第六章  夜明けに落ちる

第六章 夜明けに落ちる(1)

 ビットは夜明け前がいちばん海の波が穏やかで、島に渡るには最適な時間帯だといった。

 念のため、交代で見張りをしながら仮眠をし、頃合いを見て出発した。ビットの夜目は優秀だった。父親の仕事の手伝いでこっちの大陸には何度も訪れているといっていたし、道もよくわかっているため、予定通り夜明けまえまでには目的地の浜につく。

 周囲には人家もなく、明りはおれたちが自らともして手にかかげているものだけだった。

「あっちにいくつか小さな船があります、かくしてあるんです、島のひとしかわからない場所に」

 さらにビットの言葉に従い、ついてゆくと浜から岩場へ移る、けど再び砂浜になり、たどり着いた先に洞窟はあった。あかりを元に、中へ入ると視界の範囲に五、六隻、小さな木の船をみつけた。

「島の人はいつもここに何個か船をかくしておくんです、もしもしのときのため、何個かはずっとおいてるんです」

 いつの間にか、ビットのしゃべり方はしっかりとしたものになっていた。生まれ育った場所に来たことで、この土地がなにかしらの彼に安定をもたらしているのかもしれない。とうぜん、頼りになることは大歓迎だった。

 すると、フリントが「この船の大きさだと全員がいっぺんには乗れないねえ」といった。

「はい、ふたつで行きましょう、それぞれにわかれてのってください、小さい船ですが、いまなら風あまりもないし、波もたってません、櫂をつかってください」

 指差す先に櫂がいくつか置いてある。

「ひとつはぼくが漕ぎます。もう一個の方は、誰か………」

「やる」言って、小さく挙手したのはセロヒキだった。「軍の訓練で習った」

「よぉーし、原動力係も決まったぁ!」

 ホーキングが闇をやつけんばかりの明るさで言い放つ。

「すぐに準備して、ビットの島へ渡ろうぜ!」

 それからまず、全員で二隻の小船を洞窟から浜まで押し出す。波打ち際まで移動させると、荷物を積み込んだ。

 ビットが櫂を握る船には、ホーキング、リス、フリントが乗り込む。ホーキングは、もしなにかあれば櫂の番を途中で変わるつもりだといっていた。そもそも櫂の操作の方法を知ってるなら最初からホーキングがやればいいのにと思っていると「なんつっても、ここはビットの見せ場だしな、ビットが集めたこの竜払いたちを、島へ船で運ぶ姿を、島の仲間たちに見せてやりてえだろ」ろ、そういった。

 セロヒキの方にはヘルプセルフとおれが乗り込む。こっちは人数がひとり少ないぶん乗せる荷物は多い。櫂の操作の経験者だといっていたセロヒキだったが、けっきょく、ぎりぎりまでビットにやり方を指導してもらっていた。リスが「いま学んどるじゃんか」と言うと、セロヒキは「常に学ぶ姿勢が大事だ」と、返した。

「だから、あたしはあっちの船に乗る」と、リスは返す。「あたしは常に正解を選ぶ」

 戯言はあったが、幸い、深刻な緊張感の欠如には至らなかった。みんな慎重に、それぞれが、あるべきだろう心のかたちを保っている。

 荷物を積み込みながら浜から海の向こうへ視線を向けた。この海の向こうあるという、ビットの島は夜の闇のせいで姿かたちはまったく見えない。陽が登ればこの浜からも島がよく見えるとビットはいっていた。この浜から島までは、人間は泳いで渡り切るには距離があり過ぎるし、日中は波も強いらしい。そして、ビットが言った通り、夜明け前のいま、波は穏やかだった。海はうねる黒い平原にみえ、歩いて渡れそうな錯覚さえ起しそうだった。

 この海の向こうに、白い竜がいる。

 想って、血が滾っていた。

「いきます!」

 ビットが渾身の声を放った。

 こうして、おれたちは海へ船を押し出し、ビットの島へ出発した。

 船の先端が小さな波にぶつかり、海を少しずつ切り開くように進んでゆく。おれたちには、暗くてなにもなにもみえない。けれど、先を行く船を漕ぐビットには見えているらしい。不安にならないといえば、真実にならない、ただ、いまはビットを信じるのみだった。彼の話によれば、半時ほど漕げば島までつくという。

