山の小道

バニラダヌキ

1 前口上 ~ 発端

 里見健児と草野繭子は、今、一本の小道である。

 その小道は信州のとある山里の端から、さほど広からぬかやの草原を縫って緩やかな下り勾配をなし、さらにいささかの森を抜けて東の湖へと続いている。その湖もまた健児と繭子であり、湖のさらに東の険しい峠道までが、健児と繭子そのものであるらしい。

 しかしその峠の彼方、停車場のある街に下る五里あまりの山道は、残念ながら繭子でも健児でもなかった。そこに至る以前に、二人は人という窮屈な体を脱ぎ捨ててしまったからである。


 人が人の形を脱ぎ捨てられることを、俺は、寡聞かぶんにしてそれまで知らずにいた。


 俺は湖に棲む一匹の龍である。稀に気が向くと湖を出て山の空に遊び、雷雲や嵐を呼んだりもする。しかし人々が言い習わすような、滝昇りの鯉であったことは一度もない。

 湖には大勢の鯉も棲んでおり、中には湖に流れこむ細々とした川を遡って滝を目ざす元気な奴もいるにはいるが、龍になって帰ってきた奴や、天に昇った奴は一尾も見たことがない。生まれついての体と似ても似つかぬ姿に化けるのは、狐と狸くらいなものである。それもしぶとく百年は生きねば、変化へんげの術を体得できぬらしい。

 しかし俺はあくまで龍であるから、かれこれ千年は生きていると思うのに、思い出せる限りの昔からただの龍である。もしかしたらタツノオトシゴであったことはあるのかもしれないが、そんな昔の事は、もう自分でも思い出せない。


         ◎


 あれは、人の世が明治から大正とやらに代替わりする、少し前の頃であったか。

 ようやく山の雪が融け、俺が日当たりのいい水辺の草叢くさむらに顔だけ出して昼寝していると、なじみの古狸が、何やらどでかい獲物えものを口にくわえて引きずりながら、東の山道を下ってきた。この狸はかれこれ三百年近く生きており、分福茶釜から大入道までたいがいのものに化けられる。その日は八尺あまりの虎に化けていた。

 もっとも、このあたりの山に虎は棲んでいない。当然、俺も本物の虎を見たことがない。だから当初は山猫に化け損ねた古狸かと思った。顔の造作は育ちすぎた山猫のようで、尻尾の形はどことなく狸っぽい。それでも毛皮の色柄は噂に聞く虎に相違ないから、古狸自身は虎のつもりなのだろうし、俺も細かく注文をつけるほど野暮ではない。

「虎かよ」

「おう、虎だよ」

 古狸の虎は得意げに言って、くわえていた獲物を俺の前に投げだした。どうやら若い男の死骸である。

「食うか?」

「そんな不味そうなものを食うものか」

 人間などという代物はきが良くても不味いのに、薄汚れた死骸など嘗める気にもならない。

「いくら虎に化けたからといって、悪食あくじきまで真似ることもあるまいに」

「俺だって食うものか。くわえやすいように、でかい生き物に化けただけさ」

 八尺あまりの虎猫は、その場でころりとでんぐり返り、二尺ほどの古狸に戻った。

「山を散歩していたら、こいつが獣道けものみちに倒れていたんだ。大方、山越えの途中で道に迷ったのだろう」

「その服装なりだと、山を知らぬ都会者だな」

 山向きの背嚢は背負っているが、この時期に背広姿は無茶である。麓の街ならいざ知らず、ここいらでは外套を着ていても凍え死ぬ。

「こんな代物を、なんでわざわざ運んできたのだ」

「一度しっかり人に化けて、村人をたぶらかしてみたかったのさ。村人を見本に化けると、皆、顔なじみだからすぐにばれてしまう。こいつはどうやら、まるっきりの余所者だ。化ける見本にちょうどいい」

「なるほどなあ」

「俺が化けたら、こいつは湖の底に沈めて魚の餌にしてくれ」

「それくらいなら手伝おう」

「かっちけない」

 古狸は、またころりとでんぐりがえり、死骸と同じ姿に化けた。汚れて傷んだ背広や背嚢は、そこそこ新しそうに化けている。狸も三百年生きると、なかなかそつがないのである。

 ポケットや背嚢はいのうの中身にまでは化けられないらしく、元の死骸の持ち物をこまめに移しながら、

「ほう。こいつはどうやら、村の分教場の新しい教員らしいぞ」

「そんな者に化けて大丈夫か? 子供に読み書きやら算術やら、いろいろ教えるのだろう」

「馬鹿にするな。俺は並の人間の数倍も生きておるのだぞ。尋常小学校くらいお茶の子さ」

 そうであった。滅多に湖を離れない俺と違って、こいつはしょっちゅう村に出入りし、村長の家の書物から寺の経典まで、こっそり盗み読んでいる。無学では馬鹿な人間にしか化けられない、それがこの古狸の持論であった。

「じゃあ、あとの始末は頼んだぞ」

「心得た。いずれ土産話を聞かせてくれ」

「おうよ。楽しみに待っていろ」

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