第27話 牙城の崩壊
「お集まりの保護者の皆様。
特研ゼミナール本部校の大教室には二十名ほどの主婦が集まっていた。
会社は今シーズンだけでも既に数回の入塾説明会を開催しており、その度に同じ内容を繰り返すだけの代表の話など、別に今さら平賀が聴いて面白いものでも何でもないのだが――これはパフォーマンスなのだ。集まった
会社でナンバー2の地位であることを社外に向けても公言している自分が、こうして一人の信徒の如く真剣な顔で代表の話を聴いている姿は、見る者すべてにこの会社が一枚岩の立派な組織であることを印象付ける効果がある。
「高い月謝だけを払わされ、生徒はワークのページだけを指示されて放置されている。宿題をやっていかなくても講師はお構いなし。そして、学校の定期テストが近付くたびに、今のままの学力ではマズイなどと親御さんの危機感を煽り、テスト対策の特別授業のコマを買わせる……。それが巷に溢れる個別指導塾の実態であります。なぜ、これらの塾を選んではいけないのか。今から実例をもってご説明致しましょう。何を隠そう、これは私自身の
バカの一つ覚えで繰り出される代表の話に、保護者達は興味津々の顔つきで耳を傾けている。椅子から身を乗り出すようにして聴き入っている保護者の姿もあった。バカ丸出しだ、と平賀は思う。こういう連中がいるから教育業は食いっぱぐれないのだ。
代表の話のどこまでが本当でどこからが作り話なのかは平賀ですら知らないが――いずれにしても、他所の塾の工夫の寄せ集めのようなウチのシステムを、斬新だの何だのと
実際、インチキだろうと
いよいよ夢のタワーマンションへの引っ越しも近付いてきたな、と平賀が表情を崩さないまま内心で密かにほくそ笑んでいると――
「……平賀CKO。失礼します」
事務と受付を担当しているパートの女性が、こそっと平賀の側にやってきて、「お客様です」と耳打ちしてきた。
この大事な説明会の最中に一体何だろう、と思いながら、平賀はやむなく代表に目礼して会社の玄関へと向かう。パートの女性が妙におろおろしたような態度をしているのが平賀には奇妙に感じられた。
受付の外で彼を待ち受けていたのは、目立つ色合いの
「……ど、どちらさま」
予想外の光景に平賀が
「労働基準監督官です。これより労働基準法に基づく捜索を実施します」
「は?」
平賀は思わず目を見開き、一瞬その場に固まってしまってから、イヤイヤ、と首を振る。ちらりと大教室の方を見やると、
「今、入塾説明会の最中なんです。後日にしてもらえませんか」
平賀は女性に向かって言った。せっかく入塾を検討してくれている保護者が集まっているところで、役所の検査なんて入ったら冗談では済まない。それに――何を検査するつもりなのか知らないが、従業員の労働時間などについて抜き打ちであれこれ調べられたら、まずいことになりそうだ。
「そういうわけには行かないんですよ。これは法に基づく強制捜索ですので」
女性は身分証をしまうと、かわりに書類カバンから一枚の紙を出し、平賀の眼前に突きつけてくる。それに合わせて、傍らに立つスーツの男達が、ぎろりと一斉に睨みつけるように平賀を見てきた。
女性が出してきた書類の標題には、「捜索差押許可状」の文字。
「な、何ですか。ウチの会社が何をしたっていうんです。来るなら来るで、事前に言ってもらわないと、こっちにも準備が――」
「だから抜き打ちなんですよ。失礼します」
平賀が止める間もなく、女性を筆頭に、スーツの男達がずかずかと社内に踏み入ってくる。大教室がたちまち騒ぎになった。
「労基署だ! 全員その場から動くな!」
「な、何だお前らは――」
玄関の外に待機していた者達も次から次へと社内に踏み込んできた。スーツを着た連中ばかりでなく、制服の警察官数名の姿まである。
「なんで……警察が?」
平賀が何も出来ないまま彼らの立ち入りを見ていると、最後に入ってきた全身白ずくめの変な男が、ぎらりと鋭い視線で眼鏡越しに平賀を睨みつけてきた。
「貴兄が平賀CKOとやらか」
「……な、何だ、あんたは」
男の襟には金色のバッジが光っていた。ヒマワリに
「内田
弁護士の言葉に平賀はピンと来るものがあった。まさか、内田学のバイク事故の件――。一度、
平賀は慌てて、弁護士らの後を追って大教室に駆け込んだ。保護者や社員達を巻き込み、その場はちょっとしたパニック状態になっていた。
「ちょっと、何なんですか、これは!?」
保護者の一人が若手社員に食って掛かっている。社員は困りきった表情でおろおろとするばかりだった。別の保護者が、「わたし達は部外者ですよ。帰っていいんでしょう」と労基署の職員にかなりの剣幕で尋ねていた。
「そうですな。部外者と確認できた方はお帰り頂いて結構ですよ」
「まったく、とんでもない塾だわ。ホラ皆さん、帰りましょう」
どやどやと出ていく保護者達を、平賀も誰も止めることはできない。
「労働者名簿と賃金台帳、タイムカードの控えを提出して下さい。出さなくてもこちらで捜して差し押さえますが」
強面の男性職員が
「出勤簿はあるでしょう。加えて、現金出納帳、源泉徴収の控えも出してもらいますよ。自主的に出すんですか、出さないんですか」
そうこうしている間にも、大勢の職員達は手分けして事務室や社長室に押し入り、あちこちを引っ掻き回して捜索を進めているようだった。さらには、社員が逃げ出さないように、数人の職員と制服警官がしっかりと各所の出入り口を見張っている。
