H.G.ウェルズ「新星」(大滝瓶太訳)

 年が明けて最初の日のことだった。ほぼ同時に三つの天文観測所が太陽系で一番外を回る海王星の動きに異常が見られたと発表した。前年の十二月にはすでに海王星の不可解な公転速度低下は注目に値するものだとオグルビーが主張していて、こうした類のニュースは海王星の存在をそもそも知りもしない一般人の興味を引くことなどほとんどなく、また天文学の専門家以外もまたこの惑星の不穏な動きによるごくごくわずかな光の変化を気にも留めなかった。しかし特に優秀な科学者たちは、新たな天体が急速に巨大化し強い光を放つようになっているのが周知の事実になる以前から、これは惑星運動により説明づけられるものではないと気づいていて、海王星とその衛星の異変はまさに前例のないものになろうとしていた。

 科学教育を受けたごくわずかな人間を除いて太陽系がこの宇宙でどれだけ孤立しているのかを知る者はほとんどいなかった。惑星や小惑星の塵、非常に小さな彗星で構成される太陽系は想像を絶するはるかな虚空を漂っていて、海王星の軌道の外側には宇宙がある。観測上、そこにはなにもない空間が広がっていて熱も光も音もなく、その距離は一〇〇万マイルの二〇〇〇万倍の距離だとされるが、もっともこれは直近の星が出現するまでの最小の距離として試算されたものだ。そして存在が確認されているのはガス状の炎よりも実体が希薄な彗星に限られていて、二〇世紀初頭に件の放浪者が姿を現すまで、この虚無ともいえる空間を観測する術を人類は持ち合わせていなかった。莫大な質量を持つそれは、巨大で、重く、世界崩壊の予言もなしに太陽の放つ光のなかに飛び込んできた。二日目までには高性能の測定機器を使ってなんとか感知できるほどの直径で観測され、獅子座の一角をなすレグルスに近い位置に存在が認められ、まもなくオペラグラスでも視認できるまでになった。

 一月三日、南北両半球の新聞読者たちは空に現れたこの異常についてはじめて関心を示した。あるロンドンの新聞は一面に「惑星衝突」という見出しでニュースにとりあげ、この新たに出現した惑星は海王星と衝突するかもしれないというデューチンの見解を公表した。この記事の著者は以下のように詳細を述べている。一月三日のこのニュースを受け、多くの国の主要都市で固唾を飲んで事態の進展が見守られたが、しかしながらこれから空になにが起こるのかはよくわかっていなかった。そして地球のあちこちで日が沈み夜が来ると何千という人々が空のほうへと目を向けた­­が、しかしそこには昔から見慣れた星々がただ単にいつものようにあるだけだった。

 ロンドンの夜が明け、ポルックス(ふたご座β星)が沈み、頭上の星々は輝きを失った。冬の夜明けは日中の光が夜に滲み出したように弱々しく、ガスやキャンドルの黄色い光が家々の窓に映えているなか、あくびをしている警察官がそれを見た。混雑した市場の群衆は立ち止まって口をポカンと開け、遅刻しないように仕事に出かける牛乳配達人、新聞配達人、へとへとに疲弊して顔面蒼白の放蕩者、あてもなく歩きまわるホームレス、担当区域を巡回する監視員、田舎の方ではとぼとぼと畑を歩く労働者や隠れ家にこそこそ逃げ帰ろうとしている密猟者たちなど、この国中の夜明けに起きていた者たちはだけでなく、日がな海を監視している沖に出ている船乗りたちもみんなそれを見ることができた。白く巨大な星が突然西の空に出現したのだ!

 それは空にあるどんな星よりもまばゆく、最も明るい夜の星よりも光り輝いていた。それはさらに白く大きくなっている最中であり、単に眩しい光点というわけでなく、むしろはっきりと輝く円盤のような小さな丸だった。一時間後に日が昇ると、科学の素養がない人々はそれをじっと見ては恐怖し、戦争や厄災の予兆を告げる神さまの灼熱のサインなんじゃないかと互いに話しあった。勤勉なボーア人、浅黒いホッテントット、ゴールドコーストの黒人、フランス人もスペイン人もポルトガル人も、この奇妙な新星が沈んでいくのを見ながら、朝日のなか立ち尽くしていた。

