第24話 急転直下

白山しろやま先生。助けてください」

 内田まなぶがホワイトウルフ法律事務所にアポ無しで駆け込んできたのは、前回の相談からちょうど一週間ほど経った日の午前中のことだった。今回は母親と同伴ではなく、松葉杖ももうついていない。そのかわり、彼はひどく焦ったような顔をしていた。

 志津しづが彼を白山白狼はくろうに引き合わせるやいなや、彼は白山に助けを求める一言に続け、「会社をクビにされそうなんです!」と叫んだ。先輩事務員のおばさんが、どうしたことか、と目を丸くしてこちらを振り返る。

 ちなみに、青梅おうめ弁護士は関西の裁判所で期日が入っており、一時間ほど前に出ていったばかりである。

「クビにされそう? 退職勧奨かんしょうがあったということかね」

 白山は熱心にパソコンのキーボードを打っていた手を止め、チェアから立ち上がっていた。

 学はビジネスバッグから一通の封筒を取り出す。自らそれを白山に渡しに行こうとする彼を、志津はそっと遮って、封筒を受け取り白山に手渡した。松葉杖はもう携えていないとはいえ、学の歩き方はまだケガした左足を引きずっており、見た目に痛々しい。

「ふむ。……シーズー君、これをどう見るかね」

「ええと」

 白山が一瞥しただけで突き返してきた中身の書面を、志津は注意深く見てみる。B5サイズの便箋に筆ペンで手書き。「内田学 右の者、本日をもって当社を懲戒解雇とする」――。簡潔な文章の末尾に、今日の日付、特研ゼミナールの社名、「代表取締役 源 倫樹」の署名。

「……これ、クビにされそうっていうか……クビにされてますよね」

 なんだ、よかったじゃないか、とは流石に言わないでおく。

「その解雇が法的に有効なものであるかは検討の余地があるがな。……まあ、まなぶ君、とりあえず相談室に入りたまえよ」

 志津に案内を指示してから、白山は例のごとく来客用のコーヒーを淹れに向かった。


「僕は今日まで頑張ってきたんです。こんなことで解雇なんて」

 白山がコーヒーを出し、志津の隣に座るやいなや、学は血相を変えてそう訴えてきた。いきなりそう言われても、「こんなこと」が何なのか志津にはわからないし、超能力者の如き慧眼を持つ白山にだってきっとわからないに違いない。

「まあ、まずは、解雇に至るまでの経緯を説明してくれたまえ」

 白山のもっともな発言に頷き、学は、とつとつと語り始めた。

 先週、母親とここを訪れた後、なんとか会社とコトを構えずに治療費を得る手段を必死に模索し、マンションの管理会社に責任を追及することを思い立ったこと。だが、管理会社の担当者からは逆に電話越しに怒鳴られ、けんもほろろの対応をされてしまったこと。

「……なんで素人が一人でやっちゃうかなあ」

 志津は思わずぼそりと呟いたが、白山に「黙って聴いていたまえ」と注意を受けてしまった。

 余計な口を挟んだこと自体は反省したが、専門家を間に入れずにそういうことをする学の行動は、志津にはバカだとしか思えなかった。なんのためにこの世に弁護士がいると思っているのか……。

「普通の弁護士さんに頼むお金なんて、ウチにはないので……」

 と、学はしっかり志津の余計な一言にも反応してくる。隣で白山がフンと笑い、「ウチは普通ではないからな」と自慢なのか自虐なのかよくわからないことを述べた。

「……それで、治療費のことはもう諦めるしかないかなと思って。でも、怖かったのは、その管理会社の人が僕の勤め先を知っていたことなんです。……今日になってわかったんですが、僕がポスティングしたチラシを、管理人が勝手に住人の人の郵便受けから抜いてたみたいで」

「ふむ。それで管理会社の人間がキミの勤め先に怒鳴り込み、キミの雇い主はいさかいを避けるためにキミの首を差し出したというわけか」

 白山が言うと、学は泣きそうな顔で頷いて、はい、と答えた。


 続けて学が語ったところによると、本日、わずか一時間ほど前に彼の身を襲ったのは、以下のような出来事であるらしかった。


 ようやく足のケガが完治に向かい、松葉杖なしで歩けると医者のお墨付きを貰った翌日――つまり、今日。

 学は、まだ勤務復帰の指示を受けてはいなかったが、自主的に特研ゼミナール本部校に顔を出した。もちろん、代表プレジデントと平賀CKO、そして迷惑をかけてしまった先輩や同僚達にいち早く挨拶をするためである。

 しかし、社長室の執務机に着席して彼を迎える代表プレジデントの表情は、いつになく険しかった。

 代表と、その隣に立つ平賀CKOに学が朝の挨拶をするが早いか、代表は、開口一番、学にこう言ったのだ。

「お前のことで、私はエステートアーバンさんに謝りに行ったぞ」

「えっ……」

 そんな事態になっているなんて、学には寝耳に水だった。管理会社であるエステートアーバンの担当者から電話で罵声を浴びせられた後、学は直ちにそのことを平賀に電話で報告していたのだが――平賀からは、「万一その管理会社から何かあっても、会社はちゃんと対応するから、お前は心配せずケガを治すのに専念しろ」と暖かい言葉をもらっていたのだ。

