第25話 親不孝

 金属のひんやりした冷たさと、ずっしりと手首にかかる重み。

 手錠の感触をこの身をもって知ることになるなど、まなぶにはつい数時間前まで想像もつかなかった。


 松葉杖が要らなくなったばかりの左足を不器用に引きずり、学がマンションの前まで帰ってきたとき、その入口の脇にはスモークガラスを貼った白いバンが停まっていた。なんだろう、と思いながら学がマンションに入ろうとすると、狙い澄ましたように車のスライドドアが開き、スーツ姿の男性達が学の行く手を阻むように立ちふさがってきたのだ。

「内田学さんだね。なんで我々が来てるかわかってるだろうね」

 男性の一人が警察手帳を開いてかざしてくるさまは、まるで刑事ドラマか何かを見ているかのようだった。

 奇しくもそれは、学の母親がパートに出る時間だった。マンションから出てくる母の姿を学が認め、ちょうど目が合ったとき、刑事らしき男性達は学に「警察署まで一緒に来てくれるか」と同行を求めてきたのだ。

「学、どうしたの、何なのその人達は」

 学自身、突然警察が来たことに訳もわからず混乱していたところへ、母がか細く声を上げながら駆け寄ってくる。

 刑事の一人が軽く母に頭を下げ、「内田さんのお母さんですね」と言った。まるで、母の姿を最初から知っていたかのように。

「ちょっと、我々の方で聞きたいことがありますので、内田さんには警察署への同行をお願いしているところです」

「け……警察」

 その瞬間、母はふらりと天を仰いだかと思うと、へなへなと力なく路面に崩れ落ちてしまった。

「母さん!」

 学が驚いて駆け寄ろうとするのを、刑事の一人が押しとどめる。倒れた母にはすぐに別の刑事が寄り添い、大丈夫ですか、と声をかけていた。

「お母さんはウチの者が介抱するんで、ほら、キミは早く車に乗って」

「そんな。母さん、母さんが心配です!」

「だから、ちゃんと病院にお連れするなり何なりするから。キミが心配せんでいいから」

 刑事二人が学を両側から挟んで車に連れ込もうとする。現に他の刑事が二人、気を失っているらしき母の介抱に回っているのを見ると、少なくともその言葉にウソはないようだった。だが――。

「そもそも、僕が何をしたっていうんですか」

「まあ、車乗ってからゆっくりな。ほら、ご近所さんの目があるから」

 学は結局、あれよあれよという間に警察のバンに連れ込まれ――そして、その後は流れ作業のようだった。


 任意同行のテイで警察署まで連れて行かれ、取調室に入ってパイプ椅子に座らされるやいなや、逮捕状を見せられ――

 「法律の決まりだから一応」と手錠と腰縄をされ、刑事課の奥の扉をくぐった先の留置施設ですぐに手錠を外されたかと思うと、専用の部屋で顔や全身の写真を撮られ、持ち物検査をされ、担当の警察官が専用の書面に私物の目録を手書きしていき――

 再び手錠と腰縄をされて取調室に戻り、腰縄のまま手錠だけを外されて、パイプ椅子にその手錠を掛ける形でやんわりと身体を椅子に拘束され――

 かくして、学は今、担当刑事の取調べを受けている。


「……じゃあ、つまりキミは、バイクでケガした分の治療費を管理会社に請求しようと考えて、電話をしたわけね」

 灰色の机を挟んで学と向き合うのは、若い男性の刑事だった。言葉から受ける感じは柔らかいが、その両眼には、ウソは見逃さないぞという鋭い光が宿っているように見える。

 取調室の扉は全開になっており、廊下から時折、別の刑事がちらちらと学の取調べの様子を覗いてくる。

「そうです、でも、脅迫とかのつもりはなくて――」

「キミとしては脅迫のつもりはなかった、と。まあ、どう受け取るかは相手さん次第だからね」

 刑事は学の言葉をノートにボールペンで書き取っていく。ドラマで見るような、下っ端の刑事が傍らでノートパソコンを打っているというようなことはなかった。刑事数人に囲まれて「やったんだろう!」と脅かされたり、卓上照明の光を当てられるなどといったこともない。

