実在を問わないわたしたち

 まずはあなたたちの流儀に合わせよう。

 わたしの軸を引き、次にあなたの軸を引く。そしてかれを、彼女を、任意のだれかの軸をとる。そうしてできあがったn次元の空間に現れる軌跡を物語と定義しよう。

 物理状態を示すパラメータで張られた相空間が運動を記述するように、我々はあなたたちの状態で物語を記述する。各要素の数値がゼロでない値をとるときその人物は物語上に存在し、したがってシチュエーションはゼロでない数値をとる要素の数だけの次元を持つ。こと小説において──言い換えれば1次元データ配列表現媒体において──次数下げに相当する変換操作が用いられる。あなたたちはこれをレトリックと呼ぶ。


 言語によって記述された物語を自然科学として解釈する。

 それが数学者である叔父の研究だったわけだが、当然のようにかれの弁を真に受けるものはいなかった。いつかから始められ、いつかに終わった叔父の研究はひとつの論文にまとめられ、学術雑誌に投稿されるでもなく無造作にネット上に放り出されていた。一般的な研究ですら議論が成立する学者が世界に10人と言われる純粋数学の分野において、叔父の理論は下支えする基礎理論こそ従来の数学研究の文脈にあるものではあったが、それを用いて行われたのは既存の数学体系の解体であり、新たな数学を語るための言語の構築だ。正誤はもとより、言うまでもなく簡単な仕事じゃない。論文は悪意を持った長大さと複雑さゆえ、かれと親しい数学者でさえもほんの序盤で解読のさじを投げた。数構造として物語を扱うアプローチは隠喩が過ぎるし、意識を相空間の座標とする中途半端な具体性は厳密性に欠ける。

「いまさら君にいうまでもないのは重々承知で言わせてもらえば、」かれの友人はこう指摘した。「数学に限らず学問とは隠喩そのものにあるわけじゃない。事象と事象を跳躍し、アナロジーによって架橋する行為が隠喩であり、学者の仕事は主にそのあいだを埋めることだ。たしかに隠喩を掴む眼は必要だが、それ以上に隠喩を隠喩でないものに変える水も漏らさぬロジックの建設が我々の専門性であり、技術である。人生は短い。こんなたくましい空想に付き合っていられるほど、我々は暇じゃないんだ」そして長いため息を吐き、こう話を締めくくる。「隠喩がやりたいなら小説でも書けばいい」

 その日のうちに小説の執筆にとりかかった叔父は、もしかしたら楽天的な人物だったのかもしれない。あるいは他人や、もしかしたら自分自身について単になんの興味も持っていなかったのかもしれない。自身の数学理論を援用したかれの小説の執筆で、ペンとして使用されたのはプログラムだった。特定の意識を入力すれば連続的に意識が時間発展してゆく。それは単語、文、パラグラフ、エピソードという具合に成長する結晶のように自己組織化し、やがて微分不可能の点に到達するとプログラムは筆を置く。叔父は出力されたテクストを読み、意識を抽出し、またプログラムに入力する。そんなことを繰り返すなか、季節が巡り、知人が死に、若い才能が誕生し、戦争が起きる。国が滅び、焦土となった大地に立つ英雄が叫び、新たな国が産声をあげる。タピオカが流行り、タピオカが忘れられる。そうして完成した小説を叔父は目に付いた出版社に手当たり次第持ち込みにいったのだが、どこの編集者もいうことは同じだ。たとえばこんな感じに。

「小説とは答えを出すものじゃないんです」

 いわく、小説は科学じゃない。数学のことばじゃなく、小説のことばで語ってくれませんか。人間のことばで語ってくれませんか。かれや彼女のことばに叔父は戸惑った。これらの指摘から唯一学んだのは、かれのことばが人間のことばじゃなかったということだった。叔父はその小説を永遠に葬り去った。その際に「答えがあるならこっちが教えてもらいたい」とでも独り言ちただろう。

