第03話 王都の奸雄
緩い喧騒が、王都ヴィクターズ・ワーフ城下の、古びた酒場に満ちている。
ローリー・ダルグリッシュは、いつも屯しているこの店の、この弛緩した空気が、嫌いではない。
この弛緩が、いつまでも続けばいいと、実は、密かに願っている。
でも、それを口にしたことはないし、これからも、するつもりはない。
それが、ローリーを魅了してやまない、ダレン・ウォレスの抱く野心を、否定することと知っているからだ。
早暁の団。
ダレンの元に集まった、この盗賊まがいの傭兵団が、ローリーにとって初めて家族を感じる、彼の居場所だった。
ようやく手に入れたこの居場所を、決して、失いたくはない。
だからその中心にいるダレンの野心を、願望を、否定するようなことはしない。
ローリーはヴィクターズ・ワーフの娼婦街に生まれた。
その街の幼な子の殆どがそうであるように、ローリーもまた娼婦の子で、やはり殆どがそうであるように、父親が誰か知れなかった。
娼婦街の子供は、その殆どが、齢十を数える前に息絶える。
母親に捨てられ餓死するか、劣悪な環境下で病に侵されるか、運良く自我の芽生える年齢まで生きながらえたとしても、母親に命じられた窃盗に失敗し、討ち殺されるか、だ。
ローリーには、天性の器用さがあった。
同年代の、他の娼婦街の子供たちと比べて、盗みを働くにせよ、旅人を騙して財をせしめるにせよ、何をするにしても、勘の良さがあった。
ローリーが二十歳になるまでこの娼婦街で生き続ける事ができたのは、この器用さが、勘の良さが、存分に功奏したからこそだった。
ふいに、何かが破裂するような、弾けた笑い声が背中にぶつかる。振り向くと、談笑する仲間たちの真ん中には、いつものように、ダレンがいた。
いつもそうだ。
ダレンはいつも、仲間に囲われている。
人を惹き寄せる。
そういう得体の知れない力を、彼は持っている。
そしてローリーもまた、その得体の知れない力に引きずり込まれた一人だ。
◆
三つ年上のダレンと知り合ったのは、二年前だ。
知り合ったのはその時とは言え、ローリーは一方的にではあるものの、それ以前から、ダレンのことは知っていた。
娼婦街や、隣接する鍛冶屋街、総じて貧民街と称される城下の地区には、幾つかの窃盗集団が存在していた。
その中でも、二十歳前後の若い悪漢ばかりを束ねていたダレンは、若さゆえの無謀さがうまい方向へ転がり続けて、その頃そんな集団の中で最も勢いがあり、貧民街では知られた顔だった。
一方でローリーは、群れることを嫌っていた。
一人でもこの世界で生き抜けるという自負があった。
だからこそ群れるということは、無駄なものを背負い込む厄介なこと、でしかないと思っていた。
ダレンのその頃の勢いは、ローリーも知るところだったが、今はただ運が良いだけだとも、いずれそれは尽きるものだとも、自分の方がこの貧民街では賢く立ち回れているとも、思っていた。
つまりはダレンを、見下していたのだ。
その日、ロチェスターの小貴族から、ヴィクターズ・ワーフ城下の豪商に、秘密裏に賄賂となる金塊が送られるという情報を得た。
よくあることだった。
王領外の威の弱い貴族が、王政に多額の資金を貸し付けている豪商を使って、王都下での官職を金で買い、家柄に箔をつけようとする。
公にできない財だ。
盗賊に奪われたとしても、その貴族は、誰も咎める事はできない。
豪商も、誰も、何も咎めない。
当たり前だ。
ローリー達のような賊に、そもそも情報を売っているのが彼らなのだ。
城外の森を貫く街道で、ローリーはひとり、金塊を運ぶ馬車を待った。
狙い通り、あらかじめ掘り下げて、藁で隠した穴の中に馬車は落ち、馭者を射殺すまではよかった。そこで、横槍が入った。
金塊を運び出そうと馬車に近づいた瞬間、背後に人の気配を感じた。
振り向くと、すぐ目の前まで刀身が迫っていた。
何かを思慮する、余裕など無かった。
地を転がるように剣筋から身を外す。
同時に腰に携えた箙から矢を抜き、剣を握る相手の手の甲に突き刺した。
「あああ・・・!」
男の濁った咆哮が聞こえた刹那、後頭部に鈍い痛みが走り、そこで、ローリーの意識は途切れた。
気づくと、酒場のような場所にいた。
窓から差し込む陽はまだ高いが、そもそも窓の少ない店内は、夜のようにランタンが灯っていない分、薄暗かった。
周りを見渡すと、同業と思しき男たちに囲われていた。
慌てて立ち上がろうとしたが、無駄だった。
両手と両脚が、きつく椅子に縛り付けられていた。
「おい、ダレン! 気づいたぞ」
ローリーを囲う男の一人が、店の奥に向けて言う。
その男たちの輪をかき分けて現れたのは、ダレン・ウォレスだった。
思いのほか小柄ではあったものの、分厚い革服の上からでも分かるくらいに、筋肉質な体躯をしていた。
ダレンは笑っていた。
意外にも、穏やかな笑みだった。
穏やかだったが、不思議な威圧感があった。
「誰もが平等であるべき。これ、俺の信条な」
笑みながら言って、ダレンはローリーのすぐ傍にいた男に向けて、顎をしゃくる。
指示された男は、ナイフでローリーの右手を縛っていた縄を切ると、そのままそのナイフを、ダレンに手渡した。
