フロ屋再襲撃
フロ屋襲撃の話を妻に聞かせたことが正しい選択であったのかどうか、いまもって確信が持てない。フロ屋といってももちろん銭湯の類ではなく、もれなく生物学的な意味での女の子がついてくるあのフロ屋だ。ひとによっては「トルコ風呂」という名称のほうがセンチメンタルに滲んだ愛着があるだろうが、かつて東大に留学していたトルコ人が母国の名をいかがわしいサービスに使用されていたことを知って憤慨し、再来日の際に厚生大臣に名称改変の直訴したのがいまからおよそ35年前のことだ。昭和で、良い時代だったが、あいにくそのときぼくはまだ生まれてもいない。その後、失敗したドミノ倒しみたいに全国各地の特殊浴場協会がトルコ風呂という名称をパタパタと廃止し、東京都特殊浴場協会はそれに変わる名称を全国公募した。その結果、現在では「ソープランド」という名で知られているが、この程度の情報はWikipediaを見ればだれでも仕入れることができる。
ぼくはかつて地元だった福原のソープランドを襲撃したわけだが、最初にいっておくと、その結果は成功ともいえたし失敗ともいえた。むしろ襲撃だったかどうかも怪しく、執念や行動力、社会的インパクトや力強さ、そして能動的態度を鑑みれば、このトルコ人が起こした騒動のほうがはるかに「襲撃」といえるかもしれない。
ぼくは妻に当時のことを話した。しかし話すまではそんなことをすっかり忘れてしまっていたし、当然ながら話すつもりもなかった。やむをえず話してしまったということでもなければ単に思いつきで話したというわけでもなく、その必要性はいまなお天文学的な数多の真実のなかに宙づりにされている。真実はひとやひとでないものに発見されることを息をひそめて待っているが、その発見は真実にとって実存の必須ではない。たとえばぼくと妻が結婚したことだって、数ある真実のひとつであり、妻はぼく以外の男と一緒になる真実を選ぶ必要はなかったのだ。数ある真実のうち、肉眼で捕らえられたもののみを我々は「現実」と名付けているに過ぎない。
話を戻そう。
その日、ぼくにフロ屋襲撃を思い出させたのは堪え難いほどの勃起だった。フルボッキとでもいえば想像に難くないはずだ。時刻は夜中の2時前だ。ぼくらの勤め先は最寄駅からそれぞれ東と西の逆方向に電車で45分ばかり行った先にあり、どちらも残業の絶えない仕事で夕食はいつも22時過ぎだった。だいたいはスーパーの惣菜と冷凍しておいた白米、インスタントの味噌汁ですませ、その後どちらが先にフロに入るかの無駄な牽制が30分ほど続いて、ぼくが先にぬるま湯に浸かった。上がるとすぐにベッドにもぐりこみ、まどろんでいるうちに妻がとなりにすべりこんできた。そこでぼくの意識はいったん途切れる。そして目覚めたとき、進撃の巨人の超大型巨人が少年エレン・イエーガーたちの町を囲む外壁に一撃を与えたような性欲が、まさしく暴力としかいえないかたちで襲ってきただった。ぼくの目覚めに気づいた妻が、どうしたの? と訊いた。
「どちゃくそしたいんだけど」
妻は妊娠していた。妊娠が発覚したのはほんの2週間前で、安定期にはまだ入っていない。妻はぼくに可及的すみやかに書斎にいって自慰をするよう促し、それじゃだめなんだといえば、手でならしてやってもいいといったがぼくはそれを断った。ぼくは後背位でホームレスさえ食べないような残飯に群がる野良犬みたいに腰を振りたかったし、たがいの絶頂のタイミングを注意深く見極めたのちに女の子の上体をそらせ、乳房を揉みしだき、そしてしみけんが得意とするロールスロイスなる体位の実践をしたいという旨を妻に伝えたがそれは黙殺された。
「いまから風俗にいけば?」
ソープ街は家のすぐ近くにあった。
「いや、風営法的には午前0時でソープランドはぜんぶ閉まるんだ」
「くわしいのね」
「たしなみさ」
「あなたの?」
「男のね」
妻はしばらく暗い天井を見つめた。ぼくは枕元で充電しているスマートフォンの明かりを灯した。
「これからちょっとラブホにいってデリヘルでも呼ぼうかとおもう」
しかしそのぼくの提案を妻は拒否した。どうせ高い金を払ってパネマジにあうだけだと冷たく言い放った。
「それに午前0時を回ってラブホで女の子を待っているような男はどこか間違っているわ」
たしかにそうだとおもった。妻のそのような意見(ないしテーゼ)はある種の啓示のようにぼくの耳に響いた。ぼくには、いまじぶんが抱えている飢餓がどこぞの安くて雰囲気もへったくそもないヤニまみれの黄ばんだラブホの一室で、便宜的に充たされるべきものではない特殊な飢餓であるように感じられたのだ。
特殊な飢餓とは何か?