 警察の取調べというのも、ドラマで見るほど横暴なものではないのだな――という素朴な感想が学の脳裏の片隅には浮かんでいたが、そんなことよりも彼の意識の大半を占めるのは、今置かれている状況への戸惑いと焦り、そして警察が病院へ搬送してくれたという母の身を心配する気持ちだった。

 なぜこんなことになったのか、学には全くわからない。

 学が先程見せられた逮捕状には、逮捕容疑が「脅迫」及び「威力業務妨害」であると明記されていた。刑事ももちろん、そのことを学に告げた上で、その前提で話をしている。

 だが、脅迫だなんて。自分はただ普通の態度で電話をしただけだ。脅しと言うなら、あの管理会社の担当者の罵声の方がよほど脅しではないのか。管理会社が治療費を出すべきだという主張も間違っていないはずだ。それなのになぜ、自分が逮捕されるようなことに――。

「そもそも、なんでそのマンションでビラ配りしてたの。禁止って書いてあったんでしょ?」

「それは……会社の仕事だったので」

「会社からは、チラシの投函禁止って書いてあるマンションにもチラシを配って来いって指示だったの?」

「……いえ、そういうマンションは、トラブルにならないようになるべく避けるようにと……」

「じゃあダメじゃない。キミが自分の判断でそのマンションに入ったってことだよね」

「はあ」

 刑事はまたノートに何かメモしていた。

 そういえば、自分はあのマンションにポスティングに入るとき、チラシ投函禁止と書いてあるのを見たのだっけ、それとも見ていないのだっけ。あまりにショックな出来事が続きすぎて、学の頭はもうそれを正確に覚えてすらいない。

「あの……刑事さん。あれから、母はどうなってるんでしょうか」

 学が問うと、担当刑事は一応、こちらの心情をおもんばかるような表情はしてくれた。

「さっき、別の刑事が病院へ電話して、お母さんにキミの逮捕のことを伝えてくれたようだけど――まあ、自分が聞いてる限りでは、大丈夫なんじゃないかな。ショックを受けて倒れてしまっただけで、別状はないはずだよ」

「……そうですか……」

「まあ、お母さんが気になるのはわかるど、それより自分の心配をしなさいね。ちゃんと反省して認めれば早くに帰れるかもしれないし、ヘンな意地張ってたらなかなか帰れないかもしれないし」

 刑事の口調だけはあくまで温和だが、言っていることはやっぱり恐ろしい。

「……そんなこと言われても、本当に、脅迫とか業務妨害とかのつもりは全然なくて……」

「内田君、ちなみに業務妨害の方は、管理会社への電話の件だけじゃなくて、そもそもキミがビラ配りの件でマンションの管理人さんとトラブルを起こしたことも入ってるんだよ。……どうかな、それについては、自分でどう思う」

「……はあ、でも、僕が管理人さんの仕事をジャマしたわけじゃなくて……向こうが勝手に怒って追いかけてきたので……」

「管理人さんはさあ、管理人室みたいな部屋にいて、荷物を預かったり、電話を受けたりするのが仕事でしょ。勝手にマンションに入ってきてビラ配りしてる人がいて、その対応を迫られたら、それって仕事をジャマしてることになると思わない?」

「はあ……そうなんですかね……」

 学は刑事の思惑にうっすら気付いていた。この刑事は――というか、警察の取調べは常にそうなのかもしれないが、上手いこと学の言葉を誘導して、罪にあたる行為をしたと認めさせるつもりなのだ。

