このゲームには必勝法がある

 二人零和有限確定完全情報ゲームであるダマコス=ホフマンゲームは理論的に先手必勝であることがすでに数学的に証明されているのだが、いまなお世界中で五〇万を数えるプレイヤーが存在している。四年に一度の世界大会はミュンヘンで一週間の予選が行われたのち、二日間の移動日を挟んで、五日間の本戦がロンドンで開催される。予選と本選を含めおよそ二週間に渡るこの大会の全試合は世界三〇ヶ国で同時中継され、大会を重ねるごとに年々その白熱ぶりは過熱の一途をたどっている。

 二〇二二年大会では三連覇中のロシアが生んだフィールドの赤の独裁者と知られるドミトリィ・イグナショフがまさかの予選敗退となる波乱の展開が世界中のダマコス=ホフマンゲームファンを狂乱の渦へと導いた。そしてドミトリィ・イグナショフを破った若干十六歳のゲイリー・ノイマンは蒼き眼を持つ新時代の預言者としてノーシードながら一躍優勝候補として注目を集めたが決勝トーナメントでは初戦敗退、終わってみれば日本出身のプロゲーマーでオリエンタル・ゲームマスターの異名を持つ東山大吾がわずか二年のゲーム歴ながら全試合において対戦相手を完封する圧倒的な力をみせつけての優勝し、長いダマコス=ホフマンゲームの歴史上はじめてのアジア人王者となった。

 峻烈を極める数々の戦いによって緑豊かなスタジアムは岩肌の剝きだした荒野となった。疲労の色に満ちた大会参加者ならびにオーディエンス、審判、各国の来賓に囲まれて厳かに行われた閉会式で、大会委員長のジャクソン・〝天帝〟・ウィリアムスは自身の現役時代を振り返りつつ、この競技の歴史と未来について、時折声を湿らせながら熱っぽく語った。

「次回までの四年のあいだに、このスタジアムはふたたび緑に包まれる。そしてそれはまたふたたびここが荒野と成り果てることを意味するだろう。しかしこの反復は決して無意味などではない。我々は年老い、なかには次の四年を生き延びられない者だっているだろう。プレイヤーとは、競技の新陳代謝のなかで集団的成長を遂げる生き物であり、我々は偉大なる祖先・ダマコス=ホフマンの意思として永遠に生き続ける。滅びを知らない愚かさこそが、我々を次なる戦いへとかりたたせるのだ、蛮勇なる同志たちよ!」



 必勝法は「セボン」「トーチェ」「カルティエルガバナンス」の順にペルチェをゴーストすることにより、相手のサブトレースをパラメルに追い込むという戦略がもっとも一般的であり、これは「ナサニエル・パターン」と呼ばれる近代的な棋譜である。その他、あえて相手に「セボン」を宣言させたあとにパンティ・バストする「ナサニエル・ワクチン」が二〇年前に開発されているが、これは先手に限られる手法である。

 理論的に必勝法が証明されているこのゲームがいまなお競技として成立している理由は厳密なルールそのものが存在していないからであると有識者たちはいう。原理的に可能なすべての手は有限パターンに収まり、運が入り込む余地がないのだが、先手後手の概念は対局ごとに揺らぎ、ときに終局までだれにもわからない。ゆえに対局終盤で自身の先手性をいかに効果的に主張するかが勝敗を分ける鍵となり、盤上の魔術師アパラチア・クロモゴルフが第六十七回大会決勝(対ハムを頬張る聖騎士サルベージ・マリン戦)で見せた逆転劇がその代表的な棋譜となっている。

 つまり、ダマコス=ホフマンゲームは時代を経るごとに「ゲーム概念の占領」が攻略における最重要テーマとなったのだが、それを当然とするクロモゴルフ世代のプレイヤーからすれば、それまでこのゲームでなにを争っていたのかは理解に苦しむものだった。歴史を紐解いてみてもルールに関する厳密な記述はどこにもみられず、「セボン」「トーチェ」「カルティエルガバナンス」などをはじめとする専門用語の説明もない。それらは対局するふたりのあいだで対局の瞬間のみ存在する一過的な意味でしかなく、しかし名称だけに普遍性が与えられているようで、そうなるとこの世に存在しうる二人零和有限確定完全情報ゲームすべてがダマコス=ホフマンゲームとみなせるのではないだろうか? もちろん、そのように考えた人間は実在した。

