第1章 激昂のジョルジオ

第01話 北方の猟師

 木剣の柄を絞り込むように力強く握り、ジェレミー・ペレスは、切っ先の向こう側の滝を見据えた。


 滝は小振りだが、崖上の河幅の割に滝口が狭いため、水は激しく白いしぶきを撒き散らしながら、滝壺へと落ちていく。

 滝壺のまわりは、ぽっかりと穴が空くように樹々の枝葉が途絶え、緩く陽射しが差し込んでくる。


 ジェレミーはその穴から、水しぶきで淡く霞む、ほんの少し眩しい空を見上げ、すぐに視線を滝に戻すと、そのまま、目を瞑った。


 深く息を吐き、吸い込み、そして止める。同時に、今しがたまで対峙していた父、ルベン・ペレスの姿を、瞼の裏側に思い浮かべる。


 全身を隆々とした筋肉で覆った、齢六十をとうに越えたとは思えない父の幻影。その陰が、先ほどと同じように、すっと上段に構える。


 脇腹に大きく開けられた隙。

 今になって思えばそれは、あからさまな”誘い”だった。

 その誘いに乗せられ、水平に剣を薙ごうとした時には既に、父の木剣がジェレミーの左肩にめり込んでいた。


 深い溜息と共にジェレミーは目を開け、切っ先を下した。

 いつからか、父に稽古をつけられた後はこうやってこの滝壺で、その日の稽古を反芻するようになっていた。父を打ち負かす活路を見出す為に始めた事なのに、決まっていつも、その答えは出ない。出ないことに、不甲斐無さと、自身への苛立ちを憶える。

 これも、いつも通りだった。


 両腕を突き上げてぐっと背を伸ばし、陰鬱な思考を断ち切って、今一度、木剣を構えなおす。今度は緩く、包み込むように柄を握り、再び目を閉じる。


 途端に滝壺の轟音が、更にその輪郭をくっきりと際立たせる。それまでは意識していなかった、青臭い草木の匂いが存在感を増して、鼻の奥をくすぐる。滝壺から噴き上げられた細かな水しぶきが、ゆっくりと腕や肩に舞い降りてくるのが判る。その湿り気が、身体を冷やしていく。全身の肌がざわついて、見えてはいない周りの風景が、まるで見えているかのように、頭の裏側に広がる。


 来た、と胸の内で呟く。


 この感触に包まれると、妙に軽やかに切っ先が走ることを、ジェレミーは知っていた。


 目を見開くと同時に、まるで見えない糸に引かれるように、剣を振る。


 右の肩口から左足の外側へ。

 返す剣を右脇の向こうへ。

 さらに水平に。

 そして、振り上げて真下へ。


 自在に、切っ先の赴くままに、剣を振り続ける。

 身体が軽い。

 まるで浮いてしまっているかのように、軽い。


 なぜこの感触が、父と対峙する時には現れてくれないのだろうと、悔しく思う。が、そう思い巡らせた途端に、地に吸い込まれるように、身体が重さを戻した。


 剣を止める。

 軽く息が切れていることに気付く。

 思っていたよりも長い間、夢中に剣を振っていたのだと、その時初めて自覚した。


 この感触を御することができれば、父を越えられる気がする。いつもそう思うのだが、いざ父と対峙すると、決まって力みで肩も腕も強張り、力任せに剣を振ってしまう。それが何故なのか、ジェレミーには判らなかった。


 その場に腰を下ろし、そのまま、仰向けになる。

 淡く白む空を目を細めて見上げつつ、手に持った木剣を、横になったまま目の前に掲げる。


 ―――果たして俺は、強いのか、弱いのか。


 いつもの問いが、脳裏を巡る。


 これまで、人を斬った事がないわけではない。

 六年前、十四の時だ。このモンフォール領北部の山間で狩猟を勤しむ傍ら、ジェレミーと二人で暮らす山小屋から最も近い集落、バスロウの警護も請け負っていた父ルベン・ベレスに付き従い、王国領外の北、ザンクトニアから流れてきた蛮族を討ち返した時、ジェレミーは初めて人を手に掛けた。