ダレンは解放されたばかりのローリーの手首を鷲掴むと、その掌をテーブルの上に置き、躊躇なくそこへナイフを突き刺した。
激痛が、掌を貫く。
血が、じわりとテーブルに広がる。
が、ローリーは声を上げなかった。
何故か、声を上げたら負けだと思った。
痛みに耐えながら、ダレンを睨んだ。
睨むことでいくらか、痛みを誤魔化せた。
「どこで誰に聞いたか知らんが、人の買った情報に乗っかって金塊を横取りってのは良くない。しかも、同胞に怪我をさせた。だからこれで対等だ。俺らみたいな輩でも、最低限、踏み外しちゃいけない道ってのがあるよな?」
ダレンが、ナイフを引き抜く。
突き刺された時とは別の種の痛みが、手の甲から伝って全身を粟立たせる。
「俺が買った情報だ」
絞り出すように、何とかそれだけ言えた。
ダレンが、顔を顰める。
「誰から?」ダレンが問う。
「イアン・ギヴン」豪商の名を返す。
途端に、ダレンは身体を仰け反らせた。
「あのおっさん・・・被せ売りしやがった」
嘆くように言うと、ダレンは自分の掌をテーブルの上に乗せ、今度はそこに、ナイフを突き刺した。
顔が苦痛で歪む。が、やはりダレンも、声は上げない。
「平等が、俺の信条な」
痛みに歪む顔を無理やり笑みに変えて、ダレンは言った。
どこか滑稽なその表情を見せつけられて、胸のうちで燻っていた怒りが、その矛先を失った。
不思議な男だ。
圧倒的に優位な状況であるのに、義を通す。
こう言う男を、ローリーは見たことがなかった。
何故なら、こう言う男は本来この街では、生き抜くことができないからだ。
後になって、嫌になるほどローリーは痛感する。
ダレンは、そう言う男なのだ。
それでも、この街を生き抜く男、なのだ。
痛みに顔を歪めながらも、ダレンは、おい、と同胞に声をかけると、ローリーの手足の縄を切らせ、すぐさまローリーの横に腰掛けて、肩に腕を回した。
「おい、血・・・」
首から回された腕の先の、血の滴るグレンの掌が、ローリーの胸元を赤く染める。
「まあ、気にすんな」
そう言う、男だ。
「お前、俺の仲間になれ」
唐突に、そう言うことを言い出すところも。
「この状況でよくそんな事が言えるな」
「だめか? まあ、諦める気は微塵もないけどな。しつこいぞ、俺は」
黙って、ダレンを見据えた。
仲間。
そう言うものは、煩わしさしかない。
少なくとも、その時のダレンにとっては。
「俺は別に群れなくても、生きていける」
言って、目を逸らした。
何故かそれ以上、ダレンを見据えていられなかった。
それでも、その逃げたまなざしを追うように、ダレンはローリーの正面に回り込み、両肩に手を置いた。
今度は左肩がダレンの血で赤く染まった。が、もう指摘する気にはなれなかった。
と、言うより、いつのまにか笑みを消し、ぎらついたまなざしで真っ直ぐローリーを見るその力強さに、気圧された。
「俺はいずれ、俺の領土を手に入れる。俺らみたいな悲惨な生き方しかできないガキを受け入れる街だ。下賤の俺がそんなことを実現させるには、お前みたいな男が必要なんだ」
お前が必要。
それまで生きてきて、言われたことのない言葉だった。
そして、それだけで充分だった。
♦︎
「ダレン、いつまでここでぐだぐだと屯してる気だ?」
弛緩した店の雰囲気にそぐわない、苛立ちに濁った声が響く。
クレイグ・サリバン。
仲間内では一番古参の、古参だからこそ、緩んだこの空気が、ダレンの野心の実現を遅らせると焦り、嫌う男だ。
「いいか、盗賊家業から足を洗って、俺ら全員、傭兵になると決めたのはお前だ。責任を果たせよ。こんな安穏とした王都に傭兵の仕事があると思うか?アウレリオ領だよ、俺らが向かうべきは。カサンドロスだ。その紛争地にこそ、俺らの生き甲斐がある。違うか?」
捲し立てるように、一息に、クレイグが言う。
薄く笑みを浮かべてそれを聞いていたダレンは、テーブルのマグに入っていた酒を飲み干すと、大丈夫、とだけ返す。
「何を根拠に・・・」
「勘だよ。俺の勘だ」
さらに問い詰めようとするクレイグの言葉を、ダレンはそう言って遮った。
勘。
それは、ローリーの持つそれとは毛色が違うものだった。
ローリーから言わせれば、ダレンのそれは、嗅覚に近い。
一見無謀に思えるダレンの判断は全て、彼の言うこの勘をなぞってきたものだ。そしてそれは、悉く〝あたり〟だった。
「クレイグ、カサンドロスとの小競り合いに、上げるべき戦功なんてものはないよ。俺の勘が、ここに留まるべきだと言ってる」
クレイグは、何も返せない。
ダレンのこの勘の恩恵を最も受けてきたのは、古参のクレイグ自身なのだ。
その時、店のドアが勢いよく開かれた。
同胞のひとりが、店に飛び込んでくる。そして、荒れた息をある程度、落ち着けてから、言った。
「ヴァンボローの謀叛だ。ストックハムが落ちた。明日の早朝、大規模な徴募が出るぞ」
それを聞き、ダレンは不敵な笑みをクレイグに投げる。
クレイグは苦笑を返すほかなかったが、その苦味には明らかに、歓喜の色も滲んでいた。
ダレンが拳でテーブルを撃つ。
「クズども!功を上げるぞ!」
歓声が、店の中を満たした。
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