第04話 亡国の公女

 悲鳴と怒号。

 あらゆるものが焦がされる臭気。

 肌を引きつらせる熱風。


 そのどれよりもまず、瞳に焼き付く炎の赤が、アーリア・ロチェスターの記憶に、鮮烈に刻まれていた。


 奇襲に混乱する配下の兵を、必死に御そうと叫び続ける父。

 アーリアの手を引き、彼女を城外へと導く兄。


 ロチェスター領とモンフォール領の境界に広がる、ヘルムスリー山脈へと続く裏門で、兄に馬の背に押し乗せられ、闇の中に駆け出したところで、また、炎の赤が眼前に現れる。


 そして、脱出したはずの城内から、何度も同じ場面が繰り返される。


 幾度かそれが繰り返された後、不意に目が覚めた。そこでようやく、夢を見ていたのだと気付いた。


 目覚めてまず視界に入ったのは、見覚えのない木目の天井だった。

 

 ―――助かった・・・の?


 身体中に、鈍く疼く痛みはあるが、どれも、深刻なものには感じられない。


 次第に意識が鮮明になってくると同時に、一抹の不安が過ぎり、アーリアは横になったまま、慌てて自身の胸元をまさぐった。


 ―――あった!


 掌に、確かに、楕円状のペンダントヘッドの感触が伝わる。

 五年前、十五の時、父カールから譲り受けたもの。

 何があっても、必ず肌身離さず身につけていろと言われた、僅かに赤く濁る乳白色の天然石。

 これを失うわけにはいかなかった。

 力強く握り、そこに確かに在ることを実感できると、安堵のため息が漏れた。

 

 ふと、人の気配を感じた。

 視線をそちらに向けると、顔の下半分いっぱいに髭を蓄えた男が、アーリアの横たわるベッド脇に腰掛けていた。粗野なその男の風貌に、アーリアは怯え、思わず小さな悲鳴を上げる。


 「すまん。脅すつもりはなかった」


 男はアーリアの反応にうろたえつつ、慌てて立ち上がり、ベッド脇から離れた。

 その所作を見て、男がアーリアを害するつもりのない事を悟ると、ふっと身体から力みが抜けた。同時に、恐らくは彼が、この場所で休ませてくれたのだろうど思い至り、その相手に対して、自分の今の反応が酷く無礼だったと気付いた。


 「わ、私こそすみません。無闇に怯えてしまって」


 アーリアはベッドから起き上がろうとしたが、男は手をかざしてそれを制した。


 「まだ休んでいた方がいい。酷く弱っていたんだ」


 言いながら、男は再び、ベッド脇の丸椅子に腰かける。男の気遣いはありがたかったが、横たわったままという訳にもいかず、アーリアは半身だけを起こした。


 男は落ち着いたアーリアの様子を見て安堵したのか、小さく笑んだ。小さいが、不思議と深みのある笑みだった。武骨な様相のわりに、随分と柔らかい表情を浮かべるんだな、とアーリアは思う。


 男を壮年と呼ぶには、髭の隙間から覗く皺が深すぎた。父カールよりは、齢を重ねているのだろう。だが、その太い首や分厚い胸板は、父や兄のそれより、屈強に見えた。


 さりげなく、部屋の中を見渡す。

 古びた小屋だった。

 壁には束ねられた太縄や小弓が掛けられ、何かの獣の毛皮が、部屋の隅に積み重ねられていた。


 その時初めて、扉の脇に若い男が寄りかかっているのに気付いた。その男もまた、長身で屈強そうな体躯をしていたが、頰を覆った無精髭はまだ柔らかそうで、それが逆に、若さを際立たせている。恐らくは、アーリアとさほど変わらない歳頃だろう、と察しを立てる。


