第八章 生まれた場所以外のために(5)
おれはあのとき、またトーコの顔を見ていた。弱い明りを灯す、彼女の頬をみつめていた。
どうすれば彼女の笑顔を取り戻せるだろう。
いや、取り戻すというのは、正しい表現なのか。
ささいなことに、ひっかかりひっかかりしつつ、森のなかの湖へ身を浸していた。牛を捕まえに来たときにみつけた湖だった。少し冷たいけど、水がきれいだった。
なんだかんだ、リスの持ち込んで、最後に残った石鹸で身体を洗っていた。植物で造った石鹸なので、川に流してもだいじょうらしい。じつは値段の高い石鹸なのだという。
湖は深くはなかった。腰を落として首までつかりさがら考える。そういえば、この湖には動物な水を飲みに来ていた。そこにいま、おれが浸かっている。
もしかして、森の動物たちからすれば、飲み水におれが浸かっていることを不愉快に思うじゃないか。そんなことを考えだし、悩みだし、とりあえず今日は早めに出ようと決めて湖からあがった。
服を着替えてはじめて、間もなく、気配を感じた。振り返ると、鶏を小脇に抱えたトーコがいた。彼女は表情をふくめ、その場に固まっていた。抱えた鶏だけが、こっこっこ、と首を小刻みに震えている。それで時間が止まっている、というわけじゃないことだけは、よく理解できる。
きっと、いまは素早く着替え終えるべきだった。けど、おれは動きを止めてしまった。
いつからそこにいたんだろう。それが問題だ。問題にぶつかって、憐れにも、思考停止していた。
下はもう履いていた。上はまだまだだった。上はなにも仕上がっていない。
しまった、森の動物たちの飲み水に気遣ったとかしたせいで、油断した。気配を察知できなかった。竜だったらやられていた。
で、いつからいたんだろう。どの時点まで見られていたんだろう。
いっそ、きいてみるか。あげく、混乱状態のあたまがそんな発想すらしはじめた。
すると、やがてトーコはこっちへ向かって会釈をした。それで、おれも会釈をした。
おれは残っていた服と、剣を二本拾うと、また会釈をして、とにかく、森の奥へ歩いて向かうことにした。彼女もまた会釈を返した。
少し離れたところで、おそるおそる振り返ると、彼女はまだそこに棒立ちだった。見返してきてはいる。湖に反射する日の光りを背にして、眩さに包まれてみた。脇に抱えていた鶏は、ずっと、こっこっこ、と首を振っていた。
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