 幼少期をイギリス占領下の上海で過ごした虚無に咲く華李夢華は、自身もダマコス=ホフマンゲームの強豪プレイヤーであると同時に計算言語学を専門とする若手研究者でもあった。彼女の専門は主に人間の言語認知プロセスのモデリングとそれに基づく言語生態系の発生シミュレーションを用いた言語習得メカニズムの解明であり、ダマコス=ホフマンゲームを扱った研究は当初そのデモンストレーションという意味合いが強かったのだが、ゲーム理論の援用が予期せぬ結果をもたらしたのをきっかけに学会で大きな話題を呼んだ。

 言語習得において人間は生得的に視覚的ないし音声情報の配列を自身のなかで特徴化する機能を備えているという説が数多ある有力な論文の論旨を支えていたのだが、いずれの論文でも言語発生は結果として扱われはしたのだが、その生成過程の具体的な記述は注意深く避けられていた。手始めとして李夢華はダマコス=ホフマンゲームで用いられる専門用語を核とし、アパラチア・クロモゴルフ対サルベージ・マリン戦の棋譜と照合することで対局時に特徴化される条件を特定し、そしてこの帰納的に得られた条件をもとに演繹的にダマコス=ホフマンゲームの棋譜を再現してみせた。技術的な課題は先手後手ともに手番の瞬間において可能なすべてのパターンは原理上すべて予測可能ではあるものの、その数があまりにも多すぎるということにある。すべてを見通すために必要な時間は有限の値をとるとはいっても、それが人間の時間感覚と比較した際に近似的に無限とみなせるのであればそれは人間が予測したことにはならない。可能な対局パターンの樹形図は観測可能な宇宙の大きさよりもはるかに広大な空間を即座に作り上げてしまうが、ここで対局者の優位性を評価する値を導入することによってその枝の大規模な選定が可能になる。この選定方法がゲーム理論になるわけで、二人零和有限確定完全情報ゲームという特性上、それは素朴にミニ・マックス理論を用いることで容易に行えるのだと李夢華は主張した。

 任意の二人零和有限確定完全情報ゲームはふたつの構造を持つ。彼女の研究の論点をやや強引に要約するとこのようになる。ひとつはゲームを遂行する手続き(つまり「ルール」)としてゲーム表面に現れる構造であり、もう一方はそのゲームを行うことによってプレイヤーに見出される意味という深層的な構造である。最終的にプレイヤーが認識するゲームというのはこのふたつが統合されたものであるのだが、李夢華はこの生成文法理論とのアナロジーからゲームの言語性に着目して考察を進めた。

 ゲームはそのふたつの構造が互いにその正誤を精査することによりその規則や意味の反復的な修正を行うのだが、ダマコス=ホフマンゲームの特殊性はとりわけ意味により構築される深層構造のとりうる状態数は有限といえど、表層構造と比べて近似的に無限に近いという点にある。チェスや将棋といったゲームはすでにこのフィードバックが収束した静的ゲームであるとみなせるのに対し、ダマコス=ホフマンゲームはこの機能そのものが表層構造と密接不可分である動的ゲームであるということができ、ゲーム更新速度がゼロである動的ゲームを静的ゲームであると定義するならば、すべての静的ゲームは動的ゲームに含まれる。つまり、ダマコス=ホフマンゲームはその他多数のゲームと比較して直感的にはかなり異質な特性を持つと感じられるが、一般に「通常」と呼ばれるゲームは単にダマコス=ホフマンゲームの特殊解であるに過ぎない。この一般化の射程距離は二人零和有限確定完全情報ゲームにとどまらないと彼女は予言する。

「つまり、この世の存在可能なゲームはすべて生得的に必勝法を備えているということでしょうか?」

 学会での討論でこのような質問が彼女に投げかけられた。それに対する彼女の回答はこうだった。

「そうです。しかしそれは特に議論に値するものではありません。真に議論されるべきことはゲームという定義の射程距離でしょう」

 このことばがひとりの学生の人生に大きな修正をもたらすことになる。



 ––––竹林さんは一般化ダマコス=ホフマンゲームについて数々の論文を発表されてきましたが、現在、コンピューターはもとより、人間さえもその対局が行えていません。これについてどのようなご意見をお持ちでしょうか?

