らなかった。
思い返してみれば、ルベン以外の誰かと二人きりで、ここまで長い時間一緒にいた事が無いのだ。そもそも、人との向き合い方というものが、根本的に判っていなかった。
「そうだな」
だから口から漏れる言葉はやはり、淡白なものになってしまう。それでもアーリアは、ジェレミーの返答がどんなにそっけえないものでも、変わらずに柔らかな笑みを返してきた。
アーリアの置かれた今の境遇を考えれば、そんな風に笑う事の難しさは、人の心情を察することに疎いジェレミーにも、それとなく判る。
攻め落とされた自領。
消息の分からない父と兄。
ただ追手から逃げることしかできない今のこの状況。
絶望しかない。
でも、彼女は笑うのだ。
その健気さに応えられない事が、ジェレミーに罪悪感を抱かせる。それを振り切りたくて、ジェレミーは少し歩調を早めつつ、思考の矛先を変えた。
お前を鍛えたのは彼女を守る為。
そうルベンは言った。
旅立ってから三日、ジェレミーはずっとその言葉の真意を探っていた。
以前からそれが決まっていたかのようなルベンの口振りが、いやに気にかかった。が、結局のところ何をどう考えても、何の情報も持ち合わせていないジェレミーの思考は、空回りするだけだった。
空虚な物思いにふけりながらしばらく進むと、街道が東と南とに分岐した。道標には、南は王都ヴィクターズ・ワーフ、東がルシンバラとあった。
南へと続く街道は、ここまでと同じようにマーロウ川と並走して、草原と点在する麦畑とを分かつように地平線の向こうへと伸び、東に続く街道は、少し先にある林へと伸びている。二人は、道標の示すまま、東へ伸びる街道を進む。
夕刻が近付いていた。
陽の光は薄っすらと橙の色を帯び始め、長く伸びた自分達の影は、行く手の林の中へまで届いていた。
街道が潜る林に近付いた時、ジェレミーはふと違和感を覚えた。
その林は、やけに静かだった。
鳥の囀りが聞こえないからだと、暫くして気付いた。この刻になれば、野鳥達は羽を休める為に樹々に据えた巣に戻るはずだ。その囀りが聞こえないと言う事は即ち、この林の中に、誰かが潜んでいると言う事になる。
そのまま歩を進めようとしていたアーリアを、腕を差し出して制した。
「どうかしました?」
不思議そうに、アーリアが尋ねてくる。
「様子がおかしい。ちょっとここで待っててくれ」
言って、林の入り口にアーリアを留まらせ、ジェレミーは自分だけで林へと足を踏み入れた。
その違和感の正体は、すぐに察する事が出来た。
数歩踏み込んだところで、少し先の街道脇の茂みに、人の気配を感じた。何者かに待ち伏せられている。
ジェレミーは、アーリアと出会った時の事を思い出す。
アーリアは、ヴァンボローの兵に追われていた。それが、ジェレミーが討ち取った二人と、ルベンが斬り伏せた二人だけと考えるほうが不自然だった。他にも追っ手が差し向けられているのであれば、ヘルムスリーの峠を抜けたこの辺りで待ち構えられていても不思議ではない。
いつでも剣が抜けるように、右腕に神経を集中させる。
気配を感じる藪に近付いた時、案の定、茂みを突き破る音と共に、人影が二つ飛び出してきた。
ジェレミーは手前の人影が振りかざした剣筋を読み、すっと半身を引くと、自身の剣を抜くと同時に、振り下ろされる相手の腕を薙ぐ。
相手の両腕が飛ぶ。
それに戸惑うその相手の首筋を、すかさず返す剣筋に乗せる。
相手の首が飛び、首を失った身体が崩れ落ちる。
倒れた相手の先にもう一人の相手が見える。
すぐさま、剣先を向けて踏み込む。
相手が剣で顔を隠すが、剣と腕の隙間の喉元へと、僅かに軌道を変え、切っ先を突き刺す。
肉に剣が突き刺さる柔らかな感触が、掌に伝わってくる。
剣を引き抜くと、乾いた呻き声と共に、もう一人の相手も、血の溢れる喉を押さえながら崩れ落ちた。
目の前に倒れた二人は、ジェレミーとさほど歳の変わらなそうな、若い男達だった。そして、前にアーリアを追っていた、明らかに騎士然とした連中とは全く様相が異なっていた。この二人は、ヴァンボローの追っ手ではないだろうと察する。
その時不意に、もう一つの気配を感じ、男達が飛び出してきた藪に視線を向けた。姿は見えないが、間違い無くもう一人、そこに潜んでいる。
ジェレミーは血のこびりついた切っ先をその藪に向け、言った。
「まだやる気なら、相手になる」
するとすぐに、やはり襲いかかってきた連中と同じ年頃の若い男が、両腕を上げ、すっと藪の中から出てきた。
年端は恐らく同じ程度なのだろうが、斬り伏せた二人と比べると、随分と小柄な男だった。だからなのか、その男が背負った大弓が、やけに不釣り合いに見えた。
「お前は、そいつらの仲間か?」
剣先を男に突きつけたまま、ジェレミーが問いかける。
「連れではあるけど、俺は無理矢理付き合わされただけなんだ。あんたに抵抗する気はないよ」
掲げた両の手を小さく横に振りながら、男が答える。
「何故俺を襲おうとした?」
「その二人は、時々ここでこうやって旅人を襲って、金品を奪ってたんだ」
「野盗か?」
「そういうわけじゃない。一人はこの辺りの地主の息子だし、本当に金に困ってた訳じゃないんだ。こいつらの悪癖だよ」
そう小柄な男が答えた時、甲高い悲鳴が聞こえた。
林の入り口の方、つまり、アーリアを待たせていた方角からだった。
「お前、他に仲間は?」
ジェレミーは咄嗟に、小柄な男に尋ねる。