 セロヒキも、はじめは櫂の操作に手間取ったが、すぐにこつみたいなのを掴んだのか、多少はむらは感じるが、先を行くビットにおいて行かれないだけの速度は充分に出せていた。

 今朝は風はあまり吹いていない方といっていたが、それでも冷たく、どこかさびしい風が吹いていた。小さな船で、視界にない島を目指すのは、ビットを信じているとはいえ、どうしても気持ちが落ち着かない。この時間帯は波が穏やかといっていたが、船の揺れの揺れも小さくはない。船体に低い波があたり、しぶきが頬や喉もとを濡らした。

 その時、不意にひどく不安になった。

「ヘルプセルフ」

 そばにいた彼を呼んだ。彼は、黒い仮面越しにこっちへ顔を向けた。

「おれは竜を殺したことがない」

 彼も知っているだろうことを、なぜかわざわざ告白するみたいに言ってしまった。

「殺すことにすごく抵抗を感じる」

 島へゆく船の上でこんなことを言われてもヘルプセルフが困らせるだけだった。やっかいなことに、言っときながら自身でもそれはわかっていた。こんな話、もっと前にしておきべきだし、する時間もあったはずだ。

 真実をいれば、おれは、最後まで、この問題を誰にもばれずに、これを遣り切ろうとしていた。かっこわるくなりたくないからだった。情ない部分をみせず、かっこよくやろうとしたと思っていた。願望だった。

 けれど、この船にのって島へ向かう最中に、この自尊心が、今日は役に立たないと思い至った。

 とうぜん、ここで気がついても、もう手遅れにも思えた。

 けれど、ヘルプセルフは苛立ったりはしなかった。

「どんな抵抗を感じる」

 いつも通りの口調で問い返して来た。

「まるで人を殺すみたいな感じだ」

 正直に感じるままを言葉にした。彼は少しの間、黙った。

「オレの一族は代々竜殺しだ」

 知っていた、有名な話だった。言って、ヘルプセルフは静かに仮面を外す。

 この旅で、彼の素顔を何度か目にした。ただ、真正面から見たのは、今日がはじめてだった。

 彼は知性のある顔立ちをしていた。そして、勝手な想像。彼は母親似なんじゃないか思った。だとしたら、母親は、きれいな人なんじゃないか。

「オレたちの一族は、まず竜を殺す嫌悪感を克服するところからはじめる。物心つくまえに、子供に竜を殺す場面に立ち合わせるようにする。なにも理解できない子供のうちに、何度となく竜を殺すところを見せる。物心がついたら、子供を大人たちが捕らえた前へ連れてって、子供に剣を渡して竜の留めを刺させる」

 淡々と語っていたが、情景は頭に浮かんだ。

「急所を仕損じると竜は苦しむ」

 仕損じたことのある者の表情だった。

「迷うなとしかいえない」目を見てそういった。それから「殺し、そしてその後にあるものは」と言った。 

 言ったが、そのまま口を閉ざした。

 竜を殺した者に待っている未来について話そうとしたのに、彼は何かを想ってやめてしまった。その先の言葉は、今日あるかもしれない戦いにとって、ためにならないと見切ったのかもしれない。

 それから、ふとして、ヘルプセルフは、自分の顎と喉の中間あたりを指差した。

「竜のここだ、ここに剣が差し込める場所がある、数少ない柔らかい場所だ。ここを剣で下から限界まで押し込めば竜は絶命する」

 話を具体的な方法を教えることに切り替えた。おれは、うなずいてみせるだけだった。

「ここをやれば竜を眠るように殺せる、苦しませることはない」

 そう言うと、彼は仮面をつけなおした。いつもの全身に戻る。

 竜を眠らせるように仕留める。もしかすると、竜の最後の思念が人への恨みであることを避けようとするためなのかもしれない。憎む間もなく往かせる。もちろん、これはおれの勝手な想像だった。

 おれは弱い。竜を殺していい理由を、誰かから仕入れようとしていただけだった。ヘルプセルフにもそれは見切られているはずだった。でも、彼は、そんな、おれに少しでも力を与えようとしてくれた。

