第08話 諦念の射手

 王領の北東、王都ヴィクターズ・ワーフへと続くマーロウ川沿いの街道。

 西方のモンフォール領から東へと延びるその街道が、南と東とに分岐して、東側のルシンバラ方面へ少し進むと、草原の中にぽつりと浮くように、小さな林がある。

 そこが、ニール・マクマネマンとジョー・ボイルが、〝狩場〟と隠喩する場所だった。


 ルシンバラは学術の都として栄える街で、必然的に街道のこの場所を通る者は、学に通じる事はあっても、武には疎い者が殆どだった。

 暇をもて余すと興味本位で、旅人を襲って小銭を得ていたニールとジョーにとって、この林は、標的の質も遮蔽された環境も、他には無い格好の〝狩場〟だった。


 標的は、必ず殺した。

 逃がした標的に、この場所が二人の狩場だと触れ回られる事を危惧した為だ。

 その目的を必達する為に、二人は必ず、〝狩り〟にはセオ・カーライルを引き連れていた。標的を逃しそうになった時、弓術に長けたセオに射抜かせる為だ。


 セオ自身は、二人のこの所業に付き合わされる事を、本来、望んではいなかった。が、そうせざるを得ない事情があった。


 ニールの出自であるマクマネマン家は、この辺り一帯の土地を所有する大地主で、ニールに従者のようについて回るジョーの一家も、セオの母も、この周辺に点在する集落に住む殆どの民と同じく、マクマネマン家の土地を借り、そこを畑として細々と生業を立てていた。

 ニールに反抗しようものなら、ニールを溺愛する彼の父に、その土地を問答無用に取り上げられてしまう。事実そうやってこの地を去らざるを得なくなった人間を、セオは何人も知っていた。


 そんなセオの母が死んだのは、数週間前だ。


 もともと病弱な人だった。

 アウレリオ領の紛争地に向かい消息を絶った夫が、いつか帰ってくるという、誰が考えても叶いそうにない未来に、縋るように生きていた人だった。


 数ヵ月前、その父の形見とされる銀の腕輪が、戦場から送られてきた。

 母はそれを受け取って泣き崩れ、そのまま寝込み、そして、か細く揺らいでいたろうそくの火が風に吹き消されるように、静かに逝った。


 不思議と、セオに悲しみはなかった。

 母を好いていなかったわけではない。が、不謹慎にも、独り身となった身軽さに、昂ぶりを感じていたからだ。


 それまで、母を悲しませないために多くの事を耐えてきた。

 二十歳を迎えてなお、このマクマネマン家の呪縛に囚われた村に居残っていたことも、本来望んでいない田畑を耕す日々に身を費やしていたことも、母のためだ。

 ニールの暇潰しの余興に付き合っていたことだって、母が拠り所にしていた母の田畑を、ニールの父の理不尽な要求で、失わせないためだけだった。


 自分一人が生きていくだけなら、その必要はない。

 セオは農夫になりたいわけではない。

 父と同じようにアウレリオの紛争地や、先頃起こったと聞く、ヴァンボローの反乱に対抗した募兵に応じれば、自分だけが生きるための糧には困らない。

 むしろ、幼いころに父に手ほどきを受けたこの弓術に依る生き方を、生きざまを求めたいと言うのが、密かに抱いてきた、セオの本心だった。


 だから、ニールのこの下らない所業に付き合うのも、そもそもマクマネマン家の呪縛の中で、この片田舎の土地にしがみついてもがき生きていくのも、今日が最後だと、セオは密かに決意していた。



 ◆



 その日は、昼前から夕刻間近になるまで張っていたものの、標的には全く出くわさなかった。もう今日は諦めようと、ジョーがニールに進言したその時、林の藪の中に潜んでいた彼らの視界に入ったのは、大柄の、でも恐らくはまだ若いであろう男だった。


