第02話 武門の末弟

 波打つ海面のような起伏が続く丘陵を、朝露を抱いた背の低い草々が覆い、それが朝陽を浴びて至る所で煌めいている。


 その穏やかな光景には似つかわしくない、武具で身を固めた兵達が、丘陵を包み込むように流れる二つの川、リード川とフルーム川が合流する地点に建てられた砦に屯していた。兵の群れのあちこちからは炊煙があがり、それが朝靄の中に溶けて、砦は薄っすらとした白みに包まれている。


 フィル・モンフォールは砦の防壁の上から、その光景の向こう側にある、丘の上に建てられた物見櫓を見据えていた。このトリング丘陵で自軍と対峙する、ヴァンボロー軍が建てたものだ。櫓の周りには自軍と同じように敵兵が駐屯し、やはり同じように、炊煙があちこちから上がっている。


 フィルは更にその向こうの空に、眼差しを向ける。


 ―――アレックス、アーリア、無事でいてくれ。


 そう願いつつ仰ぐ西方の空の下には、十日前にヴァンボロー軍によって陥落された、ロチェスター領都ストックハムがあった。


 唐突なヴァンボロー軍の侵攻に対し、領都守護に当たっていた領主カール・ロチェスターと、カールの嫡男でフィルの親友でもあるアレックスは、ストックハム陥落後、その消息が明らかにされていない。アングリア王国皇太子リーアムの長子、クリフ・キーオンの婚約者として王都に入京直前だったカールの娘アーリアもまた、安否が判らないままだった。


 ヴァンボローの侵攻を食い止めるべく、王都ヴィクターズ・ワーフに詰めていたフィルは、アングリア王マシュー・キーオンから勅命を受けた父アシュリーの指令の元、モンフォール家直属の兵団千五百を引き連れてロチェスター領に入り、昨日、ストックハッムから敗走してきたロチェスター領主カールの弟、イアン・ロチェスターと合流。そのイアンの連れ立った兵三百と共に、イアンを追走していたヴァンボロー軍二千と、この地で対峙していた。


  「サー・フィル、ロード・イアンがお呼びです」


 不意に呼びかけられて振り向くと、いつの間にか背後に立っていたその声の主、ケヴィン・マロニーが小さく会釈した。


 ケビンは、代々モンフォール家に仕えるマロニー家当主の次男で、五年前、フィルがアウレリオ領の紛争地から帰還して以来、父アシュリーの計らいで、フィル専属の側近として充てがわれていた。


 とはいえ、ケヴィンとは幼少の頃からの馴染みで、二十六になったフィルの二つ年上でもある彼を、フィルは兄のように慕ってきた。だから、五年経った今でも、自身の側近という彼の立場に、フィルはどうしても慣れないでいた。


 「ケヴィン、サーはやめてよ。君の立場も判るけど、せめて二人だけの時はさ」


 「誰にサーと呼ばれても嫌な顔するじゃないか、君は。君こそ君の立場を考えて、いい加減慣れてもらわないとと思ってね」


 溜息交じりにケヴィンが返す。

 確かに、フィルは騎士の称号を叙勲して四年が経った今でも、サーの敬称を付けて呼ばれる事が好きではなかった。そう呼ばれる度に、華奢な身体つきで剣の腕も覚束ないのに、生まれ落ちた家系のおかげでその地位にいるんじゃないか、と暗に蔑まれているような気がしてならなかったからだ。


 「そうやって卑屈な表情をするな。だから、親父さんにどやされるんだ」


 「判ってるけどさ、仕方ないじゃないか、こういう性分なんだ」


 不貞腐れてそう返すと、自分を呼び出したというイアンの元へ逃げるように、防壁の階段を足早に降りた。

 ケヴィンがその後に続く。


 「それと、アウレリオ領から急行されていた、サー・スコットがつい先ほど、到着した」


 フィルの後を追いつつ、ケヴィンが伝えてくる。


 「サー・スコットが?予定より随分早いね」


 「騎兵五百のみを本隊から切り離して急行したそうだ」


 「なるほど。そうすると、こっちは計二千三百か」


 言いながらフィルは、イアン・ロチェスターの待つ、砦中央の大広間に足を踏み入れた。


 中には、フィルを待つイアンと、イアンの従者であるダミアン・ドイル、そしてケヴィンの言った通り、アウレリオ領の紛争地から駆けつけてきたスコット・ムーアが、広間中央に置かれた木卓を囲っていた。

