第26話 労働基準監督官

 内田まなぶの逮捕当日の接見に続き、白山しろやま白狼はくろうは翌日の検察庁での取調べにも同席を申し出ていた。志津しづも朝から勉強と取材のために検察庁に同行させてもらっている。

 同行といっても、もちろん「検事調べ」の場に入れるのは弁護士である白山だけだ。調べの間、志津は庁舎の一階のロビーでベンチにひとり腰掛け、自分のノートに書き留めてきたこれまでの記録に改めて目を通していた。

 考えれば考えるほど、学のもと勤め先――特研とっけんゼミナールという洗脳企業への怒りが志津の中にも沸々とこみ上げてくる。

 単に労働環境が劣悪だというだけならまだわかる。だが、業務中のケガの治療やトラブルの解決に協力することを拒み、まして被害者であるはずの学を逆恨みして意趣返しの刑事告訴にまで手を貸すなど、度を超えている。こんな横暴が許されてなるものか。

 内田学――あの気弱そうな青年が今、どんな思いで警察や検察の取調べを受けているのかと想像すると、志津は胸が痛んだ。この自分が赤の他人のことでこれほど腹を立てたり胸を痛めたりすることがあるなど、彼女は今まで思ってもみなかった。

 白山は昨日、学との接見を終えた後、「ここの刑事課はまだマシな部類のようだ」と言っていたが――仮に警察組織の人権遵守意識がしっかりしているとしても、身に覚えのないことで手錠を掛けられ、社会から隔離され、鉄格子の中で頼りなく一夜を明かす心細さとはいかほどのものか。

 学の身に降り掛かったことの理不尽さを思い、志津がぎりぎりと奥歯を噛み締めていると――

不動ふどうさん」

 ノートに目を落としたままの志津に、ふと声を掛けてくる男性の声があった。

 顔を上げ、志津はハッとした。声の主は青梅おうめ弁護士。そして、彼の一歩後ろには、学の母親が憔悴しきった顔で立っていたのだ。

「内田さん。もう体調は大丈夫なんですか」

 志津がベンチから立ち上がり、自分の隣の位置を手で示すと、痩せぎすの中年女性は、すとんと音を鳴らすようにその身体をベンチに預けた。青梅が彼女をいたわる声を掛けながらその隣に座ったのを見て、志津も再び腰を下ろす。

「白山先生は、もう調べに?」

 青梅の問いに志津は頷いた。

「じゃあ、無事に順番を都合してもらえたのか……」

 何かに納得するように青梅はそう言った。

 確かに、白山は昨日の内から検察庁に電話し、「検事調べ」の時間について何やら話していた。その時に彼が志津に語ったところによると、検察官は一日に何人もの被疑者の取調べを流れ作業の如くこなしていくのだが、検察官の部屋に呼ばれる順番は被疑者本人に知らされることがない。管内の各警察署から朝イチの護送バスで検察庁に集められた被疑者達は、古い雑誌やボロボロの漫画が申し訳程度に置いてあるだけの待合室で、硬い椅子に座り、何時間もひたすら自分が呼ばれるのを待ち続けなければならない。白山はその順番待ちレースに介入し、学の取調べを早い時間にしてもらえるように検察官に掛け合っていたというわけだ。

「学は……本当にちゃんと出てこられるんでしょうか」

 検察庁の建物に萎縮してしまったのか、学の母親は疲れ切った顔にさらなる弱音を滲ませて青梅に問うていた。青梅はまっすぐ彼女の顔を見て頷いている。

「相手がどんな無茶な被害申告をしていたとしても、実際に息子さんがしたことといえば、チラシを投函し、管理会社にたった一度電話をしただけです。脅迫や業務妨害の犯罪事実を立証するのは不可能に近い。この程度のことで公判を維持して有罪判決を引き出せるとは検事も考えないでしょうから、順当に考えて、不起訴の決定が出るのは間違いないかと」

「……はぁ……。つまり息子は、すぐに牢屋から出られるんですか」

「今日の、新件としての調べの時点で、検事がすぐに不起訴決定をするなら……。いや、仮に今日の時点でそうならなかったとしても、身柄を勾留こうりゅうさせずに在宅での調べに持っていけるよう、白山が全力を尽くしています。どうかご心配なく……」

