第10話 計略の兵団

 濃い霧と夜の闇に包まれた海岸沿いを、ダビド・ミクーが指揮を執る船団が北上する。


 兵団の輸送用に造られた巨大な帆船には、千の兵が乗り込んでいる。それが三艘、縦に連なり凪いだ海上を静かに進んでいく。


 断崖の続く海岸線が、ほんの少し窪んでいる地点が、霧の向こう側におぼろげに見えてくる。あの場所が恐らく、手引きされた上陸地点だろう。


 ダビドは操舵士に、無言でその場所を指し示す。

 操舵士は頷き、舵を右へ切った。


 ダビドの乗る先頭の帆船が、ゆっくりと船首を断崖の窪みへと向ける。他の二艘もそれに続き、湾状に抉れた海岸へと入っていく。


 湾の先、上陸地点に指定された、この辺りでは唯一の砂浜に、篝火らしき橙の光が見える。それに向けて、ダビドは船を進めさせる。


 手引きでは、この浜でヴァンボロー軍と落ち合う手筈になっていたはずだ。が、ダビドは浜に近付くにつれ、違和感を覚える。暗闇でまだはっきりとは確認できないが、人の気配がしないのだ。


 まさか謀られる事は無いだろう、とは思う。

 今、ヴァンボローはこのアングリアの地で孤立しているのだ。ダビドらベルジュラクの援護無く、このままアングリア王国に反旗を掲げ続ける事が出来るわけが無い。


 それでも、違和感は拭えない。

 船が浜の直前まで来ても、案の定、篝火は動く事無く、その周りに人の気配も無かった。


 無言のまま指を差して、ダビドは下士官に指示を出す。それを受けた下士官が上陸用の小舟を次々と降ろして、兵を乗せていく。その内の一艘に、ダビドも乗り込んだ。


 浜に乗り上げられた小舟から、兵達が浜に飛び降りる。ダビドはその兵達の間を縫いながら、篝火へと駆け寄った。やはり、その周辺には人影がなかった。


 おかしい。

 そう思って自身の乗っていた帆船を振り向いた時だった。


 周囲を囲む崖上の方々から、炎の光が上がった。かと思うと、その炎は無数の光の筋となって、湾内に入った三艘の帆船に向けて降り注いできた。


 火矢だ。

 そう悟った時には既に、船の帆が炎に包まれていた。


 それまで静寂に包まれていた海上が、兵達の悲鳴で騒然とし始める。


 「全軍、早急に船を降りろ!」


 ダビドは咄嗟に叫ぶが、兵達の阿鼻叫喚にその声は掻き消され、統制が取れない。

 混沌が、湾内に広がっていく。


 ヴァンボローの裏切りとは考え難い。

 であれば、この姿の見えない相手の正体は、アングリア軍なのか。


 ヴァンボローとの密約では、アングリア軍はロチェスター領の東部に引き寄せられているはずだ。ダビドは頭の中で状況を整理しようとするが、ままならない。


 その時、砂浜の先の、なだらかな斜面の上から、鬨の声が聞こえた。恐らくは敵軍であろう。待ち伏せられていたのだ。


 「隊列を整えろ!」


 再びダビドは声を張り上げる。

 が、やはり兵達の混乱は収まらない。

 むしろ暗闇の先から響く姿の見えない相手の鬨の声で、更に混乱は増していた。


 収集がつかないままの兵の群れに向けて、闇の向こうから無数の蹄の音が近付いてくる。


 「貴様ら、落ち着くんだ!陣を敷け!」


 もう一度、ダビドは兵達に呼びかけるが、ダビドのすぐ側にいた数名が一瞥を投げただけで、声の届いたその者達ですら、隊列を組もうとする素振りすら見せず、逃げ場のない湾の中の砂浜を右往左往するだけだった。


 「くそっ」


 ダビドはひとり、剣を抜いて背後から迫ってくる蹄の音に向かって振り向く。

 