 以後、そんな北からの蛮族や、都市部から逃げ落ちてきた盗賊紛いの傭兵崩れを父と共に相手にしてきたが、こんな片田舎で威を振るおうとする輩など、本当の意味での剣士ではない。そんな連中をいくら斬り伏せたところで、それはきっと、強さの証明にはならない。現に自分は、猟師が本職という父にすら及ばないのだ。そう思い巡らすと、どうしたって気は沈んでしまう。


 それでも、とジェレミーは思う。


 外の世界へ飛び出して行きたい。

 その願望が、揺らいだ事はない。


 時折このバスロウに、隣国カサンドロスとの紛争が続く東のアウレリオ領から、談話師が訪れるという話を聞き付けると、ジェレミーは欠かさず集落まで降りていった。

 談話師の語る、もう数十年続くカサンドロスとの紛争地の話を聞く度に、胸が躍った。


 王国の為であるとか、名誉の為だとかいう欲求は微塵も無かった。ただただ、自分の強さが知りたかった。父ルベンから手ほどきを受けたこの剣の腕が、どこまで通用するのか確かめたかった。談話師の語る戦地に立てば、否が応でもそれが判る。だから、ジェレミーはこの辺境から飛び出したかった。


 だが、ルベンはそれを許さなかった。

 二ヶ月前、ジェレミーが丁度二十歳になったその日、ジェレミーはルベンに、カサンドロスとの小競り合いが続くアウレリオ領南東部の募兵に志願したい思いを伝えたが、ルベンは首を縦に振らなかった。猟師が戦場に立つ必要はないと。

 ならば何故、自分に剣術を教えるのかと食い下がったが、ルベンは護身の為と、言葉少なに返すだけだった。


 ―――親父に黙ってでも、いつかここを出て行ってやる。


 そう自身に誓って、ジェレミーは目の前に掲げた木剣を強く握り締めた。


 丁度その時、唐突に藪を突き破る音が響き、ジェレミーは反射的に立ち上がった。


 この辺りに時折姿を現わす大熊かと、最初は思い、身構えた。

 が、違った。

 滝壺から少し下流へ下った川岸に飛び出してきたのは、栗毛の馬だった。そしてその背には、うな垂れた人影が跨っていた。


 馬は遠目にも、身体の至る所に傷を負い、今にも倒れてしまいそうなほどに憔悴しきっていて、案の定、川辺までふらふらと歩み寄ると、そのまま崩れ落ちてしまった。背に乗った人影も、巻き込まれるように地に落ちた。


 ジェレミーは足早にその人影に駆け寄り、屈みこんで半身を抱き起こした。その時初めて、それが女だと気付いた。見た目には、ジェレミーとそれ程変わらない歳のように思えた。頰のあたりの丸みが、幼さを感じさせた。


 「おい」


 気を失っているのか、眉間に皺をよせたまま目を瞑っている女の頬を、軽く叩く。すると女は、小さく呻きながら、薄く目を開けた。


 「サー・ルベン・・・、サー・ルベン・ペレスの元に私を・・・」


 女は、きれぎれにそう言うと、再び瞼を閉じた。吐息は感じる。それで、生きている事だけはかろうじて判った。


 サー・ルベン・ペレス、と女は言った。

 父と同じ名だった。

 が、父は北の辺境の猟師だ。サーなどと、騎士の称号で呼ばれる謂われはない。


 とはいえ、このままこの女を放っておくわけにはいかない。例え父が、彼女の求めるルベン・ペレスでないにしろ、狩猟小屋に連れていき父に引き合わせれば、何かが判るかもしれない。そう思い至り、ジェレミーは女を抱え上げようとした。


 その刹那、再び、今度は二つの藪を突き破る音が響き、ジェレミーは女を抱える手を放し、身構える。

 そこへ二騎の騎兵が、藪の中から飛び出してきた。

 その二騎は、ジェレミーから少し距離を置き、馬上からジェレミーの素性を探るように、まじまじと彼を見た。


 「青年、その女性を保護してくれた事を感謝する。後は我らに任せ、彼女を引き渡してくれ」


 一人が、そう語りかけてくる。

 保護、と男は言ったが、状況から鑑みて、この二人が、この女を追っていた事は明白だった。父の名を女が口にした事もあって、素直にこのまま引き渡すのは、間違っている気がした。