男が首を横に振るのを見ると、すぐさま振り向いて駆け出した。男も、ジェレミーを追うようについてくるのが、気配で判る。
林の入り口で、アーリアが誰かと揉み合っているのが見える。
ジェレミーは、踏み込む足を更に力ませ、アーリアの元へと急ぐ。が、辿り着く前に、揉み合っている相手が振り下ろした手刀がアーリアの延髄を打ち、アーリアが崩れ落ちるのが遠目に見えた。
その何者かは、アーリアを素早く横に従えていた馬上に担ぎ上げると、自身も飛び乗り、そこから走り去った。
林の入り口に辿り着くと、アーリアを担いだ騎馬が、草原を西へと走り去っていく。
「くそっ」
短く叫び、ジェレミーは剣を地面に突き刺した。
一人にするべきではなかったと、今になって後悔する。
と、その時、追いついてきた小柄の男が、おもむろに背負っていた大弓を構えた。
鏃の先は、草原を駆ける騎馬に向けられている。
「待て!アーリアに当たる」
ジェレミーは咄嗟に、男の引く弦を掴んだ。
「それはあの担がれた女の人?大丈夫。その人には当てないから」
小柄の男はあっさりとそう言うが、信用はできない。構えたその大弓で、それ程に繊細に狙った標的を射抜けるとは思えなかった。それでも、男は草原を走る騎馬を見据えたまま、たじろがない。
「このままだと、射程から出るよ。逃がしていいの?」
弓を構えたまま、男が言う。
視線は、草原を走る騎馬を見据えたままだった。
その眼差しの淀みなさに、ジェレミーは思わず手を離した。
刹那、男が矢を放つ。
それは緩く放物線を描いて、まるでそこへ吸い込まれるように、馬を駆る男の頭に突き刺さった。
男がアーリアを担いだまま、馬から崩れ落ちる。乗り手を失った馬だけが、更に西へと駆け去って行く。
ジェレミーは小柄な男を一目だけ見やると、すぐにアーリアの元に駆け出した。
倒れ込む男を押しのけて、アーリアを抱え上げる。
「すみません・・・、また、私・・・」
アーリアは薄っすらと目を開け、苦しそうにそう答えた。
「今のは、俺が悪い。お前を一人にするべきじゃなかった」
言うと、アーリアはふらつきながらも立ち上がり、弱々しく笑んだ。
「優しいんですね、ジェレミーは」
アーリアのその言葉に、ジェレミーは思わずたじろいだ。優しいなどと、誰かに言われた事がなかったからか、すんなりとその言葉を飲み込めず、すぐに次の言葉を継げなかった。
「そんな事はない」
少し間を置いてから、ぼそりと、そう返すのがやっとだった。
「あんた、足速いな。全然追いつけないよ」
背中に声がぶつかった。振り向くと、ようやく追いついた小柄な男が、息を切らせて、そこに立っていた。
「お前のおかげだ。助かった」
ジェレミーが言うと、男は得意げに目を細める。
「弓の腕だけは、その辺の猟師にも、アウレリオの紛争地にいる弓兵にも負けないよ。で、一つ提案がある」
男は一転して、真剣な眼差しをジェレミーに向ける。
「俺を雇わないか?」
突然の男の申し出に、ジェレミーは思わず眉をひそめた。
「この人は?」
アーリアがジェレミーと男とを交互に見ながら尋ねてくる。
「さっき、あの林の中で俺を襲ってきた奴だ」
「襲ったのは俺じゃない」間髪入れずに、男が否定する。「本当に俺に敵意があるなら、その人を助けたりしないだろう?」
それは確かにその通りなのだが、そもそも、自分を襲おうとした輩と共にいたこの男が、何故アーリアを助けたのか、その真意が判らなかった。だから、アーリアを救ってくれた事への謝意はあるものの、男の申し出をすんなりと受け入れる訳にもいかなかった。
「あんたが疑ってるのは判る。だからとりあえずは、あんたらに付いてくのを許してくれないか?それで信用できるとあんたらが認めてくれたら、その時に改めて正式に雇ってくれればいい」
食い下がってくる男の対処に困り、ジェレミーは助けを求めるように、アーリアを見やる。
「私を助けてくれたのも、事実なんですよね?」
アーリアの問いかけに、ジェレミーは頷く。
「きっとこの先もこういう事が起こるだろうし、人手は多い方が良いと思うんですが、どうですか?」
「あんたがいいと言うなら、俺は構わない」
ジェレミーが答えると、アーリアは微笑んで小柄の男に手を差し出した。
「私はアーリアと言います。彼はジェレミー」
「セオだ」
差し出された手を握り、男は名乗った。
アーリアは敢えて家名を伏せたのだと、ジェレミーは少ししてから気付いく。さすがにアーリアも、この男を警戒はしているのだ。
「今、私たちはルシンバラのある人の元に向かってます。とりあえず、そこまで付いてきてもらっていいですか?」
「ルシンバラなんて、すぐそこじゃないか。その後はどうするの?」
「その先は、私達にもまだどうなるか判らないんです。それからの事は、その目的の人に会ってから決めましょう」
セオは無邪気な笑みを浮かべて、頷く。
そこに、邪な影は感じられない。
悪い男では、ないのかもしれない。
セオに対する警戒は、確かに怠れない。が、もし仮に彼が信用できうる人物なのであれば、心強い事は間違いない。
あの大弓で、あの距離の動く標的を正確に射抜ける腕は、この先また追っ手に襲われた時、きっと役に立つ事があるだろう。
ジェレミーは、ルシンバラのある東の彼方を見やる。空は、向かいくる夜の藍色に染まり始めていた。
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