 そこで、意識が途切れた。


 ダビドの首が、夜の闇と炎の光とで紫に染まった夜空に、飛んだ。



 ◆




 薄っすらと白み出した砂浜のあちこちから、燻んだ煙が上がっている。


 そこから立ち昇る人の肉が焦げる饐えた匂いと、海風に乗った潮の匂いとが混じり合い、湾内は独特な臭気で満たされていた。


 まだ微かに息のある瀕死の敵兵に、配下の兵達が次々と剣を突き立てて止めを刺している。弱々しい呻き声が、方々から上がる。


 スコット・ムーアは、首のない敵将の骸に腰掛けて、朝食代わりの干し肉を噛みちぎりながら、その光景を眺めていた。


 ―――思ってた以上に、フィルは成長したと言う事か。


 干し肉を奥歯ですり潰しながら、今回のこの奇襲の策を立てた、主君アシュリー・モンフォールの末子、フィルを思う。


 ベルジュラクの密行、その上陸地点、そしてその地での有効な戦術。


 全てが、フィルの思い描いた通りとなった。

 どこか半信半疑なところもあったが、ここまで的中されては、フィルの軍略家としての手腕を認めざるを得ない。

 ただそれがあの、グレン・ワイズの指導の賜物であると思うと、スコットは素直には喜べなかった。


 五年前、フィルがアウレリオ領の東端、敵国カサンドロスとの戦場を離れるきっかけになったのは、当時、紛争地各所の要衝の悉くを抑えられ、カサンドロス優勢に大きく傾き出した戦局を挽回するため、軍略の補佐役としてグレンが派兵されてきた事だった。


 確かに、グレンの差配には目を見張るものがあった。

 戦地に赴いてきて僅か数日で、不利だった戦局は一変し、奪われた拠点を奪還するに留まらず、元々はカサンドロスの拠点だった要衝のいくつかまでをも攻め落としたのだ。


 フィルはその差配に強く惹かれたようで、戦局を挽回させ、拠点であるルシンバラに戻ろうとしたグレンに、師事を仰ぎたいと申し出た。


 フィルにはどこか、自身の体躯の脆弱さや、覚束ない剣の技量に負い目を感じているような節があった。フィルがグレンのような軍略家に師事を申し出たのは、その事実から逃げるためのように、スコットには思えてならなかった。それが正直なところ、気に入らなかった。


 グレンに着いて戦場を去ったのは、確かにフィルの逃避行だったのかもしれない。

 しかし三日前、今回の策を立てた時のフィルの眼差しは、当時からは想像もつかない自信と意思の強さを放っていた。


 スコット自身がフィルの成長に携われなかった事に複雑な思いはある。が、結果として、グレンの元に彼が赴いたことが、彼の軍略家としての才を花開させたのなら、主君の末子の成長を、本来は素直に喜ぶべきなのであろう。




 三日前、スコットはフィル、黒の騎士ハリル・チャハノールらと共に、リーズの要塞にいた。


 フィルが問題ないと断言した通り、この要塞を攻め落とす時、イアン・ロチェスターやダミアン・ドイルが懸念していたような敵軍の反抗はなく、その殆どが西回りに南方へと逃走した。イアンがしきりに恐れていた青の騎士も、この地には居なかった。


 「それでフィル、何故ここまで抵抗がないと判ったんだ?」


 要塞内の評議室の卓を囲った途端、椅子に腰掛ける間も無く、まず訪ねたのはハリルだった。


 「そもそも、今回のヴァンボローの独立宣言には、二つ不自然なところがあるんです。そこから辻褄を合わせていくと、色々と想定できます」


 二人に椅子を促しながらフィルが答える。


 「一つは、独立を宣言する理由にするには、エリナー・ヴァンボローの死は弱すぎる、と言う事です。これについては、何かしら他の真意があるんでしょう」


 「他の真意?」


 ハリルが更に問うが、フィルは首を横に振る。


 「今の時点ではそれが何かは判りません。推測するには材料が無さ過ぎます。僕が今回の状況を想定するのに影響したのはもう一つの点。その真意がどうあれ、独立宣言が無謀すぎる、と言う事です」


 ハリルが鋭くフィルを見据えながら押し黙る。

 言われてみればと、スコットも今更ながらに気づく。

 ヴァンボローの侵攻があまりにも急すぎて、大局を見落としていた。


 「その表情なら、お二方ともお気付きかと思いますが、ヴァンボローが王国と他の三領主を相手にするには、戦力が足りなすぎるんです。王政麾下の兵力だけで三倍、仮に領主を失ったロチェスターがすぐに軍を起てられないとしても、我がモンフォールや、サー・ハリルのアウレリオの勢力も鑑みれば、この叛乱は成功するはずがありません。但しそれは、単独での宣戦であるならば、です」


