⟨猫のまぶた|おれの指⟩
シュレディンガーの猫を拾った。
そこまでは良い。うちのアパートはペット禁止だ。
ひとまず持ち帰ってはみたものの箱は開けないことにした。なかにいるにはいるが、下手に観測するとにゃあと鳴きだしかねない。かわいそうだとはおもう。箱は電子ピアノの横に置いた。
視界に箱が入るたび、こんな主人に拾われてしまった彼だか彼女だかに申し訳ない気持ちになる。罪悪感に似て、しかしそれとは明らかにちがう感情がおれの心にちくちく刺さった。連れて帰ってきたときの感触がずっと残っている。時間にさえ浮かび上がれない質量と、暖かいとも冷たいともいえない剥き出しの熱。箱入りの生命を弄んでいる手触りがてのひらにずっしりのしかかり、漏れ出す否定できない快楽と優越が皮膚に染みついて、指に呪いをかけている。他人みたいに重い。
洋室六畳の1K。地方都市の県庁所在地の街で、家賃は共益費込みの五万三千円。風呂でゆっくりしたくてセパレートは譲れなかった。カーテンを閉める。ベッドに転がる。天井を見る。そしてゆっくり息を吸って、みっつ数えながらまぶたを閉じる。
子どものころ、月を見るのが好きだった。満月の夜に実家のマンションの屋上で仰向けに寝っ転がる。月と向き合ってみっつ数えて目を閉じれば重力の向きが反転する。背中は冷たいコンクリートを離れ、おれは見上げていた月を見下ろしている。車の音を聞き、風の流れを感じ、飛び交う電波のすべてを受信する。じぶんの心臓から音が消える。感覚が薄く広く世界に伸びていく。身体は身体らしさを失い、確率分布としておれは世界に偏在する。さん、に、いち。で、まぶたを持ち上げれば、弛緩したおれの関数が収縮する。心臓の鼓動が戻っている。♩=60。好きでも嫌いでもなかった。好きだとおもいこむのが処世術だった。感情と独立に染みついた拍感。
「死んでしまったの?」
マットレスに浅く沈んだスマホがヴヴヴと震えた。浅村だった。
「そうなの?」と不思議そうな顔のキリンのスタンプをおれは返した。浅村が笑った。世界のすべての視線の死角でうずくまっている。箱がおれを睨んでいる。
「なんだ、まだ生きてたか」続けざまに白タイツ八頭身の若い男性が高速で反復横跳びしながらハァ? とガンを飛ばしてくるスタンプが秒で投げ込まれた。
物言わぬ箱の上にはうっすらと埃が積もっていた。あの箱のなかには波動関数が入っている──なんてことはないくらいはわかっている。関数はことばで、ことばは解釈で、解釈は持ち合わせた情報によって更新される。箱を開ければ波動関数が収縮して猫の生死が確定するなんて話は物理現象なんかじゃなく、おれが持ち合わせた情報の変化でしかない。見えないものを見るための情報が多くなるほど、想像の余地が狭まっているだけなのだ。猫はそうやっておれを見ている。またメッセージが来る。「最近どうしてる?」
「猫を拾った」
「そうか」浅村は言った。「かわいいか?」
「かわいいとおもっている」
嘘ではない。期待されている事実と違うだけ。それに浅村は気づいていた。「名前は決めたか?」とおれに聞く。浅村はもうずっと前に死んでいる。じぶんでそう言っている。だけどまだ誰も死体を見つけてくれないから仕方なくインターネットに居座っているとかなんとかで、「生きているひとに生きているひとだと信じ込ませればよい」と考え至った。ちょっとしたチューリングテストみたいなもんさ、と浅村は言う。じぶんはもう死んでいる──その事実を事実として告げるだけで、それが生きたひとの嘘になってくれるから、生者を騙すなんて嘘をつくまでもない。幽霊にもトラウマのひとつやふたつあるのだよ、と他殺か自殺かは教えてくれない。 怪我をした指をじっと見る。
おもえば幽霊なんてトラウマの塊みたいなものだと浅村はおもう。とはいえ、だ。なにに傷ついたのか、傷ついているのかを浅村はずっとおもいだせないでいるのだけれど、見えない傷の疼きが浅村を浅村たらしめているのだとしたら、浅村のことを浅村の代わりに憶えていてくれるのはその傷だけだった。むかし偶然たどり着いた公園の道順を憶えていなくても、近くのおいしい味噌ラーメンのお店のにおいでとつぜんおもいだせてしまうように、街や世界が少しずつ眠ったわたしなのだった。身体と呼びうる意識がわたしを見つけるたびに浅村はみずからを自覚した。鍵盤の前に座る。わたしが不完全なかたちで少しずつ偏在しているインターネットは眠り心地がよかったし、なにより散歩がたのしい。おれのピアノも好きだった。幽霊は世界全体で積分すれば生者になる。わたしの期待値が1になる。浅村はそんな持論の証明方法を探している。動かない指が鍵盤をひとつ沈めている。
無限遠方の浅村の視線はおれのアパートにまだ届いていない。分厚いコンクリートと施錠されたドアを、今度は「生きているか?」とインターネットからノックする。二回、そしてためらいがちにもう一回。「きみはどうして出てこないの?」生きていながら死んでいるおれがピアノの横のシュレディンガーの猫を一瞥する。
「得意曲はなんだっけ?」と、浅村。
「ねこふんじゃった」と、おれ。
みっつ数えてまぶたを降ろす。鈍され、弛緩していく関数。裾野を密室の隅々まで広げ、鍵盤を歩く半生半死の猫の足どりが音楽になるのを待っている。名前はまだない。
(了)
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