 「どうする?あれは止めておくか?」


 ジョーが声を潜めてニールに尋ねる。

 体躯だけを見れば、それなりの使い手に見えなくもない。このまま見過ごして、次を狙うのも悪くない、と言う意図からだった。


 「いや、行くぞ」


 が、ニールはジョーの提案を否定した。

 いつものニールであれば、大抵は見過ごす様相の相手だ。

 家柄に恵まれ、本当は金銭に困ることの無いニールにとって、この〝狩り〟はあくまで余興だ。だからこそ、勝ちを確信できる相手しか襲ってこなかったのだ。あれは、あの男は、明らかにそういう類いの相手ではなかった。


 とはいえ、今日一日ここで張っていて、夕刻間際になってようやく姿を現した標的だった事が、ニールを焦らせたのだろうと、セオは思った。

 そしてこの男が、この所業や、この村や、母が枷となって強いられてきた、これまでの生き方に、終止符を打つ存在なのではないかと、予感した。


 だからセオはニールを止めなかった。

 止めたところで、ニールがそれを受け入れるとは思えないが、それ以上に、ここでニール達が返り討ちにあう事も、それはそれで、ありなんじゃないかと考えた。

 自分も巻き込まれて犠牲になることも、含めて。

 それくらい、自分のこの先の生に、自棄になっていた。


 標的の男が、三人の潜む茂みに近づいてくる。

 ニールとジョーは屈んだ体勢のままそっと剣を抜き、身構える。


 ジョーが唾を飲み込む音が、僅かに聞こえてくる。

 緊張が膨らみ過ぎているのだ。

 恐らくはジョーも、襲うべき相手ではないと感じているのかもしれない。が、彼もまた、ニールの決断を覆す事が出来る立場ではなかった。


 標的が正に目の前を通り過ぎようとした瞬間、ニールとジョーは剣を振りかざしつつ、藪の中から飛び出した。

 いつも通り、相手の不意を突いたと思えた。が、違った。


 若い男はまるで、襲い掛かられる事が判っていたかのように、二人が飛び出すと同時に二人に向き直り、すっと半身を引くと、素早く腰の剣を抜いた。その所作の流れでそのまま、剣を薙ぎ上げる。


 剣筋の軌道にあったジョーの両腕が、剣を握ったまま、飛ぶ。


 何が起こったのか、瞬時に飲み込めていないジョーの表情が、両腕を失った痛みに歪もうとした刹那、今度はその首が、身体から切り離された。


 ジョーの身体は、首のないままに数歩小さく歩いてから、崩れ落ちた。


 男は流れる動作のままに、今度はニールに向かって踏み込む。


 ニールは咄嗟に剣を顔の目の前で構える。

 が、その剣とニールの腕の隙間を縫うように抜けて、男の突き出した剣の切っ先がニールの喉元に突き刺さる。


 乾いた呻きが、ニールの口から漏れる。


 男が剣を引き抜くと、ニールの首に空いた赤黒い穴から、湧き水のように濃い血の赤が溢れ出した。

 それを留めようとニールは首元を両手で押さえるが、血は止まる事なく、ニールの指の隙間から滴り落ちる。

 その体勢のまま、ニールは前のめりに倒れた。


 瞬きをする余地すらない、一瞬の事だった。

 セオは何もできないまま、ただ、藪の中からその一部始終を眺めている事しか出来なかった。


 男は徐に、藪の中で身動きの取れないでいるセオに向き直り、切っ先を向けた。


 「まだやる気なら、相手になる」


 男が、藪に潜むセオに向けて言った。

 向けられた切っ先から、ニールのものか、ジョーのものか、赤黒い血が滴り落ちた。


 このまま出て行って、見逃してくれるのかどうかは判らなかった。が、斬り伏せられるのならば、それはそれでいいとも思った。


 母はもうこの世になく、恐らくは戦場で果てたであろう父の行方も知れない今、この場所で全てが終わっても、思い残す事はない。


 セオは両手を上げて立ち上がると、藪の中から歩み出た。

 起こり得るであろう全てを覚悟して。

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