 スコットは思わず息を呑んだ。

 フィルの言う〝単独での〟の部分が、妙に耳に妙に引っかかった。

 一つ呼吸をしてから、尋ねる。


 「それは、他領も反旗を掲げると言う意味か?」


 「いえ、今の情勢を鑑みれば、それはないでしょう。まず間違いなく、国外勢力です」


 「カサンドロスか、ベルジュラク」


 今度はハリルが呟くように言う。

 フィルが頷く。


 「おそらく後者です。これも、根拠は二つ。単純にカサンドロスはモンフォール、アウレリオの二つの他領に隔たれていて、ベルジュラクとは容易に西の海を介して繋がれる、という地理的な面。そして、東方で未だに弛緩した紛争をもう何年も続けているカサンドロスは、実は今となってはそれほど本気でアングリア侵攻を考えていないんです。未だに紛争を続けているのは、国民への政治的建前の思惑が強いでしょう。だとすると今回、この機を好機として、ヴァンボローと組む野心があるのは、あのカサンドロスとの合従軍以降、不気味に静観を続けている、ベルジュラクになるのは必然です」


 スコットは深く、少し震えた溜息を吐く。

 この反乱にベルジュラクが絡んでくるとなると、想像以上に大事になる。


 「しかしそれが、この地のヴァンボロー兵があんなにもあっさり引き下がった事と、どう繋がるんだ?」


 そう問いかけて話題を引き戻したのは、ハリルだった。


 「あの逃げ去った軍は囮なんです」

 「囮?」

 「これを見てください」


 言って、フィルは卓上に地図を広げる。それは、アングリア全土が収まった地図だった。

 地図の下部には、西の外海から地を真っ直ぐに東へ抉った南海湾があり、そのさらに下部に、ベルジュラク領の北岸が記されている。


 「まず、ヴァンボローとベルジュラクとが密約を結んだとするなら、南海を挟んだベルジュラクの戦力を大量に引き入れるのには、ここ、アプナー・ショアの制圧が不可欠です」


 フィルは、地図の左下を指し示す。

 大陸南西の軍港街アプナー・ショアは、ロチェスター領の南西の端、南海の入り口に位置していた。


 「但し、ここはヴィクターズ・ワーフからも近い為、単純に抑えようとしても、王国はすぐに兵を寄せる事ができます。なので・・・」


 フィルは指し示した指を、そのまま右上へと動かす。


 「ロチェスター領の北東、今僕達がいるリーズ、そしてトリングの砦。ここが要所になります。ここは王都へ続くフルーム川を、侵攻の水路として得られる戦術的利点があり、我々としてもヴァンボローに抑えさせたくない。なのでヴァンボローがここを狙うとなれば、我々も相応の戦力を割かざるを得ない・・・」


 「ただしそれは、ヴァンボローが単独で叛乱を起こしていることが前提で、ベルジュラクと組むのであれば、逆にヴァンボローにとってここを抑える価値は殆ど無い。むしろアプナー・ショア陥落に全戦力を注ぎ込むのが自然だ。それで、囮か」


 フィルの言葉を継ぐようにハリルが言い、フィルが頷く。


 「戦力の分断です。王政麾下の兵団をここに向かわせ、アプナー・ショア陥落の為の時間を稼ぐことが目的なんでしょう。今頃ヴァンボローの主力はこちらには向かわずに、そのまま南下しているはずです。そして彼らはアプナー・ショアを性急に落とす必要があるので、このリーズへ囮として配置した兵も、可能な限り本隊へ引き戻したいはずなんです。だからリーズ進軍の姿勢を見せ、王家の兵をある程度の規模でここへ向かわせることができたのなら、目的は達成です。無駄にここで戦い、戦力を削ぐ道理はありません」


 スコットにも、段々と状況が読めてくる。ただ一つ、気にかかる事がある。


 「その事に、ロード・イアンは気付けなかったんだろうか。いや、ベルジュラクとヴァンボローとの密約は置いておいて、あの兵達が囮であったり、青の騎士などいない、と言うことに、だ」