 人に決めてもらった理由ではならない。遣り切るなら、自身の持ち物でするんだ。

 言い聞かせたその心の声が、どれだけのものかは、もう試してみるしか実際の強さはわからない。

 なんだろう、みんなともっと話せしとけばよかった。

 なぜか、ふとそんなことを思った。

 とうぜん、船はずっと海を進み続けていた。まえを船でも、ビットには櫂を握っている、セロヒキも安定度を増していた。

 しだいに空の彼方が赤らんで来た。そして、ついに、島の輪郭がみえてきた。

「あれか」

 セロヒキがつぶやいた。目したとたん、ついに来たという感じがすごかった。まだ、おぼろげにしか見えない島は、黒い蜃気楼めいていた。本当は存在しないのかもしれないと思わせる。船はそれに向かって進んでゆく。

 同時に、朝陽が島の向こうからのぼってゆく、その光りで島の全体が少しずつ見えてくる。まえをゆく船で櫂を握っていたビットの手が止まっていた。彼がどんな表情をしているのかは、この船からではわからない。朝陽がのぼり、だんだん、島が照らされてゆく。やがて、ビットはふたたび櫂を動かし始めた。

 海面にも朝陽が反射する。まるで光りの海だった。錯覚だろうけど、おれたちはこれから悪いものの方へ向かっている気はしなかった。でも、果てに来た感じだけはしっかりある。ここが世界の果てである。

 またビットが櫂を動かすのをやめた。今度はこちらへ手を振ってみせた。セロヒキが櫂を動かし、こちらの船を横につけた。

「ついて来てください! 竜がかんたんに来れらない高い崖の下に船をつけます!」

「ああ!」

 ふたりとも波音に屈しないように大きさの声でやりとりをする。もう島の浜辺は見えていた。けれど、あそこは開き過ぎている。もし白い竜が待ち構えていれば、かっこうの標的になりそうだった。

 まだ陸からかなり離れた海上にいる、まず、竜もここまでは飛んで来ないだろう。竜が飛ぶときは強い足の力で地面を蹴る必要がある、風を捕まえる、鳥類とは飛び立つきっかけの方法が違うらしい。そして、水面からは足で蹴って飛び立つことができない。水の中に落ちれば竜はその時点で終わりだった。だから、竜たちは無理をして海の深い場所までは飛んできたりはしなかった。

 いや、例外は考えてはいる。けれど、ここは例外ばかりで行動を敷き詰めては、何もできなくなる。経験や知識は必要だし、それから勇気も必要だった。その勇気の正体はじつは無謀でもある。

 最悪の想像はありたけ出来た。それでも、なにより島へ辿りつかなければ、なにもはじめられない。

 島は次第に近づいてきた。ビットの先導で崖の方へ迂回した。夜明けが終わりかけているせいか、波が次第に強くなっている。顏にかかるしぶきの勢いにも違いがあり、まるで海に攻撃されているような気分だった。神経が高ぶっている、些細なことがすべて敵に感じやすくなっている。

 崖沿いをゆく。朝陽がさらに登ってゆく。

 崖の上に何があった。見上げて続けているうちに、それが杭のようなものだとわかった。

 崖沿いに、ずっと、杭が並んでいる。何本あるかはわからないけど、百本以上あって、ずっと先まで続いていた。

 転落防止の柵かと思った。すると、ちょうど、誰かが杭を地面に設置しているのが見えた。 

 人がいる。

 女性だった。その女性は、崖の下を船でゆくおれたちを、茫然と見下ろしていた。

 それから無数にささっている杭が墓標めいていることに気づく。

「ねえさん!」

 ビットが叫んだ。

 直後、崖の向こう側から何かが放たれた。

 黒く大きい。

 突風が起き、まるでびっくり箱から飛び出してきたようだった。

 竜だった。

 黒い、大きな竜だった。

 崖の向こう側から飛び出してきた竜の勢いで風が起こり、崖の上に立つ女性の髪をすべて巻き上げた。

「だめだ、来る」

 ヘルプセルフがそう言った。

 現れた竜はこちらへ直滑降してくる、はやい。竜は口を開き、頭からつっこんでくる。そして、そのまま、ビットたちの船へ落ちた。船は一瞬で、爆ぜるような水しぶきがあがり、ばらばらになった船の木片がみえた。

 竜がビットたちの船へ身体ごと投下した。なにひとつ優れた反応ができない。わかったのは、竜が、白くはなかったことぐらいだった。海面に高く鋭い、水しぶきがあがり、向こうの船がどうなったかがはわからない。やがて、海水が雨ように水がふった。

 次には竜が海面すれすれに飛び立つ、とたん、ふたたび強烈な突風に襲われた。船がひっくりかえりそうになり、落水だけはなんとかこらえた。船は攻撃的な風に煽られ、近くの岩場に叩きつけられるように張りついて、破損した。その拍子に、三人とも岩場へ投げ出された。