 「それで、俺に用があるらしいが、君は何者だ」


 ベッド脇の年配の方の男が、再び表情を引き締めてから、問い掛けてくる。


 「あなたに、私が・・・」


 男の問いの意味を理解できず、一瞬、アーリアは押し黙ってしまったが、すぐに思い至る。


 「あなたが、サー・ルベンなのですか?」


 黙ったまま、男は頷いた。

 ああ、と思わず、アーリアの口から安堵と感嘆の混ざった吐息が漏れた。


 「私はロチェスター領主カールの娘、アーリアと言います」


 素性を明かすと、ルベンはほんの少し目を見開き、驚いたような、どこか意味深な表情を浮かべた。そしてすぐに、何かを察したかのように、小さく何度か頷いた。


 「カールの身に何かあったんだな」


 ルベンのその言葉で、脳裏に燃え盛る炎の赤が蘇る。敵軍に必死に抗う父と、身を呈してアーリアを逃した兄の姿もまた、その中にあった。

 胸のずっと奥の方から、熱い何かが込み上げてくる。奥歯を力ませ、アーリアはそれが溢れ出してくるのを押し留めて、言った。


 「ストックハムが、ヴァンボロー家配下の軍に急襲されました。父は、あなたの元へ身を寄せるようにとだけ言って、私を逃して兄と城に残ったんです」


 瞳の裏側が、ちりちりと疼く。炎の赤が、まるでそこに張り付いるかのように、視界の隅をちらつく。


 そうか、とルベンは呟くように言ってから、一度天井を仰ぎ、再び眼差しをアーリアに向けた。


 「ヴァンボローは何の大義を以って、ロチェスターを攻めたんだ?」


 ルベンに問われ、アーリアはそれまでの全てを思い返すように目を閉じる。

 炎の赤の中に、今度はエリナーの顔が浮かぶ。

 今は亡き、エリナー。

 十五の頃まで、聖典の教えと、貴女としての振る舞いを学ぶために通っていた、王都の王立修道院で同級だった彼女は、アーリアの友人だった。


 「きっかけは、王家クリフ様の婚約者だった、エリナー・ヴァンボローが亡くなった事から始まりました」


 そう前置きしてから、アーリアは再び目を開き、それまでの大陸の政情をルベンに説明した。


 エリナーの急逝。

 自身が入れ替わりにクリフの婚約者に指名された事。

 それをロチェスターの政略だとヴァンボローが主張し、その主張が王の逆鱗に触れた事。

 そして起こったヴァンボローのロチェスターへの侵攻。


 ルベンは黙したまま頷く事もなく、アーリアの説明を静かに聞いていた。アーリアが言い終えると、何かを考え込むように腕を組み、目を閉じた。


 沈黙が、部屋の中に落ちてくる。

 窓の外で風が木々の枝を揺らす音だけが、僅かに漏れ聞こえてくる。


 そしてどのくらいが経ってからなのか、「なあ、親父」と、その沈黙を破ったのは若い男だった。


 「俺には難しい事は判らないし、興味もない。ただ一つ解せないのは、なんで親父が騎士の称号で呼ばれるか、だ。親父は猟師じゃないのか?」


 「今は、そうだ」


 目を閉じたまま、ルベンが答える。


 「昔は騎士だったって事か? 何で隠してたんだ」


 若い男が更に問い詰めると、ルベンはゆっくりと目を開き、腰掛けたまま、若い男に向き直った。


 「来るべき時が来たら、話そうとは思っていた。恐らく今が、その時なんだろう」


 言ってルベンは立ち上がると、部屋の隅に歩み寄り、積み上げられていた毛皮を脇へ寄せる。そしておもむろにそれが置かれていた床板を剥がし、その下から、棒状の何かを取り出して、若い男に手渡した。