「私はちょっと、別件があるので失礼させてもらう。お宅の調査には、この平賀が責任者として立ち会うので――」
「え、
平賀が目を見開いたところで、
「社長さん。そうは問屋が卸さないんですよ」
それを合図とするかのように、男性職員の中でも特に体格の大きい者達が、無言で代表の周りに歩み寄ってきて、その身柄を四方から取り囲むような形になった。
女性はまたしても一枚の紙を手にしていた。きょろきょろと周りの職員達に視線を巡らせる代表に向かって、彼女は険しい声を張り上げる。
「ここに裁判所からの逮捕状があります。特研ゼミナール株式会社代表取締役、
「た、逮捕だと!?」
代表の裏返った声を耳にしながら、平賀も驚いていた。それは聞き間違いでも何でもなく――
社員達がそれぞれに驚愕の表情を浮かべながらその光景を見ている。労基の職員達によって腰縄をされた代表の前に、白スーツの弁護士が悠然と歩み出て、腕組みをして彼を睨みつけていた。
その構図を見た瞬間、平賀の脳裏になぜか確信めいた推測が浮かんだ。この事態を引き起こしたのは、この白ずくめの弁護士なのだと。
代表は、信じられないといった目で、自分の両手首の手錠と弁護士の顔を交互に見ていた。そこへ弁護士の冷たい声が浴びせられる。
「法の力を侮った報いだ。労基の後には、エステートアーバンと共謀した虚偽告訴罪で警察の調べも待っているぞ。貴様らのしたことは刑事司法に対する挑戦だからな。地検も黙ってはいまい」
「な、なんで、ここまで――」
「分からんか。貴様はこの
がっくりと
まだ関係書類の捜索は続いている。騒ぎの中で平賀は思った。こうなった以上、早くこの会社とは縁を切るのが賢明だ。幸い、自分は取締役でも何でもなく、法的にはただの契約社員に過ぎない。自分まで責任を追及されることはないと思うが――。
「平賀さん、あんたもウチに出頭してもらおうかね。あんたからも色々聞きたいことがあるからな」
労基の男性職員に言われ、静かに頷きながら、平賀は自分もまた奴隷の一人であったという事実をいかにして労基に納得させるかを真剣に考えていた。
それからの幕引きは実にあっけなかった。
虚偽告訴の主犯であるエステートアーバンの経営者も、在宅で警察と検察の捜査を受け、同じく起訴されたという。マンションの管理人ともども、内田
平賀自身も、労基と警察の両方で相当厳しく取調べを受ける羽目になったが、幸いにも身分が
「
夏の日差しがじりじりと照りつける中、平賀は愛車のBMWを特研ゼミナール本部校が入っていたビルの前に停め、左ハンドルの車の窓からかつての牙城を見上げていた。窓に施されていた塾名のペイントは既に剥がされ、かわりに「テナント募集」の無機質な張り紙がでかでかと自己主張している。
ここでの数年間――哀れな奴隷達の上に君臨して甘い汁を吸わせてもらった日々は、いまや
これ以上、過ぎ去った日々を懐かしんでいても仕方がないか――と、平賀が車のシフトレバーをドライブに入れようとした、その時。
「平賀CKO」
歩道から、ふと声をかけてくる男の声があった。
「……内田、お前」
声の主は内田
何を話したものかと逡巡しながら、彼のケガのことをまずは思い出し、平賀は言う。
「元気そうだな。足はもう大丈夫なのか」
「はい、お陰様で。……CKOも、お元気そうで何よりです」
「やめろよ、CKOとか。今更恥ずかしい」
学と言葉を交わしながらも、平賀には彼の
「お前、俺のこと恨んでないのか?」
「……なんでですか。会社とは色々ありましたけど……平賀さんには、僕は今でも感謝してますから」
「感謝?」
平賀には学の言う意味がわからなかった。自分が何を感謝されるようなことをしたというのだ?
「平賀さんは……面接で、僕を拾い上げてくれたじゃないですか。勉強ばっかりで、サークルもボランティアも何もやってなくて……就活も落ちっぱなしだった僕を、あんなに評価してくれたのは、平賀さんだけでしたから……」
「……よせよ」
学の目はマジなように見えた。自分はただ、代表の方針に従って、手っ取り早く洗脳しやすそうな、あまり学生時代に成功体験を積んでいないであろう学生を選んで面接を通しただけなのに……。
「お前、もう次の仕事は見つかってんのか」
「いえ……。なかなか、僕みたいなヤツには再就職は厳しいです」
「ふうん……」
平賀はほんの思いつきで、車の窓から身を乗り出し、学に言ってみた。
「俺、新しい塾の会社を立ち上げることにしようかな。お前、どうだ、社員第一号ってことで」
「……それは」
軽い冗談のつもりで言ったのに、学は思った以上に本気で迷い始めたように見えた。だが。
「それは……すいません、やめときます。母に心配はかけられないので」
「そっか。そうだよな」
納得して、平賀は学に軽く笑いかけ、ギアをドライブに入れる。
「もう変な会社に引っかかるなよ。元気でな」
「はい。平賀さんも、お元気で」
車を発進させ、ルームミラーに映る学の丁寧なお辞儀姿を見て――平賀は、なぜか、冗談や気紛れではなく、真剣に先程の選択肢を考えてみようかと思い立っていた。
自分の手で作ってみよう。今度は変な洗脳集団ではない、真っ当な学習塾の会社を。学のような純粋な若者を集めて――彼らを食い物にするのではなく、本当の意味で理念を共有していけるような、しっかりした会社を。
決意を新たにし、アクセルをぐっと踏み込む彼の頬に、全開の窓から吹き付ける夏の風は爽やかだった。
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