 岩場とはいえ、おれたちは、はからずして陸を得て立ちあがる。

 竜はしんどそうに海面を飛んでいた。高度が低すぎるため、なんとか再び浮力を得て、空へ戻ろうとしているらしい。

 竜が海上を飛んでいるのをはじめて目にした。足のつかない海底に竜が着水することは、竜にとっては飛び立つための地面が不在ということになり、ほとんど死を意味する。この世界は竜に海を与えなかった。だから、決して竜は海の上を飛んだしりない。

 けれど、そいつは海の上を飛んでいた。もし、海に落ちれば竜といえど、終わってしまうのに。それも白い竜じゃない、飛んでいるのは、勝手知ったる種類の、黒い竜だった。

 水柱があけた場所には、船の破片と乗せていた荷物が浮かびあがっていた。仲間たちの姿はない。

「みんなを!」

 セロヒキが再び海へ向かいかける。

「にげて!」

 その声は、崖の上から聞こえてきた、ビットが《姉さん》と呼んだ女性だった。崖からこちらへ身を乗り出して叫んだ。

 かと思うと、また、崖の向こうから別の黒い影が飛び出した。さっきよりも一回り大きい、別の竜だった。

 二匹目の竜は崖から飛び立った、色は黒かった、また白い竜じゃない。こっちが岩場に立っているせいか、さっきみたいに真っ直ぐに直滑降はしてはこなかった、海上へ飛んでゆく。

「ここで炎を吐かれた逃げ場はない、浜へ」

 動揺を見せないままヘルプセルフが指示する。いつの間にか剣を抜いていた。

 けれど、あの海にはまだ仲間たちが。そう思い、その場に留まろうとした。

「だめだ、みんなを!」

 セロヒキも同じ気持ちらしい。けれど、冷静さを失ったセロヒキを目の当たりにして、冷静になる自分がいた。そして、おれは彼へ向かって手を引き「行くんだ!」と、叫んでいた。

 ヘルプセルフは走り出していた。悪路な岩場も、彼が先に駆け抜け、辿るべき道筋を判断してくれたため、後に続くおれたちは安定して走ることが出来た。

 悔しさに頭がおかしくなりそうだった。海を見ると、一匹目の竜が遠で旋回しているのが見えた。まだ、うまく高度をあげられない様子だった。

 岩場から砂浜へ出た。白く、きれいな砂浜だった。見通しもいい。

 そこに黒い竜が空から降り立って来た。さっき目にした二匹目の竜だった。

 大きい。おれがこれまで目にしたどんな竜よりも大きい、高さの幅も、二階建ての屋敷ぐらいあった。

 未体験の規模の竜を前にして完全に臆した。これは大き過ぎる、こんな大きな竜は出会ったことがない、聳え立つ、砦みたいだった。

 ヘルプセルフは竜の正面に立っていた。手にした剣は構えず、斜めに下げた刃の先は砂にふれている。

 おれは竜を見上げながら、背中から剣をゆっくりと抜いた。竜から目を離した瞬間、死ぬと思った。

 セロヒキは唖然としたままだった。生涯ではじめて向かい会う竜の大きさとしては、最悪にちがいない。

 背中からもう一本の剣を抜いた、せんせいの剣だった。竜を見たまま、それをセロヒキへ差し出す。

「これを」

 無意識のうちに剣を貸していた。セロヒキは茫然としたまま受け取った。

 その竜は、いままで出会ったどの竜よりも巨大だった。それから、顏の彫りが深い印象があった。長い間野外へ打ち捨てられて古びた彫刻みたいだった。おれたちの前に鎮座したたま、呼吸のためか、かすかに胸を動かすたびに、自身の身体のどこかが触れあって、岩同士がこすれるような音が聞こえる。

「運が良い」

 と、ヘルプセルフがいった。

「こいつはかなり老いた竜だ。動きも遅いし、おそらくもう炎も吐けない」

 むしろ、状況は良好だと宣言する。

 そうなのか。相手のとてつもない大きさを目にして、とてもそうは思えなかった。

「翼も竜としては終わりかけだ、さっき飛んだくらいが精いっぱいだろう」

 決めつけて話される。けど、登ってゆく朝陽を背景に立つ、その巨大な竜を見ても、とても運が良いとも感じられないし、これまでで最大の脅威を前にしている気分にしかならない。

