弁護士・白山白狼が「お茶漬け」を書いたら
読者諸兄、このケースファイルを見よ。
時刻は深夜零時を回らんとするところ。ヨレヨレのスーツ姿でマンションの自室に帰ってきたのは、都内のIT系下請け企業に勤務するアキオ氏である。
「おかえりなさい。今日も遅くまでお疲れさま」
アキオ氏を出迎えるのは妻のミカである。結婚二年目、子供はまだない。ミカもまた日中は保育士の資格を活かして働きに出ているのであるが、彼女の仕事を通じて待機児童の問題を如実に目の当たりにしている手前、貯金もままならぬ二人はとても自らの子供を持つことになど踏み切れぬ。
彼らのように懸命に勤労に励む若い夫婦が、子供の一人を養うだけの金銭的余裕も得られぬことは、今や重大な社会問題である。だが、もとい、その件はまた別の機会に話すこととしよう。
「結局、昼も食べてないんだ……今日も顧客対応が忙しくてさ」
手早く食べられる夜食を、と求めるアキオ氏に応え、妻のミカは台所へと向かう。アキオ氏は妻の顔を見たことで安心したのか、気の抜けた表情で背広の上着を脱いでハンガーにひっかけると、疲れ切った身体を椅子に埋めるようにして食卓に着く。
さよう。賢明な読者諸兄は既にお気付きであろうが、このアキオなる男性、ブラック企業の犠牲者である。
「せめて残業代でも出たらいいのにね」
妻は椀に炊飯器の飯をよそい、茶漬けの袋を破りながらアキオ氏に向かって言うのだが、彼は諦観に満ちた声で力なく答えるばかり。
「ウチでそんなもの出るわけないよ」
労基法など律儀に守っていては会社が立ち行かぬ――恐らく彼の会社の経営者は斯様な戯言で違法行為を正当化しているのであろう。少しでもその経営者に共感せんとした読者があれば、直ちにその認識を改められたい。従業員に時間外手当を支払わぬことは違法である。日本企業の悪しき旧弊に頼った違法な搾取は、一切の例外なく全て唾棄すべき重大犯罪である。
「他の会社に移るわけにはいかないの?」
妻は健気にアキオ氏の身を案じているふうであるが、昼夜休日を問わず山積する業務に忙殺される彼には、とても新たな職場を求めて転職活動に踏み切る時間の余裕も心身の余裕も持ちようがない。蛇蝎の如きブラック企業どもは往々にして、転職する自由すらも与えぬほどの過重業務によって従業員を自社に縛り付けるのである。
見よ、疲れきったアキオ氏に妻が差し出す即席の鮭茶漬けを。食べやすくて嬉しいと喜び箸を動かすアキオ氏の安堵の顔を。
そこには夫婦の細やかな幸せの時間がある。糟糠の妻が彼の心の支えであることに異論はなかろう。しかし、大の男が茶漬け一杯に幸福を見出さねばならぬこの現状はどうだ。斯様に質素な食卓すらも一縷の幸福と化してしまうほど、アキオ氏は悪逆非道のブラック企業に心身を蝕まれ、人生の余裕を奪われてしまっているのである。
許すまじブラック企業。殲滅すべし。
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