 そして一〇〇を数える天文観測所では控えられていた興奮がほとんど叫びとなって吐き出された。二つの天体が衝突しようとしているのだ。ある者は撮影機器やら分光器をかき集め、この驚くべき光景や世界の崩壊を記録しようとせわしなく右往左往していた。我らの地球と姉妹惑星に当たるこの星は実際のところ地球よりもずっと大きいのだが、それがいままさに燃え尽きようとしている。海王星はといえば真正面からこの太陽系の外からやってきた新星と衝突し、狂ったような熱振動がふたつの天体を白熱光をともなうひとつの巨大な惑星へと変えたのだった。その日は世界中で夜明けの二時間前に青白い巨大な星が出現し、西の方へと沈んでいくなか太陽がそのうえを昇るのが観測された。いたるところで仰天する者が続出したが、なかでも船乗りは最も驚いた。というのもかれらは普段から星を見ていたのだが、陸からはるか遠くの沖に出ていたために新星の出現に関するニュースをなにも知らず、まさに小人の月のようにそれが昇り、最高点に達し、頭上にぶら下がったかと思えば夜の終わりとともに西のほうに沈んでいくのを見たのだった。

 そして次の新星の出現の時には、丘の傾斜や屋根のうえ、空き地などはどこも星を見ようとする人でごったがえし、みな新星の出現を待ちわびて東の空を見つめていた。それはまるでギラギラした白い炎のような白熱光をまとって現れ、人々はその光景を目の当たりにするやいなや大声で叫んだ。「大きくなっている!」「光も強くなっている!」実際、西に沈む上弦の月は見かけの大きさでは比較にならないほど大きかったものの、明るさに関してはこの新星のほうが勝っていた。

「また明るくなったぞ!」街路の群衆は叫んだ。しかし薄暗い天文観測所の人々は息を飲んだ。「近づいている」かれらは信じられないといった面持ちで互いの顔を覗き込んでいた。「接近している!」

「接近中」という声が何度も繰り返され、電報で発信され、電話線に乗って伝わり、幾千の都市で汗にまみれた植字工によって活字にされた。世界中のオフィスで「接近中」の記事を書いていた者たちは奇妙な現実感に苛まれ、手にしていたペンを不意に叩きつけた。「接近中」ということばが孕む残酷な未来の光景が彼らの脳裏をよぎったのだ。このことばはぽつぽつと人が増えだしてきた朝の街路をせわしなく駆け抜けると、霜の降りた道を通って静かな村にまで行き渡った。続々とやってくる電報を読んだ者は黄色い光が漏れる玄関口に突っ立ったまま通りすがりの人に大声でそのことばを叫んだ。顔を赤らめて瞳を輝かせた美しい女は「接近中」のニュースを聞く、特に興味はなかったが知的に見せるためにダンスの合間の小話として話した。「接近中だって! 超ヤバい! これ見つけた人ってヤバいくらいかしこいわまじで」

 冬の夜をさまよう孤独な放浪者は空を見上げながら「接近中」ということばをじぶんに言い聞かせることで心の安らぎを得ていた。「もっとこっちに来いよ。今夜はクソ寒いんだ。だがアレが近づいているとしても、別にあったかくなりそうもねぇな」

「新星がわたしのなにになるっていうわけ?」涙を流す女が愛した人の亡骸のかたわらにひざまずきながら叫んだ。

 テスト勉強をしようと早起きした学生がこれがどういう意味かを自力で見出そうとした。窓の外では花のように霜がついた窓の外では巨大な白い星が煌々と光り輝いていた。「遠心力……、求心力……、」こぶしに顎を乗せてかれはいった。「惑星運動を止めて、遠心力を奪ったら……? 求心力は保持されるなら、太陽に向かって落ちる……! それから……!」

「我々に最悪の事態を防ぐことができるのか? はたして––––」

 あくる日はまたおなじようにやってきて、新星はまたしても霜の降りた暗闇のなかに現れた。いっそう明るさを増していて、満ちていく月のようにおもわれたが、薄気味悪い黄色の幽霊をその内に宿しているような姿で、日没の空にでかでかとぶら下がっていた。南アフリカのとある街では名家の男が結婚式を挙げていて、街路は花嫁を連れて帰って来る男の歓迎ムードで賑わい、「空までも祝ってくれている」とどこぞのバカがいった。カプリコーンが輝く夜空の下、蛍の飛び交う茂みのなかで、黒人の恋人たちが野獣と悪しき魂に勇敢にも立ち向かいながら互いに愛を誓った。「あれはぼくらの星だよ」恋人たちは囁き、甘美なまばゆい光に奇妙な安らぎを感じていた。

