読書と人生の微分法

 ここに厚さゼロの本があるといったとき、つまりそこに本はない。

 叔父はそんなことを考えるのに人生の大半の時間を使ったのだが、わかったことといえば時間が足らなかったことぐらいだったらしい。

 終の住処となったかれの書斎では、有限の厚さをもった本が背の高い本棚に隙間なく詰め込まれ、床にもう堆く積み上げられている。急性心不全により主人を失ったその部屋は父の実家でいちばん陽当たりの悪い場所にあって、湿っぽくてひやりとしている。気まぐれな几帳面さのあらわれか、積まれた本はレーベルごとにまとめられてちょっとした地層のようにも見える。子どももなく、結婚もせずにそんな場所で過ごしていた叔父の生きかたを、親族はみな孤独と呼んだ。

 しかし果たしてそうだろうか? とぼくはおもう。ベッドの脇に置かれた巨大な鏡があり、そこには小心者を体現するかのような細かい筆跡で書かれた数式や、波のように寄せては引いていくイメージをわずかでもつかみ取ろうとしたスケッチのようなグラフで埋め尽くされている。叔父は鏡をホワイトボード代わりに使っていたのだが、いまなお消されずに残っている試行錯誤はそんなかれだけが見ていた世界に他ならない。叔父はきっと孤独じゃなかった。ぼくには、叔父はそれなりに機嫌よく日々を過ごし死んでいったようにおもえてならない。

 叔父はかねてから数学者をやっているとは聞いていた。学者としての実績は誰も引用しないような煩雑なだけの無益な論文を筆頭著者として数本発表しただけで、いくつかの大学を転々としたあと実家に引きこもっていた。だからぼくは叔父のことをいわゆる「イス取りゲーム」にうまく適応できなかった卑屈で頑固な世捨て人だとみなしていて、そのせいか、鏡に映る研究から垣間見えるかれの姿にはちょっとばかり驚いた。人生という複雑系を単純な理論だけで組み立てており、情報戦の様相を呈した現代科学とは一線を引いたそのアプローチは、厭世的というよりは素朴さゆえのロマンティシズムをまとった湿っぽいものだ。


   d = f(t)

   t = g(d)


 人生という曲線は経過した時間と堆積した情報量で張られる空間に描出される。叔父はそこを出発点とし、次に時間と情報量が等価になる直線を空間に引いた。するとそれは鏡となり、2つの関数f(x)とg(x)を写し出す。叔父はここに生じた鏡を通ってこちら側からあちら側へと旅立った。

 たどり着いた先では時間は自発的な歩みを止めた。叔父は本を読み続けた。かれは凍てついた空間で本を読むごとに細胞を殺し、肉体の内外に皺を増やし、死に接近した。そうして訪れた無限の生への思考が厚さゼロの本との出会いだ。厚さゼロの本を読んだとき、じぶんはいったいなにを読んだことになるのか。人生を無限に遅延させるこの本はかれの人生を微分する。生きているとはそれが有限値をとるときだ。叔父はそう考えたようだ。見えない本を読み続けることが、我々の人生に次の瞬間を絶え間なくもたらしてくれるのだ──

 鏡に書かれた数式は微分不能点の考察に差し掛かるところで途絶えている。ぼくは連続な曲線がなめらかさを失ったその特異点へと手を伸ばした。そのとき、ぼくの指先を起点に鏡に放射状の亀裂が走った。無数の平面へと分割された鏡の断片はその数に等しいぼくの姿を映し出し、そのどれもがじっとぼくの肉体をあちら側から睨んでいた。

(了)

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