 母親が少し安心した顔になったところで、青梅は言う。

「それより、奥さん。お願いしたものはお持ちになって頂けましたか」

「はあ……。病院を出てから家に寄りまして、一応、先生に言われたものは探してまいりましたが……。これで十分かどうかは……」

 彼女が青梅に差し出したのは、厚みのあるA4サイズの封筒だった。青梅は一礼してから中身の書類を取り出し、何度か頷きながらその内容を検分していた。

「大丈夫です、奥さん。これだけの証拠があれば、息子さんの人生を食い潰そうとした悪徳企業に一矢報いることができるでしょう」

 一体どんな書類を揃えたのだろう、と志津が思いながらも口を挟めずにいると、母親が突然、「まなぶ!」と叫んでベンチから立ち上がっていた。

 見れば、悠然とこちらへ歩み寄ってくる白山の隣に、歩きづらそうに左足を引きながら、されど自由の身になったことを示すように両腕を控えめに顔の横に上げ、母親に向かってホッとしたような表情を浮かべる学の姿があるではないか。

「学……あんた、出てこられてよかった……」

「母さん。心配させてごめん」

 互いの無事を喜び合う親子に向かって、白山が言う。

「この件についてはもう心配は要りません。担当検事が既に起訴を断念しましたのでね。この件でまなぶ君が警察や検察に呼ばれることは、今後二度とないと思って頂いて良い」

「先生、お疲れ様です」

 志津も席を立ち、青梅に続いて白山に「お疲れ様です」と挨拶した。無事に解放された学の姿を見ると、他人のことながら、志津の胸にも熱い感慨が湧いてくる。

 学の母親は疲れた目に涙を潤ませ、白山に向かって頭を下げた。

「白山先生……。本当に、何とお礼を申し上げてよいか……」

は我が事務所にお任せ下さい。まだ、学君の私物を取りに警察署に行かねばなりませんが、青梅君に同行させましょう。その後はゆっくり休まれるがよい。お母さんも、学君も」

 母と同様、学も白山に深々と頭を下げて、はい、と一言答えた。

「先生。こちらは奥さんからお預かりした証拠資料です」

 青梅に封筒を手渡され、白山は満足げに頷く。

「青梅君、ご苦労だった。警察署の後、お二人をご自宅までお送りしてあげたまえ。事務所に戻ったら、エステートアーバンとマンション管理人を相手取った民事の訴状と、虚偽告訴罪での刑事告訴の準備を頼む。俺はすぐにへ向かう」

「はい。……レッドサーペント、ですか」

 青梅の意味ありげな横文字に、白山はニヤリと笑みを返すだけだった。

 青梅と内田親子を乗せたタクシーを見送った後、志津がレッド何とかという言葉の意味を白山に尋ねようとすると、彼は既にスマホを手にしてどこかに電話を発信しているところだった。

「ホワイトウルフ法律事務所の白山白狼はくろうです。赤座あかざ監督官は本日おられますかな」

 志津が様子をうかがっていると、数秒と経たず、彼の求める相手は電話口に出てきたらしい。

「ああ、赤座君。……そうだ。また同期のよしみで仕事を頼みたい。そう、極めて悪質な違法企業だ」

 二言三言、電話の相手と話してから、白山は通話を終えてスマホを白スーツのポケットに仕舞い、志津に「来たまえ」と声をかけた。

「どこへ行くんですか」

 検察庁の前の大通りでタクシーを拾う白山に、志津は問いかける。

「労働基準監督署に決まっていよう。敵が虚偽の告訴で国家権力を動かしたのなら――こちらは真実の告発で国家権力を動かすまでだ」

 タクシーに乗り込む間際、白山はそう言って、ギラついた瞳を志津に向けてきた。


「白山弁護士。待ち侘びたわよ」

 白山と志津が労働基準監督署の窓口をおとなうやいなや、カウンターの奥から二人を出迎えたのは、臙脂えんじ色のレディススーツを着こなした女性だった。年の頃なら白山と同じ、つまり三十代半ばほどに見える。鋭利な角度で切り揃えられた漆黒のショートヘア、そして吊り上がるように引かれた赤みの強いアイラインが、彼女の人格の鋭さを象徴しているかのようだ。