ぼくはこの飢餓の充足の不可能性を、このようなかたちで提示することができる。
①セックスがしたい。
②できるだけ童顔で色白でおっぱいの大きい女の子(ここを絶対に間違えてはならない)とセックスがしたい。
③そしてできるだけ妻と似ていない女の子とセックスがしたい。
④しかしこの世のすべての女性は妻によく似ている。
そして事実、ぼくはいま、おおよそポルノ小説でしか使用例を見ない「怒張」という形容が可能なほどに強烈な勃起をしながらも、我慢汁をただの一雫すら滲み出せないでいる。こうした渇望と同じものをかつて経験したことがあった。ぼくはあのときもいまとおなじようにギンギンでムラムラしていたのだ。あれは──
「フロ屋襲撃のときだ」
「フロ屋襲撃って何のこと?」とすかさず妻が質問した。
そのようにしてフロ屋襲撃の回想がはじまった。
前述の通り、ぼくが襲ったのは福原のソープランドだった。大学をサボりがちだった学生時代のことで、当時はニコニコ動画がペストのごとく猛威をふるい、多くの善良な大学生たちを廃人に変えていった。誰もが大学生協で買った真新しいラップトップと受験勉強を終えてだらしなく弛緩した脳みそをインターネットにつなぎ、テニスの王子様のミュージカルを下劣に聞き間違え、鬼畜レベルの難易度に改造されたスーパーマリオワールドに興じ、かたやオフラインでは人生ではじめてできた恋人と原始的なセックスに耽る──そんなアンビバレンスな時代だった。
「あなたもそうだったの?」
「まあね」
彼女と出会ったのは、もっとずっと後の話だ。
「その話、長い?」
「すこし」
「じゃあ飛ばして」
ぼくは続けた。
「とにかくその当時、ぼくはフロ屋、つまりソープランドを襲撃したことがあるんだ。それほど大きいソープランドじゃないし、名のあるソープランドでもない。童顔で色白でおっぱいの大きい女の子がたくさんそろっているわけでもなく、二度と『ソープランド』という文字列をこの語順で発音したくなくなるくらいのトラウマを残すようなひどい店でもなかった。福原ならどこにでもある平凡なソープランドだった。柳筋の真ん中よりちょっと山手の小道を東に折れたところにある店で、朝出勤が3人、夜出勤が5人程度の小さな店だった。早朝サービスタイムで客入りが悪いと1日中サービスタイム料金で営業しているような店だった」
「どうしてそんな店を選んだの?」
「複数プレイを望まなかったからさ。我々はどうも3P以上は落ち着かなくて、正常位で挿入しながらもう一方の女の子を手マンでいかすみたいな器用な真似はできなかった。経験値も足りなかったしね。まさに手に余るとおもったんだよ」
「我々?」妻がいった。「我々ってだれのこと?」
「ぼくには相棒がいたんだよ」ぼくは説明した。「もう10年も前のことだけれどね。我々はふたりともひどい貧乏で、使い捨てのTENGAをもらったら5回は使っていた。もちろんガールフレンドなんていなかった。だからその当時、我々は射精するために実にいろんなひどいことをやったものさ。フロ屋襲撃もそのひとつで──」
「よくわからないわ」と妻はいって、ぼくの顔を覗き込んだ。「さっきあなたは大学生ははじめてできた恋人とセックス三昧だって話をして、わたしはあなたもそうだったの? ときいたら、まあね、と答えたじゃない。あのとき何で嘘をついたの? 嘘じゃなくてもほんとうのことをいわなかったの? 何? え? 見栄? だっさ」
「素人童貞だったのさ」とぼくはいった。「それはもう、実にはっきりしていたんだ」
「でもいまはこうして、結婚もして子どもにも恵まれたじゃない?」
「時代が変われば空気も変わるし、ひとの考え方も変わる」ぼくは右手の甲で目をこすった。「そろそろ寝ないか? 明日も早いんだし」
