習作(無題)

 批判者たるもの己の言葉には責任を持たねばならないのだよ、と、私の恩師であり先輩であるその人は口癖のように言っていたものだった。いかにもライトノベルの使い古されたキャラ付けの一つといった書生しょせい風のテンプレ口調をさらりと自然体で使いこなし、口調と真逆の女性らしさを象徴するかのような長い黒髪を、やはりライトノベルのテンプレのようにふわりと片手でかき上げながら。

 彼女が年上の異性であることを否が応でも私に思い出させるその仕草に続いて、先輩は決まって続けるのだった。批判に責任を持つとは、つまり、自分に出来ないことを他人に要求しないことであると。いかに言葉を尽くして他人の駄目出しをしたところで、批判者自身がそれを実践する力と意識を持たない限りは所詮片手落ちに過ぎないのであると。そんな話をするとき彼女が引用するのは、決まって坂井さかい三郎さぶろうの自伝にある「セミ訓練」のエピソードだった。


 日本海軍を代表する名パイロットとして名を馳せた坂井三郎は、後進を指導する立場になったとき、己に出来ないことを新人に強要することはしなかった。当時の飛行機の操縦には、重たい操縦かんを引いて機体を操る腕力がどうしても必要になる。その力を鍛えるため、坂井の居た部隊の教官達は、よく、基地の敷地内にある高いポールをセミのようによじ登る「セミ訓練」を新人に行わせていた。しかし、鍛錬の足りない新人達の中には、ポールの半分すら登ることができない者もいる。どうせ教官達にもこんなことは出来はしないのだろうと彼らが思うのは必至だ。そこで坂井は、自分が率先して手本を見せてやると言い、満身創痍で前線を退いた身でありながら、新人達の前でやすやすとポールをよじ登ってみせ、頂上で煙草をふかす余裕さえも見せつけるのだ。「他の教官達もこのくらいのことは当然にやってのける。教官達にできないことを諸君に要求しているのではない」と。これこそ指導者のかがみではないか。時の連合艦隊司令長官山本やまもと五十六いそろくの「やってみせ」の精神を、同じ海軍の末端に居た坂井は知ってか知らずか体現していたのだよ――と、先輩はいつもその言葉でこのエピソードを締めくくるのだ。


 そしてその日も先輩はパソコンに向かい、熱心に何かを書いていた。聞けば、自分の述べた批評に裏付けを与えるために自ら筆をっているのだという。多くの人が褒めた文章を私だけが酷評しているものだから、私にはそれを説明する責任があるのだよ――と、彼女は汗を吸った長髪をいつものようにかき上げ自嘲的に苦笑いしていた。今にして思えばそれは彼女なりの作者へのリスペクトの形だったのかもしれない。顔も名前も知らない相手に対する、一人の物書きとしての配慮と尊敬を、不器用な彼女なりに責任という言葉で包んで表そうとしていたのかもしれない。

 私は作者の選んだ形式自体を何ら否定するつもりはないんだ、と先輩は細い指でキーボードを叩きながら言っていた。私はただ、その形式をやりたいなら何が足りないのかを指摘しているだけなのだよと。当時の私には先輩の言うことの半分も理解できなかったが、そんな私にも彼女は懇切丁寧にその文章の足りないものを説明してくれた。それは世の人が統一感とか、自然さとか、ブレのなさとか呼ぶ類のもので――より誰にでも分かるように表現するなら、一つの作品の中で口調があちこち入り乱れていてはダメだということのようだった。涼宮すずみやハルヒや化物語ばけものがたりがあれほどクセのある文体を使っていながらどうして読みやすいのか分かるかい、と先輩は流し目で私に問うた。どちらも読んだことがありませんと正直に答えると、低俗と思うものを選択肢から切り捨てていくとその者の視界には何も映らなくなるのだよ、と彼女は私の不見識をさらりと笑ったものだった。

 いわく、文体にいかなるクセを付けるにあたっても必ず作家が意識しなければならないのは、口調や言い回しを途中でブレさせないことであると。それさえ整っていれば一人称視点の主人公が冒頭から呆れ返るほどの長文でサンタクロースの話を述べていようと、映像化できるものならしてみろと言わんばかりの趣味100パーセントの言葉遊びを全編にわたり展開していようと、読者に違和感を抱かせるには至らないのだと。先輩が酷評したその作品はそこがダメだったということですか、と私が訊くと、先輩はまたしても笑いのさざなみを目に含ませて、ダメという言葉を私は使わないよ、と言った。今の作者に不足しているものが未来永劫えいごうにわたってかれ彼女かのじょに欠けたままであるとは私は思わない、むしろ作者がその不足を埋めてくれると信じるからこそ私は批評をしているのだよ、と、どこか誇らしげに述べて、彼女はまたパソコンの画面に向かった。


 僅か一年ばかりの付き合いに過ぎなかったその先輩の横顔を私が今でも覚えているのは、単に私が彼女という異性にほのかな憧れを抱いていたからというだけではない。先輩に教わりながら文章をつむいだ僅かな時間が確かに私の血肉となり、今日こんにちのささやかな成功のいしずえを築いたことは疑う余地がない。私より一足ひとあし二足ふたあしも早く文壇ぶんだんで活躍していた彼女がやはり一足も二足も早く世を去ってしまったのはもう十年も前のことになる。とうに先輩の享年きょうねんを追い越してしまった私は今、若き日の彼女の教えを少しでも体現するべく、新人賞の最終選考に残った力作揃いの作品たちと格闘している。私のつづる批評文が雲の上の彼女にも届くのではないかとはかない期待を胸に抱きながら。

 いつか向こうで再会したとき、彼女は私を褒めてくれるだろうか。それとも、君に出来るくらいのことは私にも出来るのだよ、と言って、流し目で微かに笑うだろうか。

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