 スコットの問いに、フィルは少し躊躇った表情を浮かべる。


 「あの二人はヴァンボローに内通しているって事だろう?で、俺たちを欺き、王都へこのリーズへの援軍を要請した。この地に王国の兵を寄せるために」


 フィルの心中を代弁するように、ハリルが言った。フィルは曖昧に頷く。


 「はっきりとした証拠があるわけじゃないんですが、多分そうなんだろうと思います。恐らくロード・イアンは、ヴァンボロー占領下のロチェスター領主を約束されたんでしょう。あの人の領土継承権は、ロード・カールの嫡男、アレックスに次ぐものですから、現実的に領主を継ぐ事は不可能でした。今回のような事態に陥らない限りは」


 「ヴァンボローからしても、占領後にロチェスターの諸侯を引き込むには、イアンを立てた方が都合がいいしな」


 ハリルがそう補足すると、フィルは頷いて同意した。


 「で、儂らはどうすればいい?王都からの援軍は、もうここへ向かっているんだろう?」


 仕切りなおすようにスコットが尋ねると、フィルは地図に目線を落とした。


 「いえ、援軍は既に、ここへ向かっています」


 フィルは、アプナー・ショアの北西の地点を指した。そこで、スコットはフィルの従者、ケビンがこの場にいないことに気付く。


 「ケビンを向かわせた?」


 フィルが頷く。


 「彼にはふたつの封書を持たせ、昨夜のうちにここを発たせています。一つは、王都からの援軍の目的地を、この、ヴァンボロー主力の南進を阻む地点へ変更させる為のものです」


 フィル指したのは、ヴァンボローに陥落されたロチェスター領都ストックハムと、アプナー・ショアの中間にある、ティエール湖南岸だった。


 「もう一つは、サー・スコットの本隊の向かう先を、ここへ変更させました」


 今度は、更にアプナー・ショア寄りの、海岸線を指した。


 「ヴァンボロー主力の勢力だけでは、王都からの干渉が入る前にアプナー・ショアを落とすことは不可能です。なので必ず、ベルジュラクの先行軍を、まずは数千単位で引き入れるはずです。その時、上陸させるとすれば、この地点以外に考えられません」


 そこはアプナー・ショアの少し北の海岸線、特に街も拠点も無い場所だった。


 「アプナー・ショアからこの地点までの海岸線は断崖が続いています。それがここで小さく湾状になって、その湾の最奥は砂浜になってるんです。アプナー・ショアから近く、数千単位で兵を上陸させるなら、間違いなくここからです。ヴァンボローの主力がここでそのベルジュラク軍と合流して、一気にアプナー・ショアを攻め落とすつもりなんでしょう」


 フィルは地図の上に置いた指を少し右上にずらす。


 「王都からの援軍一万に、ティエール湖南岸でヴァンボロー主力に圧力をかけて行軍を遅らせるので・・・」


 次に地図からすっと、視線をスコットに向ける。


 「サー・スコットはこのアプナー・ショアの北岸に向かって下さい。サー単騎での機動力なら、ベルジュラク上陸前までに間に合うでしょう」


 今度は、ハリルに向き直る。


 「サー・ハリルは、敵本隊と援軍とがぶつかるこの地点へ僕と向かいましょう。恐らくここにこそ、青の騎士がいます」


 ハリルは腕を組み、小さく唸りながらフィルに異を唱える。


 「騎馬だけのサー・スコットの隊は間に合うとして、俺らの軍は敵本体の南方まで回り込めるだけの猶予があるのか?敵軍は一万の行軍とはいえ、さすがに間に合わんだろう」


 フィルは横に首を振る。


 「いえ、向かうのは私とサー・ハリルだけです。今ここにいる兵はこのまま南西へ進ませ、途中で合流するケビンに指揮を執らせます。この隊はこの隊で、別の任務があります」


 「別の任務?」


 「それはいずれ判ります。とにかく今は、急いでここを発ちましょう」


 ハリルは小さく、自分を納得させるように頷いた。




 その後、フィルの立てた仔細な奇襲の策を聞き、フィル達とはリーズで別れた。

 ベルジュラクを討ったこの地にヴァンボロー軍の姿が未だにないという事は、ひとまず足止めには成功したという事なのだろう。


 「サー、大方片付きました」


 副官のニールが声をかけてくる。

 手に持った剣は血で赤黒く染まっていた。


 「兵を集めろ。サー・フィルの援護に向かう」


 ニールはその命に小さく一礼を返すと、散っていた兵達に号令をかける。


 ―――俺が行くまで、無茶はするなよ。


 北西の風を仰ぎながら、スコットはそう願う。

 青の騎士の存在が、胸の奥をざわつかせた。

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