 それは、少し大振りの古びた剣だった。

 若い男は、渡されたその剣をまじまじと見つめる。


 「これは?」


 「俺はかつて、モンフォールの騎士団に属していた。が、二十年前に退役してこの地に腰を据える事にした。その剣は、俺が現役時代に使っていたものだ。お前にやろう」


 若い男は、剣を鞘から引き抜く。

 柄や鞘は古びたものだったが、剣身はまるでついさっき磨かれたばかりのように、淀みなく煌めいていた。


 「現役の頃何度か、このアーリアの父カールと、同じ戦場に立った事がある。軍を抜ける時、カールに、アーリアの身に何かあった時は俺に頼れと伝えていた」


 ルベンはそう言って、今度はアーリアに向き直る。


 「アーリア、この男はジェレミーと言う。このジェレミーと共に、王領北部の街、ルシンバラに向うんだ。そこに俺の古い馴染みのグレン・ワイズと言う男がいる・・・」


 「ちょっと待ってくれ」

 剣を鞘に戻しながら、ジェレミーと呼ばれた若い男が、ルベンの言葉を遮る。

 

 「俺にこの女の護衛をしろと言うのか?前にも言ったじゃないか。俺は戦場に立ちたいんだ。その為に俺に剣技を教えたんじゃないのか?」


 「違う。お前を鍛えたのは、彼女を守る為だ」


 ルベンはそんな突飛な事を、毅然と言い切った。


 ジェレミーが怪訝そうに表情を歪める。

 それは、アーリアも同じだ。

 まるで昔から、誰かに追われてアーリアがここを訪れることを予期して、ジェレミーを鍛えていた、とでも意図するような、ルベンの言い放ったその言葉の真意を、アーリアは読み解けなかった。


 それでも、ルベンの言いぶりが余りにも毅然としすぎていて、ジェレミーもアーリアもたじろぐばかりで何も言い返せなかった。

 それを見て、ルベンは挑むような不敵な笑みを浮かべる。


 「ジェレミー、お前は何故、戦場に立ちたいんだ?」


 「俺は、俺が強いのか弱いのか知りたい。それには、戦場に立つのが一番じゃないか」


 ルベンは、首を横に振る。


 「もしお前が自分を試したいと言うのなら、彼女と一緒のほうがその機会は多いし、きっとはるかに過酷だ」


 「何故、そう言い切れるんだ?」


 ジェレミーは納得できないふうに、食い下がる。


 「詳しい事はグレンから聞くんだ。が、聞くまでもなく、その道程でお前はそれを実感するだろう」


 「あの」

 と、アーリアが二人の男のやり取りに割って入る。


 「そのグレンと言う方に頼れば、ロチェスターをヴァンボロー軍から救えるのでしょうか? 父や兄を、救い出せるのでしょうか」


 アーリアは、縋るようにルベンを見つめる。

 父も兄も、その安否が判らない今、アーリアに頼れるのは、父が自分を託したこの男しかいなかった。


 が、ルベンはすんなりと首を縦に振ってはくれない。


 「ただ単にロチェスターを奪還するだけなら、王家とモンフォールが本腰を入れれば容易いだろう。だが今回のヴァンボローの謀反は恐らく、君がさっき説明してくれた、表立った事情だけで起こっている訳じゃない。それに、グレンに君の思いは託すが、奴も今は隠遁している身だ。すぐに君の期待に応えるのは難しいだろう」