 有名な数学者が自室で椅子に腰掛けて、紙を前方へと突き出した。計算が終わったのだ。白い小瓶には眠らないように飲んでいた気付薬が残っていた。かれは四日徹夜したのだった。この四日はかつてないほど落ち着いていて、頭も冴えわたっていて、集中することができた。学生たちに講義をし、終わったらすぐに部屋に戻ってきてこの極めて重大な計算に取り組んでいた。しばしかれはぼんやりしているようだった。そこで窓際へと歩いていきブラインドを上げた。窓から覗く景色の上半分は空で、その下には家々の屋根、煙突、教会の尖塔があり、新星はその空にぶら下がっていた。

 かれは宿敵の目を覗き込むようにその星を見つめた。「てめぇ、俺を殺す気か」沈黙を破ってかれは口を開いた。「だが俺が捕まえてやる。この世界のすべてはこの小さな脳みそのなかにあるんだ。それは変わらない。絶対にだ」

 かれは小瓶に目をやり、「またしばらく寝られなさそうだな」といった。翌日、分単位できっかり正午、大講義室にやってくるといつものように教壇の端に帽子を置き、注意深く一番大きなチョークを選んだ。良いチョークがないとうまく字を書けず講義ができないと学生のジョークでいわれていた。実際、一度チョークを隠されてえらく困ったことがあった。かれは灰色の眉の下から壇上に重なる若々しい学生たちの顔を見ると、おきまりのことばで話をはじめた。「事態は一変しました。もはやどうしようもできない状態に陥っています」そういうと、すこし間を空け、また口を開いた。「予定していたわたしの授業はもうめちゃくちゃですね。皆さん、いいですか、簡潔にいうならば、人類のこれまでの歴史が無に帰すのです」

 学生たちは互いの目を見合った。いま聞いたことは事実なのか? 狂ってるのか? 眉を上げ、唇をにやつかせつつも、ひとりふたりは落ち着きの表情を保ったままかれの話を集中して聞いていた。「非常に興味深いことなのですが、」かれが話を続けた。「今朝もこのことについて集中して考えていました。できるだけわかりやすく話すと、この結論は計算によって導かれたものです。つまり––––」

 黒板のほうを向くと、なにかを考えながら慣れた手つきである図を描いた。「『人類の歴史が無に帰す』とはどういうことだろう?」と学生たちがひそひそ話をしだした。「静かにしろって、」とある学生はそういうと、教壇の数学者を顎でさした。

 そしてこのとき、かれらは事態を理解しはじめた。

 新星は夜空に昇ったあと獅子座を通って乙女座の方向へ東の空を移動し、さらに輝きを増したがゆえに空は明るい青色に染められ、夜空の星々は順番に消えていき、天頂に近い木星や大熊座のカペラ、アルデバラン、シリウスだけが残された。新星は非常に白く、美しかった。世界各地で新星に光暈が観測され、光暈の観測に適した光の屈折率である赤道付近の空では月の四分の一ほどの大きさだった。イングランドの大地には依然として霜が降りたが、世界はまるで真夏の月に照らされたように明るかった。人々はその光で書物を読むことができ、街灯は力なく黄色い光を放って燃えていた。

 そして世界のあらゆる場所は光に照らされ、野花の蜜蜂のように国の隅々まで張り詰めた空気のなか、田舎ではキリスト教徒たちの陰鬱なうめき声はかろうじてこらえられていたが、やがてそれは肥大化し、都会の喧騒へと変わっていった。百万もの塔や教会の鐘が打ち鳴らされ、直ちに起きて罪を贖うため、人々は教会で祈るよう集められたのだった。そして頭上では夜が更けるほどにより大きく明るくなった新星が、目がくらむほどに輝いていた。

