5 愁嘆

 古狸が化けた大鷲おおわしは、凍りついた湖の空を大鷲よりも速く飛んだ。飛龍の俺が後れを取りそうな勢いであった。

 その気持ちは俺にもわかる。夜中に吹雪の原や森を抜けるだけでも、人はしばしば凍え死ぬ。さらに風のきつい氷原を無事に渡りきるなど、屈強な猟師でさえ難しい。

 案の定、湖の半ばを過ぎたあたりで、足跡が一人分に変わっていた。

「あの若者が娘を背負ったらしいな」

「おう。いじらしい奴らよ」

 古狸の大鷲は悔しげに、

「逃げる前に、ひとこと俺に相談してくれたら、大入道にでも化けて運んでやったものを」

「修身とやらを吹きこんだ教師に、駆け落ちの相談をする生徒はなかろう」

「……律儀りちぎに化けすぎたか」

 やがて氷原を横切って東の岸に至ると、上り道の積雪に、長々と続く一筋の踏み跡が見えた。

 古狸の大鷲はそれに近づき、

「ありがたい。なんとか渡りきったようだな。この具合だと、吹雪が止んでから進んだ跡に相違ない。このまま無事に山を越えられるかもしれぬ」

 どうだかな、と俺は思った。踏み分け跡はあくまで一人分、しかも膝丈以上の深さに見える。いかに屈強な若者とて、人一人を背負ったまま長く登り続けるのは難しかろう。まして吹雪の中を一晩中歩いてきた身である。

 ところが案に相違して、その深々とした踏み分け跡は、しだいに急峻となる雪道をものともせず、峠の頂まで続いていた。

 俺は人の一念というものに舌をまいた。

 空から見下ろすその一筋の道は、潔い群青色ぐんじょういろの芯を水色のぼかしが淡く縁どるようにして、白銀の斜面を延々と貫いている。これがあの夏の宵、あの二人が交わしていた美しい情の気による道行みちゆきの跡ならば、俺は千年も生きながら、人の気韻きいんというものを見損なっていたのかもしれない。

「あ!」

 峠を越えた刹那せつな、古狸の大鷲が声をあげて雪面に舞い降りた。

 頂からほんの数歩の所で紺青の筋が途切れ、その先に、娘を背負ったあの若者が、なかば雪に埋もれてうずくまっている。傍らには旅支度の風呂敷包みが、雪にまみれて転がっていた。

「健児! 繭子!」

 教員姿に戻った古狸は、がくがくと二人を揺すった。

 娘は背負われた形のまま、すでに氷像のようにてついていた。

 それを知ってか知らずか、若者はようように顔を上げ、唇を震わせた。

「先生……」

「おう、健児! 大丈夫だ! 安心しろ! 二人とも俺が汽車に乗せてやる!」

 すでに娘が生きていないことは、無論、古狸も悟っている。

「……先生……ごめん……」

「何を謝る! おまえは大した奴だ!」

「……ごめん……」

 若者の口元に漂っていた白い息が、風に流れて、それきり消えた。

 ほとんど凍りかけていた若者の体は、やがて背中の娘と分かちがたく固まり、同じひとつの白い塑像そぞうを成してゆく。

「健児……繭子……」

 古狸は元の姿に戻って肩を震わせながら、ただ呆けたように二人の名を呟いていた。

 生身の狸にとって、己が長く生きれば生きるほど、若い者に先立たれるいたみは深かろう。山の獣はめったに流さぬ涙が、顔の毛にみを広げている。

 俺もまた悼みにふけっていたが、生身ならぬ精霊の身、心が沈むばかりで涙は流れない。

 居たたまれずに目をそらしたとき、ふと、峠の下の湖が目に入った。

「……おい、狸よ」

「……なんだ」

「村の方を見ろ」

 古狸は振り返って、西の彼方を見晴るかした。

 朝に古狸が抜けてきた森から大勢の人影が現れ、蟻の行列のように氷原を渡りはじめている。

「村の連中かな」

「……地主の差し向けた追っ手であろう」

 言いながら古狸は、およそ狸らしからぬ鬼のような形相ぎょうそうとなり、

「おい、龍よ。いっとき、おぬしの姿を借りるぞ」

「かまわぬが、なぜ?」

「こうとなっては、あれらすべてがこの二人のかたきよ」

ほふろうというのか?」

「殺しはせぬ。軽く意趣返いしゅがえしをするだけだ」

「ならば、派手に化けるがよい」

「かっちけない」

 古狸は二人の亡骸を前に、くるりとでんぐり返った。

 俺に化けたわりには、俺よりもはるかに凶相の飛龍と化し、蒼空をびゅんびゅんとのたくりながら、湖に向かって突進する。

 しかも俺と違って、誰にでも見える生身の飛龍である。

 村人たちは、彼方の山から凄まじい勢いで迫ってくる巨竜に文字どおり仰天し、ほうきで掃かれた蟻の群れのように、元来た方へ逃げだした。

 その手前で、古狸の龍は頭から氷に突っこんだ。

「うぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」

 龍の俺は、あれほど異様な声で咆えたことがない。

 また、あのような勢いで、湖一面の氷を木っ端微塵に砕き回ったこともない。

 古狸とは、実に端倪たんげいすべからざる妖物である。


 氷塊と湖水と龍の腹が、あちこちごっちゃに入り乱れ、湖全体が白く煮えくりかえること、しばし――。

 荒ぶっていた湖の面が、やがて、ゆったりと波打つザラメの湖くらいに治まると、古狸の龍はようやく気を鎮め、悠々とこちらに引き上げてきた。

 くたびれたなりに清々した顔で古狸の姿に戻り、

「……まあ、こんなものか」

「何人か溺れ死んだようだが」

「気にするな。沈んだのは村の荒くれ者ばかりだ。地主に媚びて金をせびる他には、弱い者いじめと博打ばくちくらいしか能がない奴らよ」

「そうか。なら、俺もかまわぬ」

 それから古狸は、健児と繭子の亡骸に、神妙に手を合わせた。

 俺もつきあって合掌していると、

「……のう、龍よ」

「なんだ」

「人が死んだら、あの世とやらに行くというのは本当かな」

「知らぬ。だいたい俺は死んだことがない」

「しかし龍は天にも昇ると聞くぞ。もともとは天界、つまりあの世にいたのではないか?」

「いや。空を突き抜けるまで高く昇っても、なお星や月があるばかりだ。天界などどこにもない。まだ地の底に潜ったことはないが、たぶん地獄もなかろうよ」

「……そうか」

「俺が思うに、俺やおぬしが生きておるのがこの世なら、俺やおぬしが死んだとたんに、同じこの世があの世になるだけなのさ。そのとき俺やおぬしは、もうこの世の者ではないのだからな」

「……そうか。わかった」

 古狸は、なにやら悟ったような目で、健児と繭子の亡骸なきがらをながめながら、

「本当のところ、何一つわからぬのだが……ともあれ、ここにこうしておる二人は、もうこの世の者ではない」

「ああ」

「ならば、俺の手で弔ってやりたい。薄情な親どもの手に渡して、別々の墓に入れられてたまるものか。しかし狸仲間の死骸なら森に埋めて地虫の餌にすれば立派な供養だが、この二人がそれでは、あまりに哀れではないか」

「確かに――このように美しい者たちは、立派な墓所に葬ってやりたいな」

「そうだろう」

「俺に心当たりがあるぞ」

「本当か?」

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