第23話 責任の所在

 母親に連れられて白山しろやまとかいう弁護士の事務所を訪れた翌日。

 母親が弁当屋のパートに出ていった後、マンションに一人残されたまなぶは、わらをも掴むような思いで、ネットで調べた労働基準監督署という役所の窓口に電話をかけていた。

 会社に迷惑が及ばない形で、弁護士の言っていた労災だか何だかいうものから、ケガの治療費を支給してもらえるような方法がないか調べたかったのだ。

 しかし、話は学の望むようには進まなかった。

「療養補償の給付を受けるとなると、どうしたって会社さんに通知は入りますよ。そもそも労災は会社さんを通じて加入しているものですからねえ」

「なんとか、僕が個人として治療費を出してもらう方法はないんですか」

「うーん……ちょっとお待ち頂けますか?」

 電話が保留に切り替わり、どこかでよく聴いたようなメロディがスマホから流れるのを耳にしながら、学は考える。

 自分の勝手なケガの責任は自分で取るのが、社会人としての正しい姿だと平賀ひらがCKOは言っていたが……。

 そうしようにも、母ひとり子ひとりの内田家には余裕がないのだ。健康保険の範囲といっても治療費はバカにならない。会社を休んでしまう分は給料も減るのだし、今月分は皆勤手当の一万円だって貰えないということになる。こんなカツカツの状況にあって、どこかの公の機関か何かが治療費を出してくれるというなら、それほど有難い話はない。

 せめて、自分がもっと稼げる身分になれれば――とも思うが、今回の失態の件で、「教室長」の職位に上げてもらえる日はさらに遠のいたに違いない。母を楽にさせてあげられるのは、まだまだ先のことになりそうである。

 はあ、と自分の無力さを嘆いて学が溜息をついたところで、電話の相手が、先ほどとは違う低い声の男性に切り替わった。

「もしもし。内田さんと仰いましたか。お電話かわったんですが、お勤め先の会社名と所在地、ちょっとお教え願えませんかね」

「はぁ、会社は特研とっけんゼミナールで、住所は……」

 と、そこまで勢いで言いかけてしまったところで、学はふと悪い予感を覚えて言葉を飲み込んだ。電話の相手は、それを聞いて何をするつもりなのだ?

「内田さん。どうされました」

「……会社のこと聞いて、どうするんですか」

「いや、どうすると言いますかね。お話を聞いてる限り、あなたのお勤め先の会社さん、労災隠しをやってるんじゃないかと思うんですよ。仮にそうだとしたら違法案件ですからね、ちゃんとお話を聞かせてもらわなければと思いまして」

「……いや、僕は、そういうんじゃないんです。スミマセン」

 この会話が途端に恐ろしくなって、学は慌ててスマホの通話終了ボタンを推してしまった。電話が切れたのを見て、かたかたと震える手で、彼はスマホを握りしめる。

 ――あの白山とかいう弁護士と同じだ。労基署とやらの人も、やっぱり会社を悪者のように言うのだ。

 学はこれで一つのことを悟っていた。どうやら――労災とかいう仕組みを使って治療費を貰うためには、どうしたって会社を悪者扱いして敵対しなければならないということ。

 もちろん、そんなことができるはずがない。ただでさえ自分がケガをしたことで迷惑をかけてしまっているのに、この上、会社に楯突くようなマネができるはずがない。

 しかし、現実にお金の問題をどうすればいいのか……。学は悲観にくれた気持ちでスマホの真っ黒な画面に目を落とし、指で画面をタップしてネットのブラウザを表示させ、検索バーに「治療費 支給」などと入れて検索してみる。

 健康保険ガイド、協会けんぽ、医療費の払い戻し――など、学の事情とは関係ない情報ばかりがズラズラと出てくるが……。その中にひとつ、「法律ドットコム」というページの気になるQ&Aがあった。それは、社用車との交通事故で受傷した分の治療費を、車を運転していた本人ではなく雇い主の会社に請求する方法について書かれたものだったが――、弁護士による解説文を読んでいるうち、学の頭にふと閃くものがあった。

 そうか。あのマンションの管理会社に治療費を請求すれば……。

 「法律ドットコム」のページに弁護士が寄せている解説文によれば、人に危害を加えられてケガをした場合、相手方はその治療費や休業補償などを支払う民事上の責任とやらを負うらしいのだ。そして、どこかの会社の従業員が仕事上のことで起こした事案については、本人に代わって会社にその責任を肩代わりさせることができるという。

 学のケガは、明らかにあの管理人に腕を引かれたことで起きた事故によるものなのだから、この理屈によれば、管理人を雇っている管理会社が、学の治療費を出す責任を負うということになりそうだ。

「そうか。これなら……」

 学の頭には、それはとても良いアイデアであるように思えた。

 この方法ならば、労災を使うのと違って、学の勤め先には迷惑がかからずに済む。管理会社に治療費を請求するにあたり、自ら勤め先を明かすようなことをしない限り、管理会社から特研ゼミナールに連絡が行くようなことにもならない。

 学は早速、スマホのネットであのマンションの名前を調べ、情報を辿って、管理会社の社名と電話番号を見つけ出した。緊張を抑えながらその番号をプッシュすると、呼び出し音が一回鳴るか鳴らないかの間で、すぐに受付の女性らしき声が応答した。

「エステートアーバンでございますが」

「あの……」

 どう話すか迷いながらも、学はあのマンションの名前を出し、お宅はそこの管理会社ですか、と尋ねた。

「少々お待ち下さいね。……はい、確かに私どもの管理物件ですが」

「あの、実は……僕、先日、そこの管理人さんにバイクを倒されて、ケガをしてしまって。……あの、法律サイトを見たら、こういうときは、そちらに治療費を出す責任があるっていうのを見たんですが」