 幸運なことに執筆の際に使用したプログラムは残っている。

 しかしプログラムがあるからといって叔父の小説があるわけではない。

 そもそも紙とペン、そして設計図さえあればおなじ散文を1字と違わずに復元できる可能性については、叔父の理論で否定されている。それというのは物語と等価の散文群の初期条件問題と命名され、それは叔父のことばを借りるならば「エデンの園」のようなものだという。プログラムにより生成される「閉じた散文」、つまり「始まりと終わりがある文章」は、人称相空間において連続でなめらかであり、もと来た道を通らない。そしてペンを持つ我々は、出力されるテキストを覗き込みながらもその内部にいる。プログラムの外にいながらプログラムの内に含まれている。テクストの観測がテクストそのものに影響を与えてしまうがゆえに、我々はおなじ初期状態を入力できない。

 ただし、まったくおなじ散文を出力できなくても、似た文章であれば出力できないことはない。この近似的再現性を担保するため、叔父が手がけたすべての文章のなかで、重要なことはすべて「叔父」によって語られる。多くの小説で「叔父の物語」が語られるのはこのためであると叔父は述べているのだが、わたしもまたそれにならってこうして筆をとっている。さしあたって、「叔父」と「わたし」を等号で結んでいただいて問題ない。

 叔父についての話はここではこの程度にしておきたい。しかるべき文脈が訪れたとき、わたしは叔父について語ることになるだろう。そこにたどり着くまではいくつかの準備がいる。


 ともあれまず述べなければならないのは「ここはどこか」ということだ。



「ふたつの円がここにある」10代のころだった。進路に悩んでいたわたしに叔父はいった。「ひとつは大きく、ひとつは小さい。どのくらい大きくてどのくらい小さいのかはどうでもいい。大した問題じゃない」

 わたしは広告の裏側に大小ふたつの円を横に並べて描いた。それを見た叔父はいたずらをする子どもみたいな笑みを浮かべながらいった。

「線というのは点の集合だと定義されるが、じゃあこの2つの円はどっちのほうが多くの点を有しているかわかるか?」

「大きい円じゃないの?」わたしは即答した。「見ればわかるじゃないか。レンガを積んで壁を作るならば、大きな壁を作るにはたくさんのレンガがいるのとおなじじゃないか」

 叔父はそれに答えることなく、手元の広告をすっと取り上げると、わたしが書いた大きな円の内側に同心円となるように小さな円を描いた。

「おまえの考えには前提で大きな間違いがある」そして叔父はふたつの円の中心から一本の直線を引く。「点には大きさがない。だから、大きな壁をつくるのにたくさんのレンガが必要だというロジックは成り立たないんだ」

 叔父が引いた直線は、大小それぞれの円と1点で交わる。叔父は同じ始点から別の角度で直線を引く。2本、3本、4本と引き、それらはやはり2つの円とひとつの交点を持つ。

「大小ふたつの同心円の中心から任意の角度で半直線を引けば、かならず2つの円とひとつずつの交点を持つ」叔父は広告の裏に描かれた円と直線の交点をボールペンで軽く叩いた。「これを言い換えると、2つの円は中心から任意の角度に対応する点を必ず1対1で持っているということになる」つまり、ふたつの円のなかに含まれる点の数は等しいという結論が導かれる、と叔父のことばは続いた。

 大人になってから思い起こせば、これはよくある「無限」の説明で使われる挿話だ。グラフとして描出されるあらゆる図形は無限個の点の集合であり、相似な図形においておなじ大きさの無限個の点によってなされている。無限と有限では数え上げるための手続きが異なっており、それは呼称に現れる。有限では「個数」と呼ばれていたものは無限において「濃度」と呼ばれる。この文脈で叔父が発するであろう次のことばは1つしかない。

「ならともに無限個存在する自然数と実数では、どちらのほうが大きな無限か?」



 叔父は「物語を規定する空間」を「人称相空間(personal phase space)」と命名した。Wikipediaによれば「想像可能な意識主体の数だけ次元を持つ相空間」という簡単な説明が与えられている。