 大きな黒い竜は頭部を高々と持ち上げていた。存在感は孤高の生物足り得ている。

 下手に目は離せない、細心の注意を払ってセロヒキの様子を確かめると、彼は渡した剣は握っていたが、機能停止に陥ったように茫然としたままだった。

 空に陽は登り続けていた。砂浜から竜と島の輪郭が、一体となって輝いてみえた。

 ヘルプセルフは独り竜の前に立っていた。おれは手助けをする隙間を見出せず、そこに留まってしまう。

 三人とも濡れた全身から、海水と汗が混じったものが砂に落ち続けていた。

 竜の目は青く、哺乳類には無い種類の深さがあった。その先に、この世界から独立した世界に通じているようにみえる。

 竜が吼えた。

 それから自らの頭部を振って、ヘルプセルフへ叩きつけに来る。

 たしかに、緩慢な動きだ。

 運が良い。

 ヘルプセルフが放った言葉が真実だったことに、感動すらしてしまう。 

 竜の頭部はヘルプセルフへ落とされる。けど、彼は反応していた、振り落とされる竜の頭部を左へ移動し最小限に避ける。と、ほとんど瞬時のうちに地面までさがった竜の頭の下から剣を差し込む。

 剣の柄がかんたんに竜の顎下まで達するのがみえた。

 そして、ヘルプセルフは突き刺した時と同等の速度で竜の顎下から剣を抜く。

 一連に動きには迷いも無駄もない。

 剣が抜かれると竜の目から世界が消きえたのがはっきりわかった。ヘルプセルフは倒れる竜の身体に巻き込まれないよう、けれど、おそろしく落ち着いた動きで、後ろにさがり、剣についた竜の血を振って払う。そして竜の巨大が砂浜に倒れ、地面が揺れた時には、剣はすでに鞘のなかに収まっていた。

 桁が違う。現実に直面した衝撃は強かった。

 彼の仕事に比べて、おれは遊戯の領域だった。彼は微塵も呼吸を乱してさえいない。

「戻ってビットたちを」

 ヘルプセルフはこっちを見てそう言った。たったいま、竜を殺した人間の落ち着きとは思えないほどの冷静さだった。言われて、我にかえった。そうだ、戻らなければ。

 直後、海から竜が吼える声がきこえた。少し遠い。振り返ると、一匹目の竜がこっちに向かって飛んで戻って来るのがみえた。高度も少しあがっている。それでも、不安定そうに揺れ、そう長くは飛んでいられそうにない。

 こっちを狙って戻って来ている感じはなかった。竜はただ必死に飛んでいるようだった。竜は海に落ちると確実に死ぬ、その死から逃れるように島を目指している気がした。

 二匹目の竜はヘルプセルフが竜の骨の剣で仕留めた。他の竜が激昂するはずがない。

 けれど、最初から例外だった。おれたちは、何もしてないのに、いきなり竜たちに襲われた。竜が海を恐れず襲って来た。

 いずれにしても、ビットたちの船が沈められた場所まで戻るのか、迎えうつのか。現実へ投げ込まれた二択に、気が狂いそうになる。しかも、選ぶ時間は潤沢にはなく、けっきょく、竜はあっという間に砂浜の上空目前までやってきた。

 そこまで近づいてきて、気づいた。竜の肩に何かが張り付いている。ホーキングだった。鯨銛りを竜の肩口に突き刺し、竜の胴体にしがみついている。頭上を通り過ぎる一瞬まえ、歯を食いしばって飛んでいる竜にしがみついているホーキングがはっきりみえた。

 竜はおれたち三人の頭上をそのまま通り過ぎると、高度をさげながら砂浜の向こうに広がる森へと消えたかと思うと墜落した。直後、無数の鳥たちが宿り木から飛んだ。

「ホーキング!」叫んで、森へと馳せた。

 知らない森をいっきに駆け抜ける。慎重さは放り捨ててしまっていた。落ちた方へ向かう。本能に任せていた。

 竜の鳴き声がきこえた。かなり高ぶっている、あの大きさの竜がその鳴き方をする場合、近づいてはいけないと教えられていた。

 それでも走って向かっていた。次々に起こる出来事に、頭の処理能力が追いつけず、ほとんど素の動物みたいになっていた。

 そうだ、笛だ、と思った。竜の気を引こうと笛を口に咥える。竜の骨でつくった笛をふけば、竜はその音に反応する確率が高い。あの音は竜たちの生理的な何かにひっかかる。

 笛を吹くと、森のなかから、鎌首を持ち上げた状態で、竜の頭部が浮き上がって来た。そして竜は、ふたたび吼えた。見えるのは森の天井から抜きでた竜の頭部だけだった。竜に張り付いていたホーキングがどうなっていたのかはわからない。知りたくて、焦って、竜の元へ向かう。