 もう一人、スコットのすぐ脇に立つ、無精髭を蓄えた黒髪の、武骨そうな大柄の男には、見覚えがなかった。


 「おお、逞しくなられたな。サー・フィル」


 フィルと目が合うと、スコットはフィルに歩み寄り、骨張った大きな手で、華奢なフィルの手を握った。


 スコットは、骨太で堅固な身体つきだが、背丈は小柄なフィルより更に低い。が、故の俊敏さが戦場で映えることを、フィルはよく知っていた。


 「サーはやめて下さい。以前のようにフィルでいいです」


 苦笑しつつ、フィルはスコットの手を握り返す。


 スコットとは、五年振りの再会だった。

 六年前、王国の筆頭騎士団を擁するモンフォール一族の男子として、恥ぬ騎士となれるよう経験を積めと、父にアウレリオ領の紛争地へと送り込まれた。その時、フィルの配された師団の指揮官が、モンフォール家従属で、アウレリオ領に援兵として派遣されていたスコットだった。


 「貴方は私の主の御子息で、こうやって立派な騎士となられたのだ。初陣に立たれたばかりの、あの頃と同じというわけにはいきませんよ」


 フィルの手を更に力強く握り、肩を叩きながら、スコットは豪快に笑う。豪気なところは変わっていないな、と思う。


 「立派と言われても、この五年は書に向かい合ってばかりでしたから。あの頃よりも膂力は間違いなく落ちてます」


 「それはグレン殿の元で、戦場では得られぬ研鑽を積まれたということでしょう。その成果を、この地で見せて頂きますよ」


 スコットは言って、含みを持たせた笑みを浮かべる。フィルはそれに、苦笑を返すほかなかった。


 戦場から帰還して五年、フィルは師であるグレン・ワイズの元で、軍略の師事を仰いでいた。が、実際のところ、本当にそれが戦場で有用なのか、自信が持てていなかった。


 かつて大陸最強と謳われた当時の赤の騎士、ヨハン・グジョンセン。その参謀として名を馳せたグレンの才覚に疑いはなかった。が、机上でそれをなぞっただけの自分に、果たしてどれほど技量が身についたのか、フィルは自身の力量を推し量れずにいた。


 「再会を懐かしむのはそれくらいにして、本題に入らせてもらっていいかな」


 少し遠慮がちに、イアンが割って入る。二人は慌ててイアンに向き直った。


 「これは失礼した。敵の陣容の話でしたな」


 スコットの言葉にイアンは無言で頷き、目線で自身の従者であるダミアンに説明を促した。それを受けてダミアンは小さく会釈を返すと、卓上にこのトリング丘陵の地図を広げた。


 「今この地に駐留しているヴァンボロー軍は二千。丘陵の向こう側、街道沿いのリーズで本陣を構えています。サー・スコットに駆けつけて頂いた事で、我が軍は総勢二千三百、相手の規模を若干上回った訳ですが、こうなる事は想定できたのに、その前にヴァンボローがこの砦に攻め入らなかったのには恐らく、狙いがあります」


 「時間稼ぎ・・・」


 フィルが呟くと、ダミアンは頷いた。


 「斥候によれば、今対峙している敵軍は先遣隊に過ぎません。本隊は、一万の規模で街道を東進中で、あと二日程度でこの地に到達します」


 「一万!」スコットが感嘆の声を上げる。「儂の本隊三千が合流しても、ほぼ倍の規模ということか」


 頷いて、ダミアンが続ける。


 「サー・スコットの本隊が到着するのはおよそ五日後、敵軍の本隊合流には間に合いません。王都からもロード・イアンが要請した援軍一万がこの地に向かって北進していますが、これも到着にはあと七日はかかります。敵は本隊合流まで戦況を膠着させ、その後、王都からの援軍が到着する前に、圧倒的な兵量差を以って、一気にこの砦を落としに来るか、戦意を喪失させて降伏を促すのが狙いでしょう。ここから南に延びるフルーム川は、王都ヴィクターズ・ワーフまで続いています。この砦を抑え、王都までの水路を確保することが、ヴァンボロー軍がこの地を目指す目的と見て間違いないでしょう」