「それがぜんぜん眠くないのよ」妻はぼくのパジャマの袖口を引いた。「フロ屋襲撃の話の続きを聞きたいわ」
「つまらない話だよ。派手なアクションもないし、ことさらエロくもない」
「それで襲撃は成功したの?」
最初に述べた通り、我々の襲撃は成功したともいえて、失敗したともいえた。というのも、我々は無事に女の子とのセックスにありつけたけれども、それは強奪というかたちで達成されたわけではなかったからだ。パンティ・ストッキングを被り、その上に黒のニット帽を被り、さらに手にモデルガンを持ってポケットに爆竹を突っ込んで武装した我々が店の入り口に立つと、ちろちろと、品性を損なった異様にでかい風鈴みたいな音に出迎えられた。そして金髪モヒカンの、まだ10代の無垢を秘めた瞳をした男性店員が我々のもとに駆け寄ってきた。
店員はこういった。これから新人の女の子がいる部屋に通してやるから、そこでサービスを受けろ。なにもしなくていい。ただサービスを受けるだけだが、射精をしてはならない。もしも時間いっぱい──85分だ──耐え切ったら、最後までやっていただいてけっこう。お金もいらない。店員は万が一──実際には万が九九九九といったところか──射精した場合のことを、たとえ我々が訊ねても一切説明しなかった。ただ不敵な笑みを浮かべ、そのときはそのときです、とだけいった。
「あなたはそれに耐えたのね」
「もちろん」ぼくはいった。「2のべき乗をひたすら計算していたんだ。2の1乗が2、2の2乗が4、2の3乗が8って具合にね」
「どこまで数えたの?」
「83乗まで」ぼくはこたえた。「9,671,406,556,917,033,397,649,408」
「呆れた」妻は笑った。「あなたにはそんな才能があったのね」
「これが才能というなら、だれにでもひとつくらいはあるさ」
つまり我々は、みずからの性欲を強奪というサディズムで解消したわけでなく、不可避的に巻き込まれた我慢大会というマゾヒズムで解消されてしまった。ゆえに武装して店舗に立ち入ったにもかかわらず罪に咎められることもなく、ニュースにもならなかった。相手をしてくれてた女の子は「またね」といって手を振っていた。
この日以降、あれほど我々を苦しめていた性欲が消え去り、何度も洗ってつかっていたTENGAを燃えるゴミに出し、新聞をとりはじめた。政権の是非や世界平和、そして死後に我々はどこへ向かうのかという思想にふけった。休日はスターバックスでMacBookを開き、幾つかのプログラミング言語を習得し、悪くないiPhoneアプリをいくつか作り、学生ながらに悪くない収入を得た。するといつしか我々にも悪くない彼女ができた。性欲は消えたといっても、必要に応じた必要分の勃起は可能だった。しかし、それはすがすがしさや解放感ではなく、むしろ虚無感が我々の胸のうちに巣食った。
「呪いね」
「なるほど」ぼくはひどく喉が渇いていた。そこで話を中断し、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを1本取ってきて、妻が横になっているベッドに腰掛けると同時にプルタブを引いた。「あれ以降、我々は互いにどうやって射精を耐えたか、何度も話し合った。たとえば2のべき乗がどうしてここまで効率的に、そして残酷なまでに性欲から切り離されて存在できるのかということについてをね。我々がこの空洞化した性欲の話をするほど、我々のあいだにこれ以外の話題は存在できなくなった。ひとつの宇宙がビッグバンから生じて膨張し、やがて冷えて縮小して無に帰すように、我々の関係も終焉を迎えたんだ。もちろん、これでぼくらのパートナーシップは解消だ! なんていう宣言はなかったけれど、いまじゃもう、どこでなにをしているか怪しい。もしかしたら名前も思い出せないかもしれない」