 「この女は、俺の親父と会いたがってる。その後でなら、別に引き渡しても構わない」


 ジェレミーがそう返すと、男達は、ジェレミーの反応に意外そうに顔を見合わせた。

 恐らくは、騎士然とした自分たちに、辺境の民が素直に従わなかった事が想定外だったのだろう。が、すぐに男達はジェレミーに向き直ると、一人がおもむろに腰の剣を抜いた。


 それは決して、自分達の要求を素直に飲まなかった事に憤慨した、という感じではなかった。まるで初めから、ジェレミーを斬り伏せるつもりであったかの様に、男は平然と剣を抜き、そのまま、ジェレミーに向けて突進してきた。


 虚を突かれた。

 男達の要求をすんなりと受け入れなかったとはいえ、まさか、いきなり斬りかかってくるとは思っていなかった。


 突進してきた男の薙いだ剣筋が、ジェレミーの首元を抜ける軌道を取ったと察した瞬間、父の言葉が脳裏をよぎった。


 『騎馬を相手に後方に逃げ場は無い。前進するんだ』


 その後は、身体が反射的に動いた。


 左手で、左腰に携えていた、狩った獲物を捌くためのナイフを、逆手に抜く。


 同時に、男が剣を握る右手の逆側、自身から相手に向かって右斜め前方に踏み出し、男の剣筋から逃れる。


 そしてすれ違いざまに、逆手に握ったナイフを馬の首筋に走らせた。


 歪な嘶きが響き、馬が前のめりに崩れ落ちる。

 跨った男が、地に打ち付けられる。


 ジェレミーはすかさず、目の前にうつ伏せに倒れた男に飛び乗り、延髄にナイフを突き立てる。


 男は小さく呻き、そのまま動かなくなった。


 すぐさま引き抜いたナイフを、突進してきたもう一騎の馬の頭部へ向けて投げる。

 ナイフは、馬の右目に突き刺さり、仰け反った馬の背から、男は放り出された。


 ジェレミーは木剣を両手で握り直し、地に背を打ってすぐには起き上がれないでいる男に向けて、駆け出す。


 男がようやく膝を立て、立ち上がろうとした瞬間に、男の側頭部へ向けて、木剣を垂直に振り抜いた。


 男の兜が飛ぶ。

 首が、不自然な方向へぐにゃりと曲がり、男はそのまま崩れ落ちた。


 息絶えた男たちを交互に見やる。

 息が上がっていることに、今気づく。

 気づけない程度に、無心だった。

 

 そう。ほとんど、無意識だった。

 考えて動いた訳ではなかった。

 身体が勝手に反応した、そんな感じだった。


 浅くなっていた息を整える様に、ジェレミーは深く息を吸い、吐き出す。そして目の前に横たわる二つの亡骸をもう一度見据え、思う。


 この二人は、今まで相手にしてきた”偽者”とは違うように見える。が、思いの外あっけなく、ジェレミーの前に倒れた。つまりそれは、自分は自分で思うほどに、弱い存在ではないのではないか。


 胸がどくりと、大きく脈を打った。

 冷めていく斬り合いの興奮とは真逆に、何かが、ジェレミーの中で熱く沸きたってくる。


 ふと思い出したかのように、ジェレミーは後ろを振り返った。

 先ほどの女は、気を失ったまま横たわっていた。


 女を優しく背負いあげると、ジェレミーは父と住まう山小屋へ足を向けた。


 自分は弱いのか、強いのか。

 なぜ父は猟師である自分に、剣の振るい方を教えたのか。


 今一度、問いただそうと思った。

 この女が求めるルベン・ペレスが、本当に父の事なのであれば、父はジェレミーの知らない何かを語ってくれるかもしれない。

 漠然と、そんな予感がした。

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