第06話 暗躍の宗徒

 礼拝堂の最奥に祀られた全ての母、オルネラの像を見上げ、教皇ウィルトーレ・ポッツォは、深く溜息を吐いた。


 「聖下、まだ聖櫃がヴァンボローの手に落ちたと決まった訳ではありません。仮にそうだとしても、彼らは恐らく、何も知らないでしょう。今回の侵攻もあれを狙ってのものだとは思えません」


 ウィルトーレのすぐ背後に控えていた、枢機卿フアン・グラティアーニは、落胆に沈むウィルトーレの背にそう語りかける。


 ウィルトーレはフアンを振り返ると、再度、深い溜息を吐いた。


 「我々は、全ての信者の信仰を護らなければなりません。その為には、僅かな憂慮も放置しておく訳にはいかないのです」


 「仰る通りです」


 ウィルトーレの言葉に、フアンは深く頭を下げる。


 「やはり聖櫃は、どのような方法を採ってでも手元に置くべきでした。ラウラの再臨は絶対に避けなければななりませんから」


 そうウィルトーレが言い切らぬうちに、礼拝堂の扉が開いた。入ってきたのは、白く塗り込められた鎧を纏った、聖騎士団の長、テオドール・ダリダだった。テオドールは二人の下まで歩み寄り、跪く。


 「密偵からの報告が届きました。聖櫃はヴァンボローの手に落ちてはいませんが、ロチェスターからは持ち出されたようです」


 「行方は?」ウィルトーレが尋ねる。


 「不明です。今、更に密偵を増やし、その所在を追っております」


 テオドールの返答にウィルトーレは更に落胆の表情を色濃くし、再びオルネラ像を見上げた。


 「母オルネラよ。聖櫃を我が手元にお導き下さい。あなたの娘、ラウラの怒りを鎮められるのは、我らだけなのです」


 呟くように言って両手を組み、ウィルトーレは祈った。その声は、三人だけが立つ、広い礼拝堂に小さく反響し、尾を引くように僅かな余韻を残して、消える。


 「聖下、案じずとも、いずれヴァンボローの謀叛は鎮圧され、そうなれば聖櫃は、主を失ったロチェスターに戻るのではなく、王都ヴィクターズ・ワーフに持ち込まれるでしょう。そこを押さえればいいのです」


 ウィルトールの背に諭すように言って、フアンはテオドールに向き直る。


 「テオドール、王都へ入り、聖櫃が持ち込まれるのを待ちなさい」


 テオドールは無言のままフアンに礼を取ると、素早く立ち上がり、礼拝堂を出て行った。


 「聖下、とにかく今は、封の儀式の準備を進められますよう」


 判った、と意するように、振り向かぬまま片手を上げ、ウィルトーレは再び、呟くように祈り出す。


 フアンはウィルトーレの背に一礼すると、踵を返して、自身も礼拝堂を後にした。


 礼拝堂をでると、そのままフアンは足早に、隣接する洗礼堂へ向かう。素早く辺りを見回して、自身を見る人影がない事を確認すると、入り口脇の使用人用に建て付けられた小扉を潜るように抜ける。そこから地下へと続く狭い階段を小走りで駆け降り、その突き当たりの、湿気で黴臭い匂いを漂わせる、古びた木の扉の前で立ち止まった。


 フアンが二度、三度、二度と扉を小突くと、内側からそれは開いた。


 「やはり、聖櫃は持ち出されましたか、猊下」


 中から貴族然とした装束の男が、顔を覗かせる。


 「むしろ好都合です、ロード・ローレン」フアンは身体を滑り込ませるように部屋に入ると、後ろ手に扉を閉めた。「所在が不確かな方が、奪った後の誤魔化し方も易くなりますから」


 「それはその通りです。が、猊下はあれを奪った後、いかがなされるおつもりか。ラウラ再臨が叶えば、私の願望は叶うにせよ、教会の立ち位置が危うくなるのは必須。その先の猊下のお考えを、私はまだ伺っておりません」