「……僕は、そんなつもりなかったんですけど……」

 と、悪気がなかったことをアピールする以外、学にできる自衛の手段などなかった。

「ふうん……管理人の業務をジャマするつもりはなかった、と……」

 刑事がまたペンを走らせたところで、開いたままの扉から上司らしき中年の刑事が顔を覗かせ、ちょっと、と担当刑事に声をかけてきた。

「調べ中断して。弁護士が来てるから」

「弁護士? 私選ってことすか?」

 担当刑事はやや驚いたような顔をしていたが、すぐに学に向き直ると、「キミに会いに弁護士さんが来たらしいから、一旦中断しようか」と言ってきた。

「はあ」

 弁護士が来たと言われても、学には何が起きているのかよくわからない。

 刑事は腕時計を見て、今の時刻を書類にメモすると、学のそばに来て、パイプ椅子に掛けられた手錠を外した。学が腰縄のまま椅子から立ち上がると、再びその手錠が学の両手首を拘束する。

 刑事課の部屋を抜けて、刑事に連れられるがままに留置施設への扉をくぐり、学はそこで手錠と腰縄を外された。そして、刑事に代わって、留置場担当の制服警察官に連れられ、面会室という部屋へと案内される。

 警察官は中に入らず、学だけが面会室に入って待っていると――

「待たせたな、まなぶ君」

 面会室のアクリルガラスの向こうに現れたのは、全身白ずくめのあの弁護士。白山しろやま白狼はくろうだった。

「……白山先生。どうして」

「お母上から、キミの救出の依頼を受けてね。被疑者段階での私選弁護を受任した。まあ、座りたまえ」

 学の側にぽつんと置かれたパイプ椅子を、ガラスの向こうから白山が手で示してくる。学が遠慮がちに腰を下ろすと、白山はアクリルガラスを挟んで机のようになっている場所にどさりと白いカバンを置き、自分も椅子に腰を下ろしていた。

「どうかね、刑事から暴言や暴行は受けていないか。人権侵害にあたるような取調べはなかったか」

「……はあ、今のところは……大丈夫です」

 おずおずと学が答えると、白山はフンと鼻を鳴らし、「ここの刑事課はマシな部類のようだ」と言葉を吐いた。

「キミの身柄は明日には送検され、検察官の取調べを受けることになるが――俺もその場に立ち合わせてもらう。検察官がキミの勾留こうりゅうを請求するなら、裁判所で勾留質問を受けることになるが、無論その場にも同席して勾留阻止を訴えよう。なに、嫌疑のあらましは既に聞いている。八割方、明日には釈放を勝ち取れると思ってくれてよい。逆に言えば、今夜一晩は残念ながらここの留置場に泊められることになるが――こればかりは俺にもどうしようもないのでな」

「……あの、先生。僕にも、なんでこんなことになったのか、全然わからないんです」

 学は白山の目を見て訴えた。弁護士が来てくれたことで安心したのか、自分の口から堰を切ったように言葉が溢れ出すのが、自分でも不思議だった。

「僕は、今日事務所で言ったように、管理会社に電話して治療費のことをお願いしようとしただけなんです。脅迫なんて全然してないし、業務妨害と言われてもそんなつもりはなかったし……。電話でいきなり怒鳴られて以来、またこっちから電話するようなこともしてません。なんでこんな……こんなことになったのか……」

 自分の目が涙に滲んでいくのがわかる。白山弁護士に話せば話すほど、自分の身に起きていることが理不尽だという思いが、理解が、強まっていくのだ。本当に、どうしてこんなことになったのか――。

「何故こんなことになったのか――俺には大体見当はついているがね」

「えっ……」

 白山の自信満々の口調に、学は驚いてまた彼の目を見た。白ブチ眼鏡のレンズ越しに光るその両眼が、ぎらりと輝きを放ったように見えた。

「キミの勤め先――いや、もと勤め先と言うべきか、特研とっけんゼミナールとやらいうクソブラック洗脳企業は、くだんのイカレた管理会社にキミの首を売ったのだ。管理会社から苦情の電話が入ったこともそうだが――キミの労災のことで労基署から調査の電話を受け、みなもと代表プレジデントとやらはキミへの強い逆恨みを抱いたに違いない。キミが地上の楽園と信じる輝かしき宗教集団は、キミを異物として排除する決断を下したというわけだ。これは俺の推測だが――管理会社のキチガイと、源というクソ経営者は、キミを疎ましく思う気持ちにおいて一致団結した。かたや治療費を請求され、かたや労災隠しを労基にタレ込まれかけた、その意趣返しをしてやろうというよこしまな目的においてな。――それがキミがここにいる理由だ」