 ルベンの口調は、何かを含んだ言い回しだった。が、それが何なのか、アーリアには見当もつかなかった。

 しこりが、胸の奥に残る。


 「それで、親父はどうするんだ?この女を託されたのは、本当は親父だろう?」


 まだ納得できないという表情で、ジェレミーが食い下がる。


 「今回の件で、俺には行かなければならない所ができた。それと、この先彼女が本当に必要なのは、お前と、グレンのような男だ」


 ルベンはそう言うと、先ほど剥がした床板の下から、今度は封蝋の押された羊皮紙の手紙を取り出し、アーリアに手渡した。


 「これを、グレンに渡すんだ」


 まるで、アーリアがここを訪れ、こうやって、グレンという男の元へ送り出すことを、随分と前から予知していたかのように、その封は随分と煤けていた。


 聞きたい事はまだあった。

 それはジェレミーも同じようで、露骨に憮然とした表情を浮かべている。

 しかしルベンはルベンで、今話したこと以上の何もかもを拒絶するような雰囲気を、その眼差しから醸し出していて、アーリアもジェレミーも、それ以上、言葉を継げなかった。


 その時、窓の外から馬の嘶きが響いた。

 続けて数頭の馬の蹄の音か聞こえてくる。


 「追手か」


 呟くと同時に、ルベンはすっと立ち上がり、扉の脇に立っていたジェレミーに歩み寄った。


 「俺が彼女といると過酷だと言ったのは、こういうことだ」


 そう言って扉の傍らに立てかけてあった、さきほどジェレミーに渡したものとは別の剣を手に取り、ルベンは扉の外へ出た。

 ジェレミーがその後を追う。

 アーリアも慌てて追いかけようとベッドを出るが、くらりと目が眩み、思わず膝を付く。眩暈を振り切ろうと頭を小刻みに横に振ってすぐに立ち上がると、二人を追って、遅れて小屋を出た。


 山小屋の外には、剣を抜いてルベンと対峙する騎兵がいた。

 二騎。

 それがルベンを囲うように構えている。

 騎兵たちの纏う鎧の胸に刻まれた紋は、ヴァンボロー家の家紋だった。


 「無駄に抗うな。どうせお前に勝ち目はない」


 騎馬に跨った男の一人が、ルベンに向かって凄む。


 「抗おうと抗うまいと、どうせお前達は俺達を殺すんだろう?」


 剣を握った右腕はだらりと下げたまま、挑発するようにルベンが言う。同時に、相手の一騎がルベンに向けて突っ込んできた。


 次の刹那、ルベンの大柄な身体がぶれた。

 ぶれた、ように見えた。

 それほどまでに素早い、身捌きだった。

 そして、そう認識できた時には既に、ルベンは相手騎馬の横を素早くすり抜けつつ、右手に持った剣を振りぬいていた。


 剣筋は、鋭い光の残像を残しつつ、馬の首を飛ばし、そのまま騎兵の脇腹を斬り抜けた。


 鎧が紙切れのようだった。

 それくらいに淀みなく、ルベンの剣筋は騎兵の腹を抜けた。


 騎兵の鎧の腹の部分に、すっと赤い筋が走る。

 少し間を置いて、騎兵の腹から上だけがずるりと滑り落ち、辛うじて繋がっていた臓物に、一瞬だけ引っ張られたが、それもすぐに千切れ、地に落ちた。


 騎兵の下半身は馬上に乗ったまま、首を失った馬が数歩進んだところで、馬ごと崩れるように倒れた。


 それを見てたじろいだもう一騎が、彼を襲ったであろう恐怖を振り払うように咆哮を上げ、ルベンに突進する。


 ルベンは避けようともせず、それを正面に見据えると、騎兵に向けて剣を突き出した。


 切っ先が馬の首を正面から貫き、その奥の騎兵の腹に突き刺さる。

 馬体がルベンにぶつかる。が、ルベンは両足を踏ん張ってそれを受け止める。

 そしてそのまま身体を反転させつつ、突き刺した剣の柄を肩に乗せ、背負い投げるように、剣を自身の真正面へ降り抜いた。


 馬の首が、剣の突き刺さった真ん中から、割られた薪のように下から上へまっぷたつに裂ける。

 腹に切っ先を差し込まれた騎兵もまた、腹から胸元までを鎧ごと縦に裂かれる。割れた鎧の隙間からは、赤黒いぬるりとした臓物が零れ落ち、騎兵はそのままぐしゃりと馬と共に崩れ落ちた。


 アーリアはその光景に、思わず息を飲んだ。


 ヴァンボローに攻め込まれたあの夜、アーリアは初めて間近で、人同士が本気で切り結ぶ様を見た。

 それはそれで、衝撃だった。

 が、今、目の前で繰り広げられた光景は、斬り結ぶ、という言葉が滑稽に響くほどに一方的で、圧倒的だった。

 まるで本当に薪でも割るかのような軽々しささえ、ルベンから感じ取られた。


 ―――この人は、一体何者なんだろう・・・。


 剣身にこびりついた血と肉塊を払うように大きく剣を振る、そんなルベンの背に、恐ろしさと、何故か、懐かしさを感じた。

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