2 遠足
意気揚々と西の森に消えた古狸は、夏になっても帰ってこなかった。
秋風が吹いても、まだ帰ってこなかった。
ああ、これはきっと正体がばれて、村人に始末されたな――。
俺が神妙に古狸の成仏を願っていると、山の紅葉がすっかり色づいた頃になって、ようやく例の背広姿が、西の森の小道を下ってきた。しかも、ぞろぞろと人の子供を引き連れている。
俺は泡を食って湖の水に顔を沈めた。相手が大人であれば、よほどの通力でもないかぎり俺の姿を見ることはできないのだが、なぜか子供には気づかれてしまうことがあり、なかなか油断ならないのである。
教員姿の古狸は、二十人ほどの生徒たちをひとりひとり点呼して、「溺れるから水に入るな」だの「迷子になるから遠くに行くな」だの、もっともらしく訓示をたれた。
生徒たちが三々五々に散って弁当を食い始めると、古狸は俺の潜んでいる岩場に顔を出した。
万一の覗き見を用心してか、教員姿のままで、
「土産話は山ほどあるが、そのうちゆっくりしてやろう。今日は子供らを、日が陰る前に帰さねばならぬでな」
俺は目玉から上だけを水面に浮かべ、
「それはかまわぬが、この騒ぎはなんだ」
「これは遠足という分校の行事だ。まあ物見遊山みたようなものだな。人の学校では、毎年やる決まりになっておる。そのうち運動会とかいう奴もあるそうだ。分校前の広場を皆で駆け回るらしい。なんでわざわざ駆け回るのかよくわからぬが、まあ、やる決まりなら、やらねばなるまいよ」
「なんだかよくわからぬが、うまく教員に化けられて何よりだ。俺はてっきり狸汁にされたかと思った」
「正直、初めはずいぶん危ない橋を渡ったよ。それでも子供らが先生先生と懐いてくれるんで、他の大人連中も、なんとか化かしおおせた」
岩場のあちら側から響いてくる子供たちの笑い声に、古狸は目を細め、
「なかなか、かわいい奴らだろう」
「俺には人の子など、猿と同じにしか見えぬ」
「いやいや。猿も色々、人も狸も色々だぞ。馬鹿だが面白い奴、利口だがつまらん奴、何をやっても変てこりんな奴――おぬしは一匹だけで生きておるから世間が狭いのだ」
確かに俺は俺以外の龍と滅多に会わないから、仲間内の情に疎いところがある。
古狸は、岩場の隙間から子供たちを指し示し、
「俺のお気に入りを、おぬしにも教えておこう。あそこに、ちょいと身なりのいい活発な男の子と、身なりは悪いが利発そうな女の子がおるだろう。年少のチビどもを世話している、あの年長のふたり組だ。里見健児と、草野繭子という」
「サトミケ? クサノマ?」
「いやいや、サトミ・ケンジとクサノ・マユコ。人間には、それぞれ姓と名というものがあるのだよ」
「なんだかよくわからぬが、面倒な生き物だな。しかし確かに、あれらは他の小猿よりも猿っぽくない。見ていてなぜか気持ちがいい」
「そうだろう。姿もいいが気立てもいいからな。健児は大地主の総領息子だが、ちっともそれを鼻に掛けない一本気な奴だ。繭子は貧しい山番の娘だが、頭がよくて少しもいじけたところがない。あの人気者二人が俺を好いてくれるおかげで、俺もうまく教師に化けられていられるのさ」
そのうち他の小猿のひとりが、なんの用事か「先生、先生」と、こちらを呼んだ。
古狸は、そちらに「おう」と応じた後、
「じゃあ、またな。村人を化かし飽きたら、そのうち帰ってくる」
そう言い残し、遠足とやらの続きに戻って行った。
こいつは当分帰ってくるまい、と俺は思った。
一旦うまく化かしたら、とことん化かしつくすのが古狸の本性である。
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