第22話 信徒

 息子がおかしな企業に洗脳されている――。

 そう切実に訴えていた痩せぎすの女性が、当の息子本人を伴って再びホワイトウルフ法律事務所の門を叩いたのは、志津しづの小説執筆がいよいよ佳境に差し掛かっていたある日のことだった。

 あらかじめ電話で来所の予約を受けた時点で、雇われの青梅おうめ弁護士は、当事務所の所長たる白山しろやま白狼はくろうに相談への同席を依頼していた。もちろん青梅とてただの下っ端ではなく、独立して業務を行う一人の法曹ではあるのだが、特に厄介と思われる案件については青梅の受けた相談に白山が関わることは珍しくないらしい。

 志津もまた面談への同席を許されていた。その間は先輩事務員のおばさんに書類仕事や電話対応を任せることになってしまうのが申し訳なかったが、おばさんは「志津ちゃんの貴重な勉強の機会でしょ」と笑ってくれる。彼女に感謝しながら、さあ、小説のために良いネタをもらうぞ――と意気込んで、志津は弁護士二人とともに来客を迎える。

 約束の時間の三分前。疲れきった顔の母親に連れられて、内田まなぶは、志津の想像を超えた悲惨な姿でホワイトウルフ法律事務所の入口に姿を表した。

 ラフな半袖シャツ姿に、ガリ勉の印象を強く与える眼鏡。それより何より目を引くのは――彼の左足に巻かれた白い包帯と、二本の松葉杖。

「これは……重傷を押してよく来られた。お見舞い申し上げる。当事務所の所長、白山白狼はくろうです」

 朗々と発せられる白山の挨拶に対し、「所長先生、どうか息子を」と取りすがるように頭を下げる母親と、「どうも……」と力なく声を発するだけのまなぶの姿は対照的だった。

 志津は、彼がブラック企業に洗脳されきっているという母親の話を思い出し、彼の心中しんちゅうを想像してみる。会社の洗脳に心の底から染まりきってしまっているのなら――母親が必死に説得したところで、この事務所を訪れること自体、彼は嫌がったのかもしれない。だとすれば、彼が結局ここに来ることを選んだ理由は、やはり足のケガが関係しているのだろうか。

「相談室へどうぞ。足元、お気をつけて」

 そう言って、志津は親子をパーテーションで区切られた相談ブースへと案内する。母親には二度目の、息子には初めてとなるその場所へ。

 来客二人が着席すると、まず白山が彼らの向かいの席に着き、志津はブースの隅のチェアに腰を下ろした。青梅を含めた全員で囲むにはテーブルは狭すぎる。その青梅は来客用のコーヒーを淹れに行っていたが、それは彼が白山に雇われている身であることとは関係なく、この法律相談を最初に受け持ったのが彼だからである。

 青梅が母親と息子のコーヒーを携えて戻り、白山の隣に着席したところで、母親は息せき切って訴えはじめた。

「息子は……息子は仕事中にバイクが倒れてケガをして、それで、会社に治療費も出してもらえないんです! それどころか、会社から理不尽に怒られて、出勤できない日数分は給料をカットするとまで言われてるんです」

 母親はまさに必死の形相で二人の弁護士の顔を交互に見ているが、当の学自身はずっと俯き加減のまま、困ったように目を泳がせていた。

「奥さん、どうか、落ち着いてください。順を追ってお聞きしますので」

 と、青梅が宥める口調で場を仕切る。白山と視線を交わし合うような素振りを見せてから、青梅は続けた。

「息子さんの事故は、業務中にあったものというのは、間違いないんですね」

「ええ。この子は朝からビラ配りをさせられていたんです。それで、マンションの変な管理人と揉めて、バイクを無理やり倒されたらしくて――」

「これは僕が悪いんだ」

 そこで初めて学が意味のある言葉を発した。顔をまっすぐ上げないまま、それでいて母親の説明を強引に遮るように、学は誰にともなく言う。

「僕が、大事な仕事中にケガなんかしてしまうから……。僕が休むことで会社に迷惑がかかってる。働いてない日の分は給料が出ないのなんて、当たり前じゃないか」

 ハタから聞いていて、志津は学の言葉に強烈な違和感を覚えていた。松葉杖をつくほどのケガをさせられたというのに、会社にかかる迷惑の方が心配なのか。なるほど、これは確かに、洗脳されているという気がする――。