「虚無感が、ほんとうの虚無になったのよ。呪いはイメージから具現に移行するのよ」
「きみのいうように、これが呪いだとして」ぼくはビールを一口飲んだ。「どうして今更、ぼくに理不尽な性欲をもたらすんだい? そしてぼくはどうすればいい?」
「決まっているでしょう」彼女はベッドから出て、クローゼットを開いた。「フロ屋を襲うのよ」
寝巻きのうえにウインドブレイカーを着て、ぼくらは中古のプリウスに乗り込んで福原の歓楽街を時速15キロメートルで走ったが、幾つかの個人経営の小さな飲み屋に明かりが灯っているだけで、他はすべて店じまいをしていた。法律の関係もあるから店舗型風俗で開いているなんてことはないよ、とぼくはいったが、助手席で妻はiPhoneとiPadを同時に開いて風俗ナビを片っ端から巡回していて、ぼくの声はどうやら届いていないようだった。
「もうあきらめようぜ」とぼくがいったところ、ここよ! と妻が甲高い声をあげた。iPadで提示されたのは、神戸駅の横にあるスーパー銭湯だった。
「これは風俗じゃない」
「裸の女がいるならどこでも一緒よ」さすがに素人の女性に手を出すのは気がひける、と訴えたのだが、妻はときには妥協も必要だとぼくを言いくるめ、彼女の指示に従い神戸駅近くのコインパーキングに車を停めた。
サイドブレーキを引くと、妻はそそくさと後部座席へと移動し、変装用の獣神サンダー・ライガーの仮面と業務用とおぼしき大量のコンドームが入った箱を取り出した。
「そんなにもできないよ」とぼくはいった。
「備えあれば憂いなしよ」妻は決然たる態度でいった。
ほんとうにぼくはフロ屋を襲撃するべきなのだろうか。その迷いがぬぐえきれず、パーキングに停めた車のエンジンをまだ切れずにいた。ほとんどぼく自身の意思とは関係なく突如として現れたこの性欲を、強奪というかたちで解消せねばならない理由などわからない。しかし妻がいうようにそれは安易な自慰や受動的な性交ではない特殊な飢餓であるという確信があり、その直感には抗い難い。車の外に出た妻は精算機の横に立ちぼくに冷徹なまなざしを向けている。ぼくは目を閉じて2度深呼吸をし、ふたたび目を開いた。そして車のエンジンを止めて妻の後を追った。
24時間営業のそのスーパー銭湯はショッピングモールの11階から最上階の17階までを占拠している。有馬かどこかから持ってきた天然温泉を使っているとかなんとかで、日帰り温泉を楽しむだけでなく宿泊も可能で、マジックミラー越しに神戸の街を眼下に臨む展望風呂が特に人気らしく、たびたび旅行メディアにも取り上げられていると館内の壁という壁に宣伝ビラが貼られている。我々は普通の客として受付を通り、眠っているのか起きているのか定かではない細目の青年がボソボソと口にする館内説明を聞いていた。22時〜翌6時の入館は宿泊料金もかかるらしい。精算は退館時に一括で行い、館内での飲食・岩盤浴・垢すりなどのサービスはロッカーの鍵についているバーコードで履歴をつけるとのことだ。我々は青年に礼をいい、この青年の安眠のために我々以降かれの勤務時間内に入館者や退館者がやって来ないことを願った。
13階の大浴場に向かうエレベーターに乗り込んだのは我々だけだった。妻はここで獣神サンダー・ライガーの覆面を被るよう指示をし、ぼくは彼女に従った。時刻は午前3時半を回っていた。女湯の脱衣所にはだれもおらず、だだっ広い空間に木目調のやさしい色彩のロッカーが整然とならんでいて、垂れ流されたテレビは高齢者向けの健康食品を素晴らしさを謳っていた。ぼくはやはり妻に促されるまま服を脱ぎ、獣神サンダー・ライガーの覆面を除いてすっかり全裸になった。もちろん勃起していた。獣神サンダー・ライガーの覆面をかぶった妻はロッカーにハンドバックを入れると、着衣のままコンドームが入った箱を小脇に抱え、ポケットにマートフォンをねじ込んだ。