 単純に考えれば無限の座標軸を持つこの空間の構造について、叔父は論文のなかで次のように議論を進める。

「人称相空間を張る次元は自然数的無限か、それとも実数的無限か?」



「それはかんたん」わたしは叔父から紙を奪い返し、大小2つの同心円を指差していった。「自然数は実数に含まれる。だから数が多いのは実数だ」

「そのロジックには穴がある」すっかり得意になっているわたしを、しかし叔父は鼻で笑った。



 意識に実在を問わない。

 それが叔父の理論の大前提だった。叔父が対象としているのは無限に広い空間ではない。そこは想起可能なすべての存在を想定して貼られた空間であり、その結果として無限の広さが導かれるだけにすぎない。わたし、あなた、かれ、彼女、だれか、だれでもないだれか、だれかですらないもの、生命ですらないもの。人称座標の1本1本が示す任意の意識はそうしたすべての想像可能な存在の想像可能な状態を数として指し示す。わたしはあなたを愛していた──わたしはあなたを憎んでいた──わたしが百年の恋を実らせた──わたしは叶わぬ恋に身をやつして絶望のただなかにいる──わたしは父の書庫から盗み取った一冊の書物を手に同志たちとともに安らかな眠りにつきながら夜の東京湾をゆっくり沈んでいく──わたしは神だ──わたしは死神だ──わたしは存在していない──存在しないわたしはわたしによって想起された──具体的な事象を列挙してみてたところで実際の数構造からは遠く離れていくだけでしかない。

列挙された状態は見かけの離散性を強調するが、人称座標上の数は連続だ。場所、時間、知覚、動作、感情。そうしたすべてを圧縮した数は比喩的にいうならば小数点以下無限に伸び続ける無理数的な性質を持つ。だからこそ、有限の長さで構成された1次元データ配列たる散文表現では常にその近似的な値の抽出しかできないのだと叔父はいう。そして論文ではこうも述べられている。

『散文表現は自由だ。たしかに人間が想起可能な領域において近似的に自由だとみなせる程度に広い空間が想定されているだろう。ただ、その原理的な操作において真に自由と呼べる性質は備わっていない。ひとつひとつの演算操作は厳しい制限を受けているが、しかし有限個体たる我々がそこに自由を実感できるのはそもそも対象とする微視的な事象ですら、非可算数的性質を持つことに由来している。散文表現はそれが無限に続くとしても、高々有限個しかない操作の無限の組み合わせとして構成される可算無限に過ぎないのだ。ちょうどわたしがこうして記述している本稿もまたそれに属している。』



 自然数は実数以前に有理数に含まれ、ふたつの自然数の分数で示される有理数は、以下のような手続きで機械的にすべてを書き下すことができる。ふたつの自然数のペア(a,b)を考える。出発点をa=1、b=1とし、aはb以下の自然数とする。aがbよりも小さいときにaに1を加え、そしてa=bとなったときにbに1を加える。この手順で生成された有理数すべてを操作回数でナンバリングすると、すべての有理数は操作回数と1対1に対応する。ゆえに有理数は数え上げ可能な性質がある──つまり「可算」である──と叔父は証明してみせた。

「無限の濃度についての議論の基礎の基礎は、数え上げが可能かどうかを検討することだ。そしてこの可算性とは、自然数との1対1対応によって証明できる」叔父の説明を飲み込みきれていないぼくは黙ったままだったが、叔父は構わず続けた。「結論をいえば、実数は非可算数だ。だからおなじ無限でも自然数の数よりも多い」



 人称相空間の広さの議論で叔父が使用したのはカントールの対角線論法だ。クルト・ゲーデルが第一不完全性定理を、アラン・チューリングが停止性問題を証明するために援用した証明技術。任意の数の並びで構成される集合について、各要素をナンバリングとともに縦に並べ行列もどきをつくり、その対角要素に矛盾が現れることを示すことで元の命題が真であると主張できる。

 カントールはそれを使って実数が非可算であることを証明した。まず便宜のために、0から1のあいだに含まれる任意の実数の集合を考える。この集合は可算であると仮定し、各要素にはそれぞれ1対1対応する自然数でナンバリングが施されており、その番号に従って上から順に並べたリストを作る。そしてできたリストの小数点以下の数を行列に見立て、対角要素を抽出した実数「0.a1a2a3…an…」をつくり、この実数の各位数に適当な操作を加えてやる。1を加えてもいいし、3を引いても構わない。とにかく元の数とはちがう別の数に変換してやる。そうして新たにできた実数「0.b1b2b3…bn…」を元のリストから探し出そうとしても見つからない。n番目の実数はかならず生成された実数と少数第n位の値が異なっているからである。こうして任意の実数について「自然数と1対1対応するナンバリングができない」という結果が得られ、元の仮定との矛盾が生じる。よって、実数は非可算である。