「電話を入れてから爆速で駆け付けたつもりだがね」

「違う。前回の仕事を持ってきてからよ」

 その女性はカウンター越しに、早く書類を見せろとばかりに白山に向かってサッと片手を出していた。白山もまた、その呼吸を心得ているかのように、白いカバンからがさりと封筒を取り出して彼女に手渡す。

 封筒から書類を取り出す女性に向かって、白山は朗々と通る声で述べた。

「労災隠しによる労働安全衛生法違反。割増賃金、療養補償、休業補償等の不払い、並びに労基法十九条の解雇制限違反。医師の診断書、勤務日誌の記録、解雇通知書、本人の上申書、その他諸々の証拠はそこに揃えてある」

「白山弁護士がここまでガチになるってことは――わたしにアレをやれと言ってるのね」

「そうだ。司法警察員たる貴官に、国家権力の発動を要請したい」

 女性は、白山の持ってきた各種証拠に凄まじい速さで目を通したかと思うと、「待ってて」と言ってカウンター奥のデスクへ引っ込んでいった。

 女性がどこかへ電話を掛け始めるのを志津が見ていると、白山が隣からさらりと彼女のプロフィールを説明してくれた。

「労働基準監督官の赤座あかざ女史だ。労基のレッドサーペント、真紅の毒蛇と恐れられる実力者だよ」

「聞こえてるわよ。誰が毒蛇ですって」

 ちょうど電話の相手が保留にでも入っていたのか、女性――赤座監督官は耳ざとく白山に言葉を飛ばしてきた。白山は「褒め言葉と受け取って頂きたいがね」と肩をすくめている。

 再び電話口に向かって話しだす赤座監督官を横目に、白山は説明を続けた。

「彼女とは司法試験の合格が同期でね。だが、トップに近い成績で試験をパスしながら、司法修習に進まず、労基に入ることを選んだ変わり者だ」

「白山さんに変わり者と呼ばれるなんてよっぽどですね」

 その変わり者はすぐに通話を終えると、スーツと同じ臙脂えんじ色のパンプスでコツコツと足音を立て、再びカウンターで白山と向き合った。

「警察から留置場の使用協力を取り付けたわ。捜索差押さしおさえと同時に代表者の身柄を押さえる形でいきましょう」

「流石に仕事が早いな。ガサはいつになるかね?」

「令状が取れ次第、明日にでも」

 プロ同士のやりとりはそれで十分なようだった。白山は「よろしく頼む。ガサには俺も付き合わせてもらおう」とだけ付け加えると、赤座監督官と互いに不敵な笑みを交わしあい、すぐにきびすを返して出口へと歩き始めた。

 その背中を追い、労基署の建物を出てから、志津は彼に問う。

「さっきの、何の話ですか? 留置場とか令状とか」

「労基署は労働関係の警察と言われる。それはただの比喩ではなく――労働関係の犯罪事案について、彼女らは強力な捜査権限を与えられているのだ。事業所に臨検し、証拠物を押収し――時には違反者を逮捕する権限さえもな」

 白山が彼女を振り返ってさらりと告げたその説明には、静かな怒りが込められているように聴こえた。

「目には目を、だ。思い知らせてやろうではないか。人格者を気取って法を侮り、人権を嘲笑あざわらう違法経営者の末路を」

 その言葉で志津ははっきりと悟った。この弁護士は――くだんの会社を徹底的にぶちのめすつもりなのだ。

「……白山さん、それって」

「この俺を虚仮コケにする者は許さんと言ったであろう。まなぶ君は仮にも我がホワイトウルフ法律事務所を頼ってきた相談者だ。その彼の人権を蹂躙することは、この白山白狼の名誉を蹂躙するも同じ――」

 白山の鋭い双眸はかつてない怒りに燃えていた。全身真っ白な彼の姿を赤く染め上げるかのように――揺れる炎を宿した怒りのオーラが、その足元から静かに立ち上っている。

 志津は奇しくも目にすることになったのだ。小説の題材取りの最後の最後に、正義の白き狼が真の牙を剥く姿を。

「断じて容赦などせん。叩き潰してやる」

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