「マンションの管理人とのトラブルですか……? 担当者が今居るか確かめてまいりますので、少々お待ち頂けますか」

 はい、と学が答えるのが早いか、相手の女性はすぐに電話を保留に入れた。保留中のメロディは、労基署の電話と同じ、よく聴くけど曲名を知らない音楽だった。

 ややあって、女性が再び電話口に現れる。

「申し訳ありませんが、現在、担当者が留守にしてまして。後ほど折り返しさせますので、お名前とご連絡先を頂けますか」

「はあ」

 名前と電話番号までなら大丈夫だろうと思い、学はそれらを正直に伝えた。どの道、治療費を支払ってもらうのならば、こちらの名前を伏せたままとはいかない。会社に迷惑さえ掛からなければそれでいいのだ、と学は考えていた。

「では、内田様。担当者が戻り次第、ご連絡させますので」

「お願いします」

 電話を終えて、学は少しホッとした気分になっていた。これでお金のことは何とかなるかもしれない――。

 少し肩の荷が下りた学は、母親がパートから戻る夜までに会社の課題を仕上げておこうと思い、読みかけだった新書サイズの本を開いた。

 会社から貸し出された本を読んで読書感想文を書くこの課題は、学にとっては楽しい気分転換の時間だった。ノルマとしては二週間に一冊読めばよいことになっているが、学は自発的に、週一かそれ以上の頻度で感想文を提出していた。本を読むのは元から好きだったし、学生時代には触れてこなかったビジネス系、自己啓発系の本に多く触れることができるのも貴重な経験だった。

 いま学が読んでいるのは、カー用品店の大手チェーンの創業者があらわした、トイレ掃除へのこだわりを綴った新書だ。自分達の職場を自分達の手でピカピカにする――それを大企業の社長が自ら何十年も実践し続けていたというのは、感銘を受けるエピソードだった。特研ゼミナールの代表プレジデントも、日々、教室掃除の大切さを学ら社員に説いているが、そもそも代表の理念に強い影響を与えたのが、この創業者の著書であるらしい。

 昨日、法律事務所の女性事務員には、特研ゼミナールが学習塾として凝らしている工夫の数々を「別に斬新でも何でもない」と言われてしまったが……仮にそうだとしても、ウチの会社の素晴らしさは、単に塾のシステムの良さだけではないのだ。代表プレジデントの崇高な志や、厳しくも暖かい配慮が隅々まで行き届いているからこそ、ウチは社員も生徒もアルバイト講師も活き活きと笑い合える学習塾たりえているのだ。

 早くケガを完治させて職場に復帰しなければ――と、学は読書に没入する意識の片隅で強く思っていた。


 だが、そんな学をまたしても失望の淵に叩き落とす出来事が、母親との遅い夕食時に起こった。

 母がいつものようにパート先から持ち帰った惣菜を並べ、学が片手に松葉杖をついて食卓に着いた、まさにその時。学のスマホに、知らない携帯番号からの着信が入ったのである。

「……あ、管理会社の人かも」

 母に断って、学は通話に応答する。その途端、彼の耳に飛び込んできたのは、凄い剣幕で怒鳴る男性の声だった。

「お前、なんかウチに下らんイチャモン付けてきてるらしいな!」

「え……あの、何のことですか」

 相手の勢いにビビりつつも、学は問い返す。

「何のことだと? お前、特研ゼミナールとかいうトコのビラ配りだろ。管理人から話聞いたからな! お前がマンションの敷地に勝手に立ち入って、禁止されてるチラシの投函をしたんだろうが。それで何だ、治療費だか慰謝料だかを払え? ふざけたイチャモン付けてんじゃねえぞ!」

 男性の怒鳴り声は当然、母にも聴こえる音量でスマホから漏れており、母はたちまち青白い顔になって心配そうに学を見てくる。学自身もまた、相手の乱暴な口調におののきながら、しまった、と思っていた。

 受付の女性の対応が常識的だったので、つい安心してしまっていたが――この管理会社は、そうか、こういうところだったのか。

「あ……あの」

 それでも、かつて平賀CKOから教わった切り返しの一言を必死に思い出し、学は言う。

「チラシを投函させて頂いているのは、こちらの会社の正当業務行為なので、不法侵入ということにはならな――」

「うるせえ! 禁止って書いてあったら禁止っつうのはガキでも分かるだろうが、お前小学生か!?」

「……あの、でも、現に管理人に手を出されてケガを」

「なんだお前、ウチを脅す気か? いいぞ、こっちは、いつでも出るトコ出てやるぞ。お前の勤め先に、お宅の社員がウチを脅迫してきてるんでどうにかしろ、って苦情入れてやるからな!」

 そこまで言い終えたところで、相手は勝手に電話を切ってしまった。

 ダメだ、全く話の通じる相手ではない――。

 目の前で全てを聴いて、「学、また面倒事に巻き込まれるんじゃないだろうね」と悲痛な面持ちで心配してくる母に、学は「まあ……」とどうともつかない答えを返す。

 あのぶんでは、管理会社に治療費を請求するなど到底無理そうだった。それこそ弁護士でも間に入れれば何とかなるのかもしれないが、弁護士に頼むような金があるのならそもそもこんな治療費なんかで困ったりはしない。

「……」

 と、そこで学は恐ろしいことに思い至った。

 ――今の電話の相手は、「特研ゼミナールとかいう所のビラ配りだろ」と言っていなかったか。なぜ社名を知っているのだ……?

 学の背に、ぞわり、と悪寒が押し寄せてきた。

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