 世界中の都市の街路や家々に明かりが灯り、造船所はキラキラと光り、高台へと続くすべての道は夜中灯りを持ったひとであふれた。街にほど近い海では船がエンジンを震わせ、帆を膨らませ、ひとやひとでないものをたくさん積み込んで沖へ出ると北を目指した。もうすでに例の数学者の警告は電報で世界中に拡散され、百の言語に翻訳されていた。新星と海王星は一体となって炎に包まれ、回転しながら速度を上げて太陽めがけて猛然と突き進んでいた。この燃えさかる物体はすでに毎秒一〇〇マイルで飛んでいたが、一秒ごとにそのおぞましい速度をさらに上げていた。このままであれば地球から一億マイル離れたところを通過するはずで、ほとんど無害だと考えられていた。しかし予測経路付近には太陽系最大の大きさを誇る木星とその衛星があり、それによってわずかな摂動が与えられるという。そして燃える新星と木星の引力は次第に強くなっていった。その結果どうなったのか? 木星の軌道は楕円になり、太陽へと直進していた新星の軌道は引力によって曲げられ「カーブ軌道」を描いた。そして両者は衝突合体し、我らの地球のすぐ近くを確実に通過するだろうとのことだ。「地震が起こり、火山は噴火し、竜巻が発生し、海は荒れ狂い洪水が起こり、そして気温は際限なく上昇するだろう」このように数学者は予言した。

 そしてかれの予言どおり、孤独で冷たい鉛色に燃える星が破滅を引き連れて頭上まで迫ってきた。

 その夜、目が痛くなるまで見ていた人々にもはっきり新星の接近がわかった。さらに天候の変化が現れた。気温が上昇し、中央ヨーロッパ、フランス、イングランドを覆っていた霜が溶けていった。

 しかし、人々が夜中祈りを捧げ、船で外国へ、あるいは山のうえの秘境の国へと逃げ出しているからといって、世界中が新星の脅威に飲み込まれてしまったなどと考えてはならない。じっさい、新星の炎に照らされた夜であっても世界の秩序はいまだ保たれていて、くだらないジョークを飛ばすことだってでき、一〇人中九人がいつもと変わらず働いていた。どこの街のどこの店も通常営業し、医者と葬儀屋はみずからの商売に精を出し、労働者は工場に集められ、兵士は穴を掘り、学者は研究し、恋人たちは互いを想い、盗人はこそこそ隠れ逃げ、政治家は政策を打ち立てた。新聞を刷る音は夜中響き渡り、この混乱に呆れ返った牧師たちは教会の扉を閉ざした。西暦一〇〇〇年にあった終末予言騒ぎの教訓が新聞にとりあげられた。例の新星は星ではなく単なるガスの彗星であり、もし仮に星だったとしても地球に衝突することなどありえない。こんなことは前例がなかった。どこでも常識はちゃんと通用していて、やたらこわがるひとはバカにされ、からかわれがちだった。その夜のグリニッジ標準時七時十五分、新星は木星に最接近するとされ、このときなにが起こるかで一連の騒ぎははっきりするだろうとおもわれた。あの数学者の縁起でもない警告は多くのひとに苦し紛れの自己宣伝だと見なされていた。こうした良識者たちはついには議論ですこしばかりカッとなったのだが、眠って頭を冷やした。未開人たちもすでに新星を見飽きていて、セックスをはじめる。ここそこで飼い犬が遠吠えをする。獣たちは新星にまったく無関心だった。

 しかし新星が夜空にのぼった一時間後、数学者の予言は真実になる。しかし新星はそのとき以前より大きくはなく、起きて星を見ていた人々は、なにも起こることなく通過したんだとおもい、数学者のことを笑っていたのだった。

 だが笑い声はじきにやんだ。新星が巨大化をはじめたのだ。星は恐ろしいほど着々と一時間ごとにすこしずつ巨大化し、またすこしずつ天頂に近づきながら次第に輝きを増す成長を、夜が明けるまで続けたのだった。カーブ軌道ではなく地球まで直進してくるなら、つまり木星の影響を受けることなく接近してくるのであるならば、一昼夜のうちに地球に到達していた。しかし事実として新星は木星の影響を受けているため、地球に到達するまであと五日はかかる。あくる夜になるとヨーロッパからみた新星は月の三分の一ほどになっていて、霜は完全に溶けた。アメリカから見れば月とほぼおなじサイズだったが、目がつぶれるほどの白い輝きと熱を放っていた。新星が空にのぼると同時に熱風が吹き、ヴァージニアやブラジル、セント・ローレンス渓谷では雷雲ができると断続的に紫色に稲光が空に走り、雹が降った。こんなことはいまだかつてなかった。マニトバでは霜が溶け、壊滅的な洪水が起こった。地球上の山という山の雪や氷は一晩で溶け、高地から流れる川はすぐに幅を太くし、濁流となった。上流では荒ぶる流れのなかに木々や野生動物、そして人間の死体が飲み込まれていた。新星の幽霊的な光のなかで川は水位を着実に上げていき、ついには土手をこえ、逃げ惑う渓谷の住民の背後まで迫ってきた。