 叔父はこのスキームを、人称相空間を張る軸の数についての議論に適用した。それぞれの人称座標は実数を示す。つまり非可算な数の集合である。この軸がそれぞれ固有の意識、便宜的に「人格」と言い切ってしまうならば、人口が自然数で数え上げられるように、感覚的には軸の本数──つまり人称相空間の次元──は可算であると考えるのが素直だろう。しかし、この座標軸じたいの数的構造を考慮すると、我々はその軸の本数を数え上げることができなくなる。叔父は「わたし」と「あなた」のあいだにあるすべての意識を数え上げようと試みた。この歴史で、これからの歴史で語られた存在、語られることになる存在、語られることなく永遠に眠り続ける意識の人数。それらはすべて実在を問わない書物のなかに存在するという仮定のもと、叔父は思索にふけった。



 わたしは叔父の人生の変換としてこの世に生を受けた。

 無論、生物学的には意味をなさない主張であるが、逆を言えば生物学的ではない領域において意味を持つ。もっといえば数学的な意味を持つ必要すらない。わたしにとって重要なのは、今こうして文章を書いていることに他ならない。それは次の瞬間すべて消してしまえばもう一字一句違わずに再現できる散文ではないという偶発性のもとに存在し、文章の連なりとして推し進められる時間はひとつの未来にしかたどり着けない。高々有限の操作の可算な無限の組み合わせでしかないこの場所で、身体を通過してきた偉大な書物やちんけな与太話を組み替えながら生きながらえる。いつかに芽生え、いつかに途絶えるわたしのひとつの物語は、非可算な無限の語るべき物語と語るべきでない物語で彩られている。叔父の第三の眼に映し出された巨大な書架にあるナンバリングされていない物語。ザムザは虫にならず人間のまま、自らの正義のために金貸しの老婆を殺そうとしたが思い留まり、猫ではなく犬だった吾輩の活躍によりアダムとイヴは蛇のことばに耳をかさず、我々は存在しなかった。世界の不在がこの世界に存在する。叔父は数学がてんでできなかった。他愛のない空想家でもなく、寝る前の晩酌だけを楽しみに生きる卑屈な老人で、わたしになにも話してはくれなかった。叔父はそのすべてを語ろうとしたが、それらすべてを語りきれないことなどかれが一番よくわかっているはずだ。

「不可能に向かう連続的な思考」叔父はいった。「我々が発見と呼びうるすべてはその過程のなかにのみ存在している」

「不可能が数え切れないほどたくさんあるから?」

 わたしの質問に叔父は最後まで答えてくれなかった。沈黙を守ったまま7人の同志と東京湾の奥底に沈んでいき、葬式で見たかれの顔は生前のどんな表情よりも安らかだった。真相はわからない。

 それゆえにわたしは思考する。

 叔父がなぜ死んだのか。

 その思考のなかで叔父は生きている。わたしと叔父のあいだには数えきれない無限の書架がずらりとならび、そこにはすこしずつわたしで、すこしずつ叔父のだれかの物語が記述されている。わたしはそれをひとつずつ読み進める。そのどれもが見知らぬ物語でありながら、すこしずつどこか懐かしい。無数のわたしが無数の叔父と対話をし、わたしは一方的に打ち負かされて、叔父はそのたびに子どもみたいにけらけら笑い、また別のわたしが叔父から一本とってやると、違う叔父が背後で目を丸くし、わたしの知らない言語を口にすると人称相空間に穴が開く。この瞬間、すべてのわたしがそこで一斉にかなしみに包まれた。泣き叫ぶわたしたちのから吐き出されたことばは闇よりも暗い変換不能なその一点へ、落下するようにひとつ残らず吸い込まれていく。

(了)

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