 そのダミアンの見解に少し違和感を覚えた。が、フィルは黙って頷いた。


 「ならば、兵数が均衡している今が攻め時なのではないか?」


 スコットの進言に、ダミアンが表情を曇らせる。


 「それには問題が二つあります。まず、敵軍本隊はリーズの街にある要塞に立て籠もっています。同等の兵量であれば、籠城する側が圧倒的に優位です。もうひとつは・・・」 


 「敵軍に青の騎士がいる、という事だ」


 ダミアンに同調するような低い声で、イアンが割って入る。

 その言葉に、スコットが思わず身を仰け反らし、フィルも無意識のうちに、生唾を飲み込んだ。


 王家を含む大陸の五領家には、各家の紋章に配された五色を冠する、騎士の称号が存在した。

 王家の金、ロチェスターの白、アウレリオの黒、フィルの出自であるモンフォールの赤と、そして、謀反したヴァンボローの青。


 現在在位している青の騎士は、もともと東方領アウレリオの出身で、二十年前の隣国カサンドロスとベルジュラクとの合従軍によるアウレリオ侵攻の折、齢十五で迎えた初陣でいきなり敵将の一人を討ち取って名を馳せると、五年前のベルジュラクとのアプナー・ショア海戦の折には、巧みに船団を繰り、敵軍を撤退させた経歴を持っていた。


 その青の騎士が、対峙する敵陣にいるというのは、確かに大きな障害だった。


 「そいつの相手は、俺に任せてくれないか」


 唐突に、無精髭の男が、割って入る。少し礼を欠く男の言葉使いに、イアンが怪訝そうな眼差しを向けた。


 「そういえばサー・スコット、彼の紹介をまだ受けていなかったな」


 眼差しは男に向けたままで、イアンがスコットに問いかける。


 「これは失礼した。彼はアウレリオ公、ロード・ファティよりその身を預かった、サー・ハリル・チャハノール。黒の騎士でございます」


 そのスコットの言葉に、イアンは表情を一転させて、おお、と感嘆の声を上げた。


 「貴殿が彼の黒の騎士であったか! これは失礼した。アウレリオ公がヴァンボロー殲滅の援軍を送ったという話は聞いていたが、まさか貴殿が駆けつけてくれるとは思わなんだ。これならば私の杞憂も杞憂で終わるだろう」


 それまで沈鬱な表情で戦況を語っていたダミアンもまた、相好を崩した。


 「黒の騎士殿がおられるのなら、要塞陥落も不可能ではないでしょう! まさに今がリーズを奪還する絶好の機。とは言え慎重に、与えられた三日でリーズを陥落できるよう、黒の騎士殿の技倆も加味して、早急に策を練り直しましょう!」


 ハリルの素性が明らかになったことで、軍議の場がにわかに沸き立ち始めた。ハリルをこの地に連れ出したスコットもまた、誇らしげに笑みを浮かべている。が、フィルはどこか、腹落ちしない違和感を感じていた。


 『状況が大きく変貌しようとしている時こそ、冷静になりなさい。冷静に、大きな視野で、高い視座で、一度すべてを見つめ直すのです』


 フィルの耳のずっと奥のほうで、師グレンの声が響く。

 ダミアンの言によって生じた違和感。これを無視してはいけない気がする。


 ―――僕のこの嗅覚は、きっと間違っていない。


 そう思い至り、今、この大陸が陥った状況を、大局から見据え直す。


 全てのきっかけとなったエリナー・ヴァンボローの死。

 その後釜に据えられたアーリア。

 ヴァンボロー軍の突然の侵攻と、独立宣言。

 ストックハム陥落。

 カール、アレックス、アーリアの消息。

 イアンの敗走と、それを追ってきた青の騎士。

 ヴィクターズ・ワーフへの水路の入り口となる、このトリング砦。

 ヴァンボロー軍本体一万と、イアンが王都へ要請し北進する王家の援軍一万・・・。


 あくまで予測に過ぎず、この混乱の全てを包括するものではない。が、フィルは一筋の、誰かしらが描いた思惑を感じ取る。


 「ロード・イアン、このリーズ侵攻、私に一任頂けないでしょうか。サー・ハリルとサー・スコットの同行を承認いただければ、閣下の兵に頼らず、自軍の二千のみで、リースを落とします」


 言ってフィルは、イアンを力強く見据えた。

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