 アルゼンチン沿岸部や南大西洋では満潮時の水位が人類史上最大の高さを記録し、嵐が海水を吹き上げ内陸の街をも完全に水没させることも頻繁に起こった。そして夜中にあまりにも気温が上昇したために、太陽が昇ってもむしろ日陰のような涼さになったようにかんじられたほどだった。地震が起こり、アメリカ大陸全体や北極からケープホーンに至るまでその規模は広がると、山地の斜面は崩れ落ち、地面に亀裂が走るとたちまち広がり、家屋や壁は倒壊した。こうした激変のひとつとして、コトパクシ火山の崩壊があった。全方向の斜面が崩れ落ち、火山からは溶岩が吹き出ると一日で海に到達した。

 新星は青白い月を連れ立って太平洋を横切り、ローブの裾のように雷雲を引きずっていた。そのさなか脅威を増す波は次から次へと島々に襲いかかると人間たちを一掃していった。激しい熱の残滓をともなった目もくらむほどの光のなか、高さ十五フィートの水の壁がやってくる。飢えた唸りをあげアジアの大陸沿岸に到達すると、中国の内陸部まで波は猛威をふるった。新星は太陽よりも熱く巨大になって輝きを増し、その無慈悲な光で大国を照らした。国中の町や村にある仏塔、木々、道路、広く切り開かれた平原、あらゆる場所にいる百万もの寝不足の人々は絶望と恐怖の心地で白熱する空を見つめていた。そして低い洪水のざわめきが聞こえ、次第に大きくなっていった。やがて洪水は壁のようにすぐそこまで迫ってきて、その夜、吹き荒れる熱風で手足を動かせずどこへも逃げさせなかった人々は数百万にのぼった。

 中国は白い光に包まれたが、四度の火山噴火で撒き散らされた蒸気や煙、火山灰の影響で、日本やジャワ島をはじめとする東南アジア諸島の上空で巨大な新星は鈍く赤い火の玉に見えた。頭上には溶岩、高温ガス、火山灰が、足元には茹だち泡立った洪水がおしよせ、地震で地球全体が揺れ、なにもかもがぐちゃぐちゃにかき乱された。たちまち古代に積もったチベットやヒマラヤの雪が溶け、ビルマやヒンドゥスターンの低地を流れる川という川に流れ込んだ。ぐちゃぐちゃになったインドの密林は山の頂まで炎に包まれ、裾野では迫り来る洪水は木の幹ほどの高さまで水位をあげ、燃え上がる炎にわずかながらの抵抗をみせる黒い物体となり、水面に血のように赤い炎の言語を映し出した。そして統率者を失ったような混乱のなか、最後の望みを抱いた大勢の男と女が広大な川に沿って移動し、海へとたどり着いた。新星はおそろしい早さでますます巨大化し、高温になり、輝きを増していった。熱帯の海はすでに燐光を失い、絶え間ない嵐のなか激しく船を揺さぶる黒い波からは幽霊的な蒸気の渦が立ちのぼっていた。

 そして異変が起こった。ヨーロッパでは地球の自転が止まってしまったようにおもわれた。海でも山でも、天変地異から逃れようとする人々が失意のなか新星が天にのぼるのをじっと見ていた。おぞましい予感を抱えながら数時間が過ぎても新星はのぼらなかった。かわりに夜空に輝いていたのはもう永遠に見ることはないとおもわれていた星座だった。イングランドは暑く、快晴だった。地震は絶え間なく続いた。赤道付近ではシリウス、カペラ、アルデバランが蒸気のヴェールの向こうに姿を現した。一〇時間後に新星はその巨体を天にさらし、まもなく太陽ものぼった。新星の中心に黒点があった。