 無策だった。死にに行っていた。あの大きさの怒り猛った竜をひとりで相手をしたこともないし、してはならないと教わっていた。

 けれど、ホーキング。彼がどうなかったかを、どうしても知りたい。

 と、駆け抜けているとき、森のなかに広がった平地に出た。沼と草原だった。

 竜はそこにいた。肩口には銛りが刺さったままだった。ホーキングの姿はどこにもいない。いるのは、見上げ切れないほど大きく、怒り、猛った竜だけだった。真っ正面に立っていた。

 その竜と目が合う。とたん、ああ、こいつ、かなり弱っているぞ。それがわかった。長く飛んで体力を消耗したせいか、ホーキングが肩に突き刺した銛りの影響か、もしくは年老いているせいか、とにかく、生命力のひどい低下を感じた。

 とはいえ、相手は竜だった。生物としての体格差は絶望的だった。

 そうだ、さっき見たやつ、ヘルプセルフがやった、顎と喉の間に剣を差し込む。あれをやろう、やるしかない。

 何かが無謀を通り越して、それを狙って遣り合うことに選んでいた。

 とにかく思考力は零じゃなかった。つたないながらも脳漿をしぼっている。この正面からは向かっていっても活路が見出せない。後退して森なかに入るか。いや、もし、森のなかに入ったところを炎を吐かれたら、それこそ燃える森のなかに閉じ込められるかもしれない。

 竜は、さっきの竜と同じ、異世界に通じるような眼で、こちらを見下ろしていた。

 そのとき、竜の背後から、竜の背中を駆け上ってゆくヘルプセルフがみえた。彼は竜の翼の付け根までいっきに駆け上げると、左右の翼を前へ後ろへと、それぞれ一回ずつ、鋭く素早く切り裂いた。曲芸の域だった。切った翼から短く血が散った。無意識の背後から攻撃を受けた竜は、驚き、反射的に背を伸ばした。その頃にはヘルプセルフは竜の背に刺さっていた銛を蹴り、その反動を使うように飛び降り、回転して受け身をとり、地上に戻っていた。

 竜が眼下のおれに気をとられているうちに背後から。明快な方法だった。

 不意をつかれ、竜は混乱状態に陥っていた。

 ヘルプセルフが蹴った銛も同時に地上へ落ちて来ていた。すると、そこへどこからともなく、海水と傷にまみれたホーキングが駆け込んできて、銛を拾うと「がん!」と吼えて竜の右足の甲へ突き刺した。混乱に身体をゆらし、態勢の均衡が不安定だった竜は、右足を地面に貼り付けにされ、さらに態勢を大きく崩して、ついにまえのめりに倒れて顎を地面に打つ。大地が揺れた。

 そして竜の頭部が目の前に来た。手を伸ばせば届く、その距離で、竜の目がじんわりと開いてゆく、目線が同じ高さだった。

 おれを目視した竜は口から炎を吐こうとした。残ったありったけの生命力をそこに集中させてゆくのがわかった。

「奪うしかない!」

 ヘルプセルフが怒鳴った。

 身体が動く。竜が頭を持ち上げ、低い位置から炎を吐いて地上を焼こうとする寸前、おれは竜へ頬が触れ、そのまま抱き込めるほど身体を寄せた。相手の体温がわかった、かと思うと、剣の刃を竜の顎下から頭蓋を目指すように刺し込む。はじめてやったのに、この動きを知っていた。船の上でヘルプセルフに教えられた動きだった。剣はぬるま湯に素手を入れるような感触で、重い抵抗もなく柄まで竜の頭部へ入ってしまった。そして、竜のなかの致命的な何かを貫いた。

 上手くいった。どうしようもないほど、上手く入った。ただ、それだけを思った。

 それからたいして永い時を経ず、竜の身体から何か色づいたものが消えてゆくのを感じた。



 そして遣って来たのは、まるで人を殺したような気分だった。

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