3 蛍火

 案の定、古狸は何年たっても帰ってこなかった。

 まだ十年は過ぎていないが、五年はとうに過ぎたと覚しい夏の宵、俺は数多の蛍火が飛び交う湖畔に顔を出し、上弦の月が星空を移ろう様を眺めていた。

 あの古狸は、毎年、中秋の名月に浮かれて腹鼓はらつづみを打ちまくるのが常であった。しかしその音も絶えて久しい。あれくらいこうを経た狸だと、あんがい人に化けたまま、人として生を終える覚悟なのかもしれない。それならそれで俺は別にかまわないが、お互い長いつき合いなのだから、一言くらい挨拶あいさつがあってしかるべきではないか――。

 俺は生まれて初めて感じる鬱屈した胸の疼きに、我ながら戸惑っていた。それはおそらく寂寥感と呼ばれる感情なのであろうが、人や狸ならいざ知らず、生まれついての精霊である龍に、そんな感情は無縁のはずである。しかし現に感じてしまったものは仕方がない。

 こんな気の塞ぐ夜は久々に天に上って、役立たずの半身の月など黒雲に隠してやろう――。

 そう俺が思い立って、岸の岩場に前足を掛けようとしたとき、西の森の小道から、何かが近づいてくる気配がした。目を凝らせば、気配の主は山の獣でも古狸でもなく、どうやら二つの人影であった。

 この湖は村から二里半少々のところにある。田舎育ちの健脚があれば、雪のない季節には一時いっときほどでたどり着ける。だから夏の夜は蛍見物に訪れる村人も少なくない。俺は例によって目玉のあたりだけを水面に残し、湖に身を沈めた。

 上背のある逞しい影と、やや低い細身の影――二つの影は岩場の上で立ち止まると、何やら手を取り合って、無言のままお互いを見つめていた。

 思い人同士の逢い引きならば、さほど珍しいものではない。しかし、いつもなら尾のない猿に見えるはずの人間たちが、なぜか今夜は妙に美しい。二人を照らす月の光が美しいからか、あるいは天蓋のように二人を擁している夜空の銀河が美しいからか、とも思ったが、あながちそれだけではないようだ。抱擁ほうよう接吻せっぷんに至る気配がなく、ただ手と手、眼差しと眼差しだけで情を交わしている様子そのものが、なんとも神妙で美しいのである。

「どうだ、美しいであろう」

 いつのまに近づいていたやら、一尾の大鯰おおなまずが俺の耳元でささやいた。

 この湖に、しゃべるなまずは棲んでいない。

「……また妙なものに化けたものだ」

「狸のままでは溺れてしまうからな」

 大鯰おおなまずは古狸と同じ声で、

「あれらは健児と繭子だよ。いい若者に育ったろう」

「ほう、あの遠足の子らであったか。なるほど確かに麗しく育った」

「俺の教育がいいからな」

「あれらの姿形すがたかたちまで、おぬしが教えたわけでもあるまいに」

「形ではない。気韻の問題なのだよ。俺が分校で、じっくり修身を仕込んだ」

「修身?」

「おうよ。人が人として道を誤らぬための心得のことだ。『嘘つきは泥棒の始まり』『情けは人のためならず』『清く正しく美しく』――その他もろもろだな。『子作りは祝言をあげてから』なんてのも、若い者には大事な修身であろうよ」

 この狸が若い自分、とっかえひっかえめすの尻ばかり追い回す姿を見ていた俺には、にわかには信じがたい話であった。しかし化けるようになってからは、こいつも確かに仙人じみて、ずいぶん生臭さが抜けた気がする。

 古狸の大鯰おおなまずは、俺の顔の周りをぬらぬらと泳ぎながら、

「ご覧のとおり似合いの二人、あのまま雛壇ひなだんの上に並べてやりたいところだが、どうやらもう一押し、工夫くふうが要りそうなのだ。大地主の総領息子と山番の娘、なんといっても身分が違う。しかし繭子ほどの娘なら、健児の家も嫁として文句はあるまい。それに俺という後ろ盾がある。ここいらの田舎だと、都会から来た学士様の看板は、なかなか大したものだからな」

「人の身分など俺にはわからぬが、まあ、せいぜい教師やら学士やら、好きなように化けおおせればよかろう」

「おう。春までには、きっとあの二人に祝言をあげさせてみせる。それが済んだら帰ってくるよ。人を化かすのは確かに面白いが、村中化かすとなると、どうも気忙きぜわしなくていけない。このところ百歳も老いぼれたような気がする」

 このなまず、もとい古狸の根性なら、五百年くらいは平気で生きるだろう――。

 ぬらぬらと鼻面を撫でられながら、俺は楽観していた。

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