 だが、まさか管理会社との件で、代表が先方に謝罪するような展開になるなんて――。

「この件は、そもそもお前のポスティングが原因だそうだな。……あと一歩で、ウチはエステートアーバンさんから業務妨害で訴えられるところだった。なんとか誠意を見せて、勘弁してもらったが」

 苦虫を噛み潰したような表情で、代表は学を睨みつけてくる。

「で……でも、僕は、被害者側です。法律のサイトにも、こういうときは向こうが治療費を払うべきだと書いてあって――」

「お前の言い分なんかどうでもいいんだよ!」

 代表は大音声だいおんじょうで怒鳴った。たちまちすくみ上がる学に対して、代表はなおも鋭い口調で続けた。

「ウチは教育業だ。信用商売だ。もし、管理会社の担当者なり、管理人なりが怒って、お前やウチのことを悪く言う記事でもネットに出したらどうする。週刊誌にこの話が売られたりしたらどうする? ウチのような会社にとっては、最もあってはならないことだ。お前、ウチが何年もかけて築いてきた地域の保護者の信頼を、ガタ落ちにさせるつもりなのか!」

「……そ、そんなことは、決して」

 代表の怒りようは凄まじかったが、その叱責の意味は理解できた。平賀CKOも、代表の隣で軽く頷きながら学を見ている。

 ひどい失態を犯してしまった、と、学はこのとき改めて悟った。単にケガで休んで皆に迷惑をかけるだけならまだしも、自分が管理会社に連絡したことで、ここまでの事態になってしまうなんて――。

 しかし、それほど深く事態を反省した学にさえ、次に代表の口から発せられた一言は、あまりに予想外だった。

「会社としては、お前の解雇を考えている」

 ――えっ、と、一瞬意識が止まってしまう。

「だが、ウチの顧問の弁護士とも相談したんだが――解雇ということになれば、お前の次の職探しにも響くだろう。だから、お前が自主的に退職届を書くなら、穏便に自己都合退職ということで済ませてやってもいい」

 代表の言葉を耳ではしっかりと捉えながら、学は、この状況を全く現実と信じることができなかった。……解雇? マンションの管理会社に電話を入れただけで、解雇……?

「そ、そんな。どうして僕がクビなんですか」

 どうして僕が、あたりまで言ったところで、学の言葉は代表の隣に立つ平賀CKOの大声にかき消された。

「お前、代表プレジデントの恩情がわからないのか!」

 思わず身体がびくりとなる。平賀CKOがそんな風に声を上げるのを見るのは初めてだった。

「会社は、お前が労基署にコソコソ電話してたのも知ってるんだぞ。労基署から調査の電話があったからな。その時も 代表プレジデントは時間を割いて対応されていたし、管理会社の件だって、お前の尻拭いのために菓子折り持って謝りに行ったんだよ。お前、会社に恩をあだで返すようなことをしておいて、懲戒解雇にされずに済むだけ有難いと思えないのか? 社会人だろ。こんなときは自分から腹を切るのが当たり前だろうが」

「まあ、平賀、そのくらいにしておけ」

 代表は、先ほどの怒声が嘘のように、萎縮しきる学に向かってやんわりと言葉をかけた。

「私もお前が憎いわけではないんだ。だがな、私はお前だけじゃなく、会社全体を守らなきゃならん。わかるよな」


「ほう。それで結局、退職勧奨に抵抗したところ、このプレジデント様お手製の解雇通知を叩きつけられたというわけか」

「……そうなんです。退職届を書く用の紙を渡されて、僕がなかなか書けずにいると、代表プレジデントは大声を上げて、もういい、お前は解雇だ、と……」

 話すうち、学は完全に涙声になっていた。志津からすれば、そんな悪質な洗脳会社など、追い出してもらえてラッキーというくらいに思えるのだが……。ハタから見ていても、学の目は、未だに特研ゼミナールとやらの理念を信じ、プレジデントだのCKOだのいう連中のことを本気で尊敬しきっている信徒の目に見えた。

「ふむ……。解雇予告手当の話はあったのかね」

 白山はこんなときでも、法律的な要素をドライに確認することに専念している。

「……それは、CKOから軽く説明がありました。会社は確か、本来なら一ヶ月前に予告しないと社員をクビにできないけど、懲戒解雇は別だと……。僕のしたことについて会社から懲戒されたんだから、一ヶ月分の給料が本当なら貰えるのも、貰えなくなるんだと……」

「そんなことはないがな。そのクソ会社が労基署から除外認定を取り付ければ別だが……そもそもが平気で労災隠しをやらかすような会社だ、除外認定の申請などするはずもあるまい。状況を聞いた限り、懲戒解雇の合法性にも多分に疑問があるしな。それに、そもそも」