 白山の長い語りは、学にはとても信じられないものだった。

 管理会社の人間の頭がおかしいというのは、まあ、学にも同意できる。だが、学ら全社員の尊敬を集める代表プレジデントが、そんな悪意で自分を嵌めようとするなんて――そんなことがあるはずがない。

 今朝、自分に退職を迫るときだって、代表は「自分は会社全体を守らなければならない」と言っていたではないか。代表はいつでも社員全員のことを考えてくれている人なのだ。経営者の鑑のような人なのだ。そんな代表が、管理会社の人間と共謀して自分を追い落とすなど――。

「キミはまだそんな寝言を言っているのか」

 学が継ぎぎのように語る言葉を、白山はぴしゃりと遮ってきた。

「源とやらが全社員を守る務めを果たそうと言うなら、なぜキミのことは守ろうとしない? 目を覚ませ、まなぶ君。キミは信じた職場に裏切られ、切り捨てられたばかりか、人間としての尊厳さえもけがされようとしているのだ。このままでいいのか。これ以上、お母上に心配をかけ続けるのか」

 母の話題を出されると、学も胸が締め付けられる思いがした。だが……。だが、自分の信じた会社は。代表プレジデントは……。

「一つ良いことを教えてやろう。このみなもと倫樹ともきとかいう経営者だがな――」

 白山がカバンから出し、ガラス越しに見せつけてきたのは、古い週刊誌の誌面をコピーしたような資料だった。

「十年ほど前、悪質な洗脳ビジネスで幾十人もの被害者を出した挙句、労基の捜査が入って会社は解散。本人は書類送検され罰金刑に処された上、民事でも多額の賠償請求をされ敗訴している。この記事の当時とは名字が変わっているので、キミの同僚の誰も気付いていなかったのかもしれないが――見ろ。この写真は明らかに源だろう」

 白山が指差す誌面を見た瞬間、ぐわん、と硬い何かで頭を横殴りにされたような衝撃が走った。写真の中で笑顔を浮かべている男の姿は、紛れもなく代表プレジデントに違いなかったのだ。

「いいか、まなぶ君。俺はこれまでに幾百幾千のブラック企業と渡り合い、また、この手で企業顧問として幾十ものホワイト企業を育て上げてきた専門家だ。この白山白狼はくろうの弁護士生命にかけて断言する。源という男は悪逆非道の犯罪者であり、特研ゼミナールという会社は唾棄だきすべき違法企業だ。キミが目を覚まさぬ限り、キミはこの後も際限なく親不孝を重ねることになる」

「……僕が、会社を信じていることが……親不孝だって言うんですか……」

 学の頭を占めるのは、もう母のことばかりだった。

 代表プレジデントの顔。平賀CKOの顔。先輩達と同僚達の顔。そして……生徒達の顔。会社で過ごしてきた、厳しくも生き甲斐に満ちた日々――そうであったはずの思い出を塗り潰す勢いで、今も病院にいるらしき母への心配が、学の脳内を侵掠しんりゃくする。

「まあ、先程言ったように、否が応でも今夜は泊まりになる。一晩ゆっくり考えることだ。何がキミとお母上の幸せであるかをな」

 そう言って白山は、静かに椅子を引き、ガラスを挟んだ学の目の前に立ち上がった。

「無論、法的にはキミは成人であり、お母上のご意思がどうあれ、キミはキミで好きに生きる権利があるわけだが――ここから先のことは、俺が言わずとも分かっていよう」

 白山はカバンを持って面会室から出ていく。学はその背中に向かって黙って頭を下げた。自分の涙がぽたりと眼鏡のレンズを汚し、視界が滲んでいく。


 ――学は優しい子だから、きっとどこへ行っても上手くいくよ。


 就活に苦戦していた頃、母が何気なく掛けてきた他愛もない一言が、なぜか今になって学の心の中をぐるぐると廻っていた。

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