 ローレンと呼ばれた男は、敬う様な口振りの中に、猜疑の色を覗かせる。


 「あなたはこの国がかつて経験したことのない、未曾有の混沌を求めている。それは、ラウラ再臨で叶うでしょう。ロード・ローレン、私も、それは同じなのです。教会は一度、壊してしまうべきだと考えているのです」


 「壊す?これは異な事を」


 「ヴァリ教は、その教えも信仰も、熟れ過ぎてしまった。ここ数十年、信仰の本筋では無いラウラやジョルジオの偶像が、各地に建てられ過ぎた」


 「その二人に焦点が当てられる歴史書第三巻は、劇詩的で大衆受けが良いですから」


 ローレンが付け足すように言った言葉に、フアンも頷く。


 「民衆が信仰に飽き、聖典の伝える本質を見失っている。私はそれを正したいのです。そして、ここまで歪んでしまった信仰を正すためには、奇跡に頼る他、ありません。例えそれが、世に混沌を生む奇跡であったとしても、です」


 言いながらローレンを見据えるフアンを、ローレンも真っ直ぐに見返す。

 その目からはまだ、猜疑の色が消えていない。


 「私が今、最も危惧しているのは、我々にその力が御せるのか、という事です」


 「恐らくは、難しいでしょう。しかしそれで良いのです。壊すとはつまり、そういう事ですから」


 フアンは、自身で発したその言葉の指す真意に慄くように、そしてそれを打ち消すように、強く頷く。

 ローレンもその意を汲むように、頷き返した。


 「聖櫃捜索の為の“草”は、さらに増員して放っております。ヴィクターズ・ワーフにあれが持ち込まれる前に、必ずや猊下の元にお届け致しましょう」


 ローレンの誓いにフアンが頷くと、ローレンはフアンが入ってきた側とは別の、更に奥にある扉から、部屋を出ていった。


 しばらく間をおいてから、その扉に向けて、フアンは呟く。


 「彼もまだ若い・・・か」


 ヴァンボローの起こした混乱に乗じて聖櫃を手にすることはできなかったものの、それ以外は概ね、フアンの思惑通りに事が進んでいる。

 ローレンもまた、然り、だ。

 後は、そのローレンか、ティアドールのいずれかが、聖櫃をここへ持ち込んでさえくれればいい。

 あれが、王の手に渡りさえしなければ。


 「老獪というか、下劣というか」

 

 その時、意図しない声が背中にぶつかり、フアンは慌てて振り向いた。

 フアンが入ってきた扉の前に、いつのまにか、長身の男がたっていた。


 緩く波を打つ黒い長髪。

 顔の下半分を薄く覆う無精髭。

 全身を包む外套は摩り切れ、腰の辺りからは、やたらと長い剣の柄がはみ出している。


 「ユルゲン、あなたですか」


 その声の主が誰であるか判ると、フアンは胸を撫で下ろした。

 ユルゲン・ブレーメ。

 フアンの子飼いだった男だ。


 「あいつに任せておいていいのか?聖櫃の何たるかも判ってないんだろう?」


 「あなたが気にやむところではありません。それより、教会籍を失ったあなたが、ここをうろつくのはよくありませんね。私の指示通り、ドロローサで待機していて下さい」


 その言葉に、ユルゲンは鼻を鳴らす。


 「ただ待ってるってのは、どうにも性に合わなくてな。俺が聖櫃をここへ運んでくるってのは、どうだ?」


 「ユルゲン」


 フアンは、ユルゲンの語尾に、僅かに怒気の籠った声を被せる。

 ユルゲンは観念するように両手を上げて苦笑を漏らすと、部屋を出て行った。


 それを見送り、フアンは大きく息を吐く。


 今、フアンの中にある一抹の不安は、どうにも御しきれない、このユルゲンの動向だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る