 白山は白スーツの腕をさっと伸ばし、学の左足を指差して言った。

「キミは労働災害による受傷の療養中だったのだろう。労働基準法第十九条の解雇制限というのがあってな。療養のため休業している従業員に対しては、いかなる理由での解雇も法で禁じられているのだ。それがたとえ懲戒解雇であろうともな」

「……そうなんですか」

「だから、キミが不当解雇を訴えて会社から賠償金を獲得するのは、実に容易いことなのだが……。どうも、キミの望みは、解雇を前提に金を取ることではなく、解雇を取り消させて会社に復職することのようだな」

 そう、それが志津にも不思議だったのだ。いくら宗教めいたブラック企業で洗脳を受けているといっても、限度があるのではないか。ここまでの酷い扱いを受けて、それでもなお会社にすがりつこうとするのが志津にはわからない。

 その疑問への答えを語るかわりに、学はとうとう目から涙をこぼして、白山に言った。

「先生。僕がクビにならないで済むように、僕が悪くないことを会社に説明してもらえませんか」

 だが、白山はそれにイエスとは答えず、黙って腕を組んで、何かを値踏みするように学の様子を見返すだけであった。……ややあって、その口が開かれる。

「正直、気乗りはせんな」

 その一言には志津も驚いた。白山がそんなふうに相談者を突き放すところなど、見たことがなかったのだ。

 そんな驚きを意にも介さぬように、白山は続ける。

「我々弁護士には、医師のような応召おうしょう義務はない。他の士業とも違い――受けたくない依頼は断る自由があるのだ。キミの勤め先を悪意の渦巻く魔窟と知っていながら、みすみすキミがそこへ戻る手助けをするようなマネは、俺には出来んよ」

 学の顔はみるみるうちに失望の色に塗り潰されていく。それを見ると志津も気の毒な気持ちになったが、実際、白山の言うとおり、無理やり彼の勤め先に解雇を取り消させたところで、その先に幸せが待っているとも到底思えない。

「先生……。ダメですか」

「無論、キミが目を覚まし、そのクソ会社に見切りを付けて、取るべき金をきっちり回収したいという気になったら、その時はいつでも依頼に応じよう。どちらがお母上のためになるか、よく考えることだ」

 母親のことを引き合いに出された瞬間、学はいっそう暗い表情になって俯いてしまった。


 失意の表情のまま事務所を後にする学を見送り、志津がなんとか暗鬱な気分を引きずらないように気持ちを奮い立たせて、その後の予約者の法律相談の見学や、昼食を挟んでからの事務仕事をこなしていると――。

 事務所の固定電話が、を響かせた。

 先輩のおばさんよりも素早く受話器を取ることを心がけている志津は、慣れた調子で電話に応答する。

「はい、ホワイトウルフ法律事務所です」

「あ、あの、内田でございますが……」

 内田姓の関係者などいくらでもいるが、この声の主が学の母親であることは一瞬でわかった。彼女はいつになく狼狽うろたえ、弱り切った声をしている。只事ではない、と志津は思った。

「どうなさいましたか」

「……息子が……息子が、け、警察に」

「警察ぅ!?」

 志津は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。途端に、白山がチェアを蹴るかのような勢いで立ち上がる。

 受話器を一旦手で塞ぎ、「学さんのお母様です」と志津が言うが早いか、こちらへ寄ってきた白山はさっと手を出して受話器を渡すように促してくる。

「代わりました、白山です。息子さんがどうされたと? ――ふむ。二時間ほど前。どこの警察署かはお聞きになりましたか? ……お母さんは今どちらに。病院? では、お母さんはどうぞ、そちらでしばらく安静に。私は急ぎ警察へ向かいます」

 通話を終えた白山は、眉間にシワを寄せ、志津に向かって言う。

まなぶ君が警察に逮捕されたそうだ」

 それは会話の流れから志津にも薄々わかっていたが、なぜそんな事態になったのかは全く見当もつかなかった。彼と勤め先とのあれこれは民事の領域の話だ。どれほど揉めようとも、警察が介入してくることなど有り得ないはずなのだが……。

「一体、何をやったんでしょう」

 自分のデスクへ向かっていた白山は、志津が何の気なしに発した一言に、キッと振り返る。

「シーズー君。キミも法律関係者なら、そうそう物騒な口の利き方をするものではない。逮捕勾留こうりゅう段階では、彼が何かを『やった』かどうかなど分からんのだからな」

「……すみません」

 そう、確か推定無罪の原則とかいうものが法律の世界にはあったはずだ。志津が自分の発言にバツの悪さを感じている間に、白山は早くもテキパキと外出の準備を整えている。

「ミドリさん、留守を頼めるかね。外出が長引くかもしれんが、時間が来たら電話を転送に入れて退勤してくれて構わない」

「いやですねえ、先生。わたしだってたまには残業しますよ。残業代と、延長保育の料金の補償、お願いしますね」

「承知した、すまない。……シーズー君、勉強したくば付いてきたまえ。彼と接見できるのは俺だけだが――見て学べることは多かろう」

 いやも応もなく、志津は白山について事務所を飛び出した。

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