案の定、大浴場にはひとが見当たらなかった。
「サウナを見てくるからあなたはかけ湯でもして待ってなさい」と妻がいった。
風呂に入る以外にすることがなかったので、妻が別フロアにあるサウナとミストサウナを見に行っているあいだ、かけ湯をし、体を洗っていた。それでもまだ時間が余ったので展望風呂に浸かっていた。浴槽で足を伸ばしたのはおおよそ半年ぶりだった。
すると妻がぼくのもとに戻ってきた。妻の後ろを20代後半くらいのショートカットのやせ細った女が俯きがちに歩いていた。当然彼女も全裸だった。妻がいうに、ミストサウナにいた彼女を、店員を装って外に連れ出し、そして不意にスマートフォンで全裸を撮影したという。大声を出したり、指示に従わなかったりしたらこれをTwitterで拡散すると妻は脅し、女は現在進行形で黙って妻の言われるがままになっているらしかった。
「とりあえず、あなたは」妻は事務的な口調で女にいった。「そこの壁に手をついて、後ろ向きになってちょうだい」
女はやはり無言で指示に従った。ぼくに向かって突き出された小ぶりの尻は、こういう出会いかたでなければきっと魅力的だったはずだ。
「どうしてきみは抵抗しないんだ」ぼくは尻を突き出した女にいった。女の股の下で陰毛が小学生のときに書道の時間で使っていた筆みたいになっていた。「こんな理不尽なこと、あっていいわけないじゃないか」
「あなたが悪人でないことはわかりました」無言を貫いていた女は尻を突き出した姿勢を崩すことなくいった。「しかし、獣神サンダー・ライガーの覆面をかぶった全裸の勃起した男性にいわれても説得力ないです」
「やるの? やらないの?」妻がコンドームの袋を開けた。
「別にあなたとここでするのは問題ないです」女が相変わらず尻を突き出した状態を崩すことなくいった。「さっさとやって、さっさと終わりにしましょう。それがこの場にいる全員にとって良いことです」
やれやれ、とぼくは頭(かぶり)を振った。妻は呆れるほどに怒張したぼくのペニスにコンドームを被せ、ぼくは尻を突き出した女にそれを挿入した。残飯をすする野良犬みたいに腰を振り、大きくも小さくもない乳房を揉んだ。女もぼくも声を出さなかった。水が絶え間なく浴場に注がれる音の隙間に、肉と肉が弾ける音がねじ込まれた。妻はぼくらの性交をiPhoneで動画撮影していた。5分ほどでぼくは果てた。果てた直後、女はみずからの意思で一度だけぼくに唇を重ねた。
ことが終わると女は再びミストサウナに戻っていき、ぼくらは大浴場を後にした。身体を拭き、服を着替え、やはり他の客と鉢合わせなかったエレベーターのなかで我々は獣神サンダー・ライガーのマスクを脱いだ。まっすぐ受付に向かい、料金を精算し、車に戻った。エンジンをかけると同時に流れ出したラジオではビートルズのLet it beがかかっていた。あるがままに。そうすると今度はほとんど暴力といって差し支えないほどの睡魔が襲ってきた。
「ねぇ」ぼくはいった。「今日はこのまま車で眠ってもいいかい?」
「好きにしなさい」妻は穏やかな声でいった。「あなたの気が済むようにすればいい」
肉体の疲労は限界に達していたが、脳が覚醒していて眠りにつけないまま朝日が昇り始めた。妻は寝息をたてはじめていた。スマートフォン見ると、妻からLINEがきていた。先ほどのぼくの性交の動画だった。獣神サンダー・ライガーの覆面をかぶった男が、後ろからくたびれた華奢な女を犯しているその様子を見ると、果たしてぼくが求めていたものはこんなものだったのだろうか、と不思議な心地になる。あれほど激しかった勃起はもう収まっていた。未来永劫、勃ちそうになかった。
(了)
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