 竹林 たしかに、一般化ダマコス=ホフマンゲームについては現在その対局環境の整備についての実践的研究が主流となっています。そして幾らかの特殊なケースにおいて、二人零和有限確定完全情報ゲームではない環境下での有効対局の報告例もあります。ダマコス=ホフマンゲーム研究としてはそのどれもが価値ある研究成果なのですが、しかしやはり「一般化」といえるものじゃない。一部の潔癖な研究者はこの点を挙げてひどく冷淡な態度を取っているのも事実です。ただ、こうした事例がひとつこの世に現れるたびに「ゲーム」というものの概念が更新されています。私としては、この現象そのものがとても興味深いですね。

 ––––ゲームの概念の更新とは、まさにダマコス=ホフマンゲーム的ですね(笑)

 竹林 はい、まさしくそうです(笑)。いま、私もちょっと笑ってしまったんですけれど、真面目な話、このことは業界ジョークとして片付けられるような問題じゃないと考えています。ルールなきルールにのっとり、対局者の意思疎通によりシチュエーションの有利不利を精査しながら、仮設的ルールを設定して行動を起こす。かなり細部に目をつむっていますが、一般化ダマコス=ホフマンゲームとはこのような形式のゲームです。李夢華の主張する「射程距離の議論」とはまさにこのことでしょう。ゲームの勝敗以前に先立つものは、それがゲームであるか否かです。ゲームであれば勝敗はつくんですよね。あの話を若い時分に直接聞けたのは幸運でした。

 ––––勝敗の議論以上に意味があるのは、勝敗の存在可能性であると?

 竹林 半分くらいはそうです。しかし、勝敗そのものに対して李夢華や彼女を支持する研究者はまったくといっていいほど関心を示していません。

 ––––そしてそれは竹林さんもそうなのですね。

 竹林 ははは、御察しの通り(笑)。必勝法についてはナサニエル・パターンとその変化系でほぼ決着がついてますし。しかしナサニエル・パターンに依存しない必勝法が未発見のまま存在していたとしても、私は研究の軸をそっちに移すつもりはないですけどね。これは私個人の考えなのですが、重要なのは「だれと対局しているのか」ということです。

 ––––と、いいますと?

 竹林 ダマコス=ホフマンゲームは二人零和有限確定完全情報ゲームという特殊性を持って世に広く知られました。一般化にあたり考察されねばならないのは「二人」「零和」「有限」「確定」「完全情報」という五つの要素であり、そのどれから着手するかで研究のアプローチが大きく異なってきます。この五つは静的ゲームにおいて互いに独立ではありますが、動的ゲームでは相互に影響を及ぼしあい、つまり力関係のようなものが存在しているのです。たとえば対局者の価値観というのは、「零和」に対して強く反応します。プレイヤーの利得合計がゼロになることを「零和」といいます。ご存知の通り、ゲーム開始時にルールそのものが存在しないこのゲームでは「何を利とするか」という基準がそもそも存在していません。

 ––––それだと「確定」、つまり「偶発性に依存しない」を犯すことになりませんか?

 竹林 いい質問です。結論からいえばノー、偶発性はありません。というのも、人間が想起できることというのは有限であり、数学的には予測可能であるからです。「有限」と「完全情報」がこれを支えているわけです。

 ––––つまり、あくまでもプレイヤー依存しているわけではなく、選択肢が膨大であるために、近似的に任意性を見ているにすぎないということでしょうか?

 竹林 はい、その理解で大丈夫です。だからこそ、この「二人」という特性の解釈が極めて重要になってくるのです。将棋を例にとって考えてみましょう。

 ––––代表的な二人零和有限確定完全情報ゲームですね(笑)

 竹林 ええ、まさしく(笑)。あるトップ棋士同士の対局では、ゲームが進展するにつれて、それが内容的に充実しているほど、対局者間での表面上の勝敗意識は消滅していくそうです。

 ––––表面上の勝敗意識?

 竹林 王将を取ったか取られたかということですね。もちろん記録としてそれはしっかり残り、かれらのキャリアにもなります。しかし高度な対局において、かれらは互いに王将を狩ることを目標とはしません。もちろん、王将を目指しての最善手を表面上は打つのですが、それは素晴らしい、あるいは「芸術的」ともいえる棋譜を作るためなのです。いいかたを変えれば、表面上の対局者は盤上で共闘する「ふたりでひとり」のプレイヤーであり、かれらは「芸術」を相手としてダマコス=ホフマンゲームに興じているわけです。

 ––––表面上の「二人」は深層的な「二人」を意味しないと?