 アジアでは新星は突如として天体運動に遅れをとりはじめ、インド上空で新星の光は蒸気のヴェールに遮られていた。インダス川からガンジス川にいたるインド全域は光り輝く水面が張り、寺院や宮殿、山や丘から注ぎ込まれた残骸がそこに浮かんでいて、所々に黒々とした人集りがあった。塔や寺院に押しかけた人々のなかには熱と恐怖から濁った水のなかに身を投げる者もいた。大陸はかなしみに打ちひしがれるひとであふれた。そこに影が絶望の業火を横切り、一陣の凍てつく風が吹いた。大気は冷え、雲の塊ができた。人々はほとんど見えなくなった新星を見上げ、光のなかを黒点が移動するのをみた。月だった。新星と太陽のあいだを通過していたのだった。このつかの間の猶予とも呼べる時間に人々は神の名を叫んだにも関わらず、東の空で太陽が不可解にも突如スピードを上げて天へと駆け上っていった。そしてまもなく新星と月も太陽と同様に天へと駆け上った。

 ヨーロッパからみれば新星と太陽は互いに接近し合うように猛然と空にのぼり、そして速度を落とすとついには静止し、天頂に達したころにはひとつの激しい炎になったかにみえた。月はもはや新星の姿を覆い隠せず、むしろそのまばゆい光に紛れ視認さえできなかった。まだ生き残っている者は焦燥と飢え、疲労を抱き、熱と絶望に打ちひしがれながらも、この厄災に意味を見出せる人間がまだいるにちがいないと信じていた。新星と地球は最接近し、互いに引力を及ぼし合うと、新星は通り過ぎていった。速度を上げながら遠ざかっていき、太陽を目指して猛然と旅を続けたのだった。

 そして雲が現れ、空がかき消されると、雷と稲光が織りなすローブが世界を包み込んだ。地球全域にかつて人類が見たこともないほどの豪雨が降り、雲の天蓋に向かって火山は赤々と噴火し、泥の濁流が山を駆け下りていった。いたるところに泥水は流れ込み、廃墟を沈め、地球はまるで嵐の後の浜辺のようにとっ散らかっていたが、そこに打ち捨てられていたのは人間や獣の死体だった。数日間にわたって水は大地に猛威を振るい、土砂や木々、家屋を飲み込むとその残骸を一箇所に積み上げたかとおもえば、郊外には巨人がつくったかのような大きな谷を穿った。これが新星と灼熱がもたらした暗黒の日々だった。それが終わっても、地震は何週間、何ヶ月と続いた。

 しかし新星が過ぎ去ってから飢えに駆られた人間たちは徐々にではあるが生きる気力をなんとかかき集め、荒廃した都市や土砂に埋もれた食料庫、水浸しになった農地へと戻ってきた。かつての嵐を逃げ切った船はほとんどなかった。残った船はすっかり焦燥しきっていて、新しい目印や昔は有名だった港をたよりに航海を続けていた。嵐がおさまると、人間たちは、かつてよりも日中の気温が高くなっていることに気づいた。太陽は大きくなり、月は三分の一ほどにまで小さくなり、満ち欠けの周期は八〇日になった。

 この話はここで終わる。やがて人類に芽生える新たな絆や、法律や書物や機械がきちんと残されていたこと、あるいはアイスランドやグリーンランド、バフィン湾に奇妙な変化が起こり、船乗りたちがやってくると豊かな緑に覆われた光景に目を疑ったなど、そういうものはまた別の話。地球はさらに温暖化し、人類が北極や南極へと移り住んだこともまた、この話の与り知るところではない。この話は単に新星が地球を通り過ぎたという、ただそれだけの話でしかないのだから。

 人類とはまったくちがう生物として火星人がいるのだが、火星の天文学者はこの災害にいたく関心を持ち、当然ながら火星人は火星から火星人として新星の通過を観測していて、「太陽にミサイルを放った際にもたらされる質量と温度の変化に対する考察」という論文を書く者が現れた。「あれだけ接近しておきながら、地球が壊滅することなく、あの程度の被害で済んだのは驚くべきことである。主たる大陸はどれも海の侵食を受けておらず、唯一の変化といえば氷河が溶けて北極と南極の白さがなくなったくらいだ」この見解が示すのは、人類史上最大の災害とはいえ、二、三百万マイル離れた星から見れば些細なものでしかないという事実である。

(了)

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