4 氷雪

 真冬になっても、このあたりにはさほど雪が積もらない。

 代わりに冷たい刃先のような風が吹き、木々は霧氷や樹氷で白く凍てつく。

 湖にも厚い氷が張る。

 春と夏と秋には天井のない俺の住処すみかに、氷の天井ができてしまうわけである。

 天井に氷が張りっぱなしでは、冬の暮らしが鬱陶しい。

 だから晴れた日には片端から氷を割って回るのが、俺の冬の楽しみであった。

 同じ信州の諏訪湖に棲んでいる龍仲間は滅多に氷を割らず、たまにひびを入れると、周りの人々は「御神渡おみわたりだ」とか騒いで拝んだりしているが、あれはただの出不精なのである。


 ある朝、湖の底で目覚めると、氷の天井が薄暗いなりに白っぽく、東の彼方に陽の光が透けて見えたので、俺はとりあえず近場の岸の氷に頭突きをくらわせた。

 真冬の北風に、久々に首を晒す。雲ひとつない空の青天井が、爽快きわまりない。ここ二三日続いていた吹雪は、昨夜の内に止んだらしかった。

 さほど雪が積もらないといっても、見渡す限りの森や山並みは、真綿に覆われたような白銀の世界である。ただ凍りついた湖面だけは、苛烈な北風に雪が吹き飛ばされて南の岸の森際にわだかまり、大半の湖面は割りがいのありそうな渺々びょうびょうたる氷原に仕上がっている。

 その氷原に薄くこびりついた新雪に、何やら点々と続く踏み跡らしいへこみを見つけ、俺は首をかしげた。

 俺が顔を出した西の岩場から、遙かな東の岸に向かって、ほぼ一直線に足跡が続いている。明らかに森の獣の仕業ではない。個々の形や乱れ具合からして、どうやら二人連れの人間らしかった。

 真冬でも猟師たちを見かけることは稀にあるが、わざわざ湖の上を横切る奴はいない。少なくともここ二三百年はいなかった。諏訪湖と違って、この湖の神はいつなんどき癇癪かんしゃくを起こすかわからない、そんな評判が昔から根付いている。まあ実際は神の癇癪かんしゃくではなく、俺の憂さ晴らしなのだが。

 度胸のある奴らがいたものだ――。

 俺が感心していると、村方向の森から、せわしなく雪を蹴散らす音が聞こえてきた。

「おい、龍よ」

 教員に化けた古狸であった。

「もしや健児と繭子を見かけておらぬか?」

 着ぶくれた外套姿で、機関車のように白い息を吐きながら、

「こっちに来たと思うのだが、雪にまぎれて跡がたどれぬ」

 俺は首を反らせ、村とは逆の氷原を古狸に示した。

「いつ通ったかは知らぬが、足跡だけなら残っておるようだぞ」

「おお!」

 古狸は例の足跡の先を目で追って、

「無事に街まで逃げおおせればいいが……」

「なんだそれは。春の祝言はどうなった」

「算段が狂った。村の連中、思ったより根性悪ばかりであった。健児の親どもは、結婚に反対するだけならまだしも、裏で手を回して繭子に別の婿をあてがおうとした。奥の村に住む山持ちの男だ。繭子の親どもは、その婿候補もそこそこの財産家だと知って、そっちにしろと繭子に無理強いする始末だ。これだから田舎者は野暮でいかん。粋な江戸っ子なら唾を吐くぞ。『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』とな」

「江戸はもうなくなったと聞くがな」

「おう。今は四民平等、自由民権の時代よ。ならばなおのこと、惚れた同士に地主も山番もあるものか」

 都会出の学士とやらに化けたせいか、こいつもすっかり文明開化している。そういえば、いつぞやの夜は汽車に化けて、谷間の線路を駆け回ったとも聞く。

「それで、手に手を取って道行きか」

「ああ。村から南に下りて麓の街道を逃げれば楽だが、それでは追っ手に捕まってしまう。金持ちはくるまを雇えるからな。ならば秘かに東の峠を越えて、街から汽車に乗るしかない。ここは俺が加勢してやらねば」

 身構える古狸の前に、俺は首を下ろして言った。

「ここに乗れ。夜明け前に渡ったなら、そう遠くには行っておらぬ」

「おぬし、俺を誰だと思うてか」

 教員姿の古狸は、その場でくるりとでんぐり返り、みごとな大鷲おおわしに化けて空に舞った。

 尻尾のあたりがどことなく狸っぽいのは、まあ御愛敬である。

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