 竹林 良いことばですね。この例は、既存の概念の表面ではなく深層へと潜りこむことこそが一般化であるということを示しています。「対局者」という存在も、対局を通して概念が書き換えられ、そしてそれは対局が終わってからじゃないと認知できない。何者と対局するかという問題はダマコス=ホフマンゲームを一意的に収束させるのではなく、むしろ一般化への回路を開きます。ダマコス=ホフマンゲームに新しい定義を与えるならば、私ならこういうでしょう。「プレイヤーが一般化された二人零和有限確定完全情報ゲームである」と。



 すでにプレイヤーとしては現役を退いて久しいが対局中一切のミスタッチをしないことで知られていたオールグリーン竹林哲治は、博士(学術)の学位を取得したばかりの若手研究者だった当時、李夢華の学会発表を聞くや否や自身が生涯をかけるに値する研究テーマを発見したと、機関誌「現代DHG」の特集〈ゲームの未来と新機軸 ~竹林哲治インタビュー~〉にて懐述している。

 竹林はこのインタビューを受けた当時ですでに計算科学としての世界的な地位を確固たるものとしていたが、しかしそれがかれにとっての学術的な成功を意味していたわけではなかった。熱心な記者の質問は思慮深く考え抜かれた痕跡をかれはそのひとつひとつに感じとってはいたものの、そこに記者だけでなく、ダマコス=ホフマンゲーム研究全体における違和感の気配もまた感じとっていた。学問だけではなく、任意の新規事業では一定の成果を収めたのちにある種の思考停止が共通認識(コモンセンス)となり、それが分厚い霧となって世界を包み込む。浴びせられる質問の折に煙草を燻らせては、記者はなにかじぶんが取り返しのつかないミスをしでかしてしまったのではないかという苦笑いを浮かべ、紫煙でわずかにぼやけたその表情のなかに竹林は見え隠れするみずからの自己否定に一抹の不安を覚えた。

 その正体についてはだいたい見当がついている。「ダマコス=ホフマン」は人名であることが知られているけれども、その生涯はおろか、いつ生まれ、いつの時代を生き、いつ死んだかという伝記的情報の一切が歴史上一度も話題にのぼったことがないということである。世界大会の予選開催地であるミュンヘンが出生地で、本戦地のロンドンが実際にダマコス=ホフマンなる人物が活躍した地であるという話は一度でもこのゲームに興じた者であればだれでも知っていることなのだが、みな一様にその情報源をおもいだせなかった。ダマコス=ホフマンなる人物の記録の一切が残っていない以上、それは当然といえば当然なのだが、しかしそうであるならばダマコス=ホフマンが人物名を指すことばであることさえ、どうして人類は知り得ることができたのだろうか。この単純な問いすら未だ人類はだれひとりとして抱けずにいたことに、竹林はこのゲームが二人零和有限確定完全情報ゲームたるゆえん、あるいは真相と呼べる論理が隠されていると睨んだ。

 神託。

 竹林の半生をかけて慎重に重ねられてきた考察はこのことばへと向かっていた。対局者同士が現時点では「人智を超えた」としか呼びようのない科学的な説明の一切を拒む力学に従い共闘関係を結ぶことでプレイヤーの個体性は抽象化される。このことは事あるごとに各種メディアの取材で「仮説」という前置きをして竹林が持論として展開してきたものであり、「竹林仮説」として知られてはいるが、その科学的根拠の希薄さゆえにくだらない神秘体験の類ととらえて一笑に伏す研究者も少なくはない。竹林とて自身のアイデアの胡散臭さを客観的に自覚はしていたものの、高度な対局者に宿る盤上の意思の可能性を直感的に否定することはできなかったし、説明する言語が不在の現象にこそみずからのことばを尽くすことを望んだ。

 一通のメールが竹林のもとに舞い込んでくる。送り主は李夢華だった。かつてじぶんをダマコス=ホフマンゲームの理論的奥深さの迷宮へと誘ったあの論文は未だ世界中の研究者たちに引用され続けているが、彼女自身はどうやら研究者を廃業してしまったようで、またプレイヤーとしても盤上にすら姿を見せていない。メールによれば彼女は現在サンフランシスコに住んでいるとのことで、事情により日本へ行くことはできない、ダマコス=ホフマンゲームについてどうしても話しておきたいこと、竹林だからこそ話しておきたいことがある、そしてその内容についていかなる痕跡も残したくはないという旨が書き連ねられていた。李とは学生時分におなじ学会に居合わせたことがあるのみで交流と呼べるものはひとつもない。かつて論文についての幾つか些細な質問をメールで問い合せたことがあったが––––当時のかれは知る由もなかったが––––そのときすでに彼女は学会から去ったあとだった。彼女の消息などだれも噂しなかったし、彼女の恩師にたずねてみても「どこかで元気にやっているだろう」と興味なさげに答えたあとですぐに話題をかえてしまう。当然といえば当然だが、竹林はこのメールは「現代DHG」のインタビュー記事を読んだどこかのだれかのいたずらだととらえた。しかし、よくよく考えてみればそのいたずらをする「どこかのだれか」が李夢華そのひとである可能性も完全には否定できない。そもそもが最悪の悪ふざけであるダマコス=ホフマンゲームなのだから、悪ふざけには全力でどこまでも付き合ってやる酔狂さが研究者にあっても悪くないという結論に至り、サバティカルを利用してサンフランシスコへと飛んだ。メールを受信してから三年後の出来事である。


「あなたは私の運命のひとだった」

 竹林哲治が李夢華と対面して最初に口にしたことばがこれである。もちろんこれはかれの学問的純潔を奪った妖女だという意味合いのかれなりの敬意を込めたジョークのつもりだったが、いかんせん李の外見は若く(もしかしたら一度だけ学会で見かけた数一〇年前よりも若く、そして美しい姿ともいえた)、竹林が本気で李を口説いているようにも見えなくもない。ふたりの面会に立会人はいなかったが、「李を口説いているかもしれないじぶん」というこの状況に勝手に参ってしまい、それに気づいた李が、

「はじめて会った気がしないわ」

 と不敵な笑みを浮かべていいはなち、かくして盤外戦は李夢華が制した。

 李は語りだす。結婚を機に研究を廃業にし、専業主婦として家庭に入り、三人の子宝に恵まれるも五年後に離婚。以後、ダマコス=ホフマンゲーム教室をひっそりと運営しながら女手一つで子どもを養っていた。そしてその子どももようやく皆成人し、ようやく止まっていた時間が動き出したようだと彼女は語った。拍子抜けなくらいにありふれた物語。しかし研究者に戻るつもりもないし、ダマコス=ホフマンゲームとの縁も完全に切ってしまうつもりだと彼女は竹林にいった。

「あなたはこの人生におけるわたしの最後の対局者になって欲しいのです」

「どうして私が?」

「ずいぶんつまらないことをきくのね」

「きくのが礼儀だとおもうのですが」

「そういうすっとぼけた態度、きらいじゃないわ」李は序盤から積極的に主導権を握ろうとする。「対局者の重要性なんて、この世で一番あなたが詳しいのではないですか?」

「もちろんです」竹林は確定した棋譜を目指して彼女へと歩み寄る。「良い対局にしたいものですね。おたがいに」

「あなたはミスタッチを決してしないそうですね」

「むかしの話ですよ」

「でも一度としてチャンピオンになったことがない」

「ええ、お恥ずかしながら」

 セボン、と竹林が宣言し、李の先手性が希薄化した。

「必勝法が確立された二人零和有限確定完全情報ゲームで、一度もミスを犯さなかったのに負ける。ほんと素敵よね」

 盤面が突如として巨大化をはじめ、街全体をまたたくまに飲み込んでいく。

「そのことには同意します」トーチェへ向かう李の手を竹林が払いのけた。「棋譜そのものに勝敗が記述されなければ、そういうことだってじゅうぶん起こりえますからね」

「わたしはむかし、必勝法とは文法だ、なんてことをいったのだけれど、勝敗の文法は勝敗の物語を記述してはくれないのよね」

「どういうことでしょうか?」

「たとえば、ダマコス=ホフマンがまだ生まれてすらいないとしたらどうかしら?」

 竹林の手が止まった。

「そこまで結論を急ぐつもりはまだないです」ここで竹林は三時間の長考に入り、その間ふたりは微動だにしなかった。そして竹林はゆっくりと口を開く。「想像力や知性は時間依存しませんから。たぶん、人間やその人生さえも」

「勝ち負けはお好きかしら?」

「負けたくないですね。もちろん」

 李はちらりと窓の外へ視線を投げ、それから姿勢を正し、力強く宣言する。

「さあ、ゲームはまだはじまったばかりよ」

 時間の流れが止まった親密な沈黙のなかで、ふたりは盤上の意思の次の一手をいまなお待っている。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る