「内田さん、それは違いますよ」

 青梅が、はっきり息子の方を向いて言った。

「あなたのケガが職務遂行上のものであれば、会社は労災保険というものを使って、あなたの治療費を補償しなければなりません。治療のために仕事を休業しているのであれば、その最初の三日間については平均賃金の六十パーセント以上を支払う義務もあります。四日目以降は労災保険からの休業補償になるのですが――会社は、労災のことについて何か言っていませんでしたか」

「ローサイ……いえ、何も聞いてないです。ただ、CKOに言われたのは、自分のミスの責任を自分で取るのは社会人として当たり前だから、間違っても会社に尻拭いをさせるようなことがあってはいけないと……。本当はケガのこと自体、プレジデントに知られるべきではなかったんですが、思った以上に重いケガだったせいで、結局会社全体に迷惑をかける事になってしまって……」

「ええと。何ですか、CKOというのは」

「最高知識責任者の平賀さんです。プレジデントに次ぐ地位の方です」

「弁護士先生、息子の会社はおかしいんですよ! 聞いたことありますか、こんな小さな会社で、プレジデントだの、Cなんとかだの……。今、先生方に言ったようなことを、息子はわたしの前でも言うんです。責任、責任って……。こんなケガをした時にまで……」

「まあ、まあ、奥さん、どうか落ち着いて」

 青梅が母親を宥めにかかる隣で、白き狼は、ふいにさらりと言い放った。

「労災隠しか。明確な違法案件だな」

 違法、という言葉に、学の眉がぴくりとつり上がったように志津には見えた。

「お母さん。息子さんをブラック企業の魔の手から救い出したくば、直ちに我々に受任させることです。さすれば、すぐさま証拠を揃えて労基署に乗り込み、この常軌を逸した状況を打破してしんぜよう。通常の補償に加え、お望みとあらば慰謝料も――」

「やめてくださいよ!」

 バン、と突然大きな音がしたのは、学が両手でテーブルを叩いたものだった。ガリ勉眼鏡のレンズ越しに白山をキッと睨みつけて、学は、先程までの様子からは信じられないほどの大きな声で反論を口にする。

「会社と争うようなことは、したくないんです。僕は、補償だとか何だとか、そんなの望んでません」

「でも、まなぶ――」

「母さんは心配しすぎなんだよ! ……弁護士さん、母はウチの会社のことを知らないから、こんなことを言うんです。でも、僕はこの会社で成長したいんですよ」

 学の目は本気であるように見えた。そう、彼は――

「ふむ」

 白山は腕を組み、しばし考え込むような素振りを見せてから、ふと学に向かって言った。

「世の中には数多の働き口があり、教育関係に限っても無数の企業が存在しているわけだが――キミは今の勤め先の何をそんなに気に入っているのかね」

「それは……何よりプレジデントの人格と、教育者としての方針に惹かれてですよ。それにやっぱり、平賀CKOの存在も大きいです。CKOは、僕ら一般社員から見ると雲の上の人ですけど、兄貴分みたいな感じで僕らに接してくれることもあって――」

 学の語りを聞きながら、志津は呆れるのを通り越した恐怖さえも覚えていた。平賀CKOとやらがどんなキャラの人物なのかは知らないが、ケガをした社員に向かって「会社に尻拭いをさせるな」などという酷い言葉を平気で掛けられるような人間のことを、学やその他の社員は本気で敬愛しているというのか。

 ありえない、と突っ込みたい気持ちをぐっと抑え、志津は白山と学のやりとりに傾聴する。

「例えばその平賀氏とやらが会社に居なくなったらどうか。キミは会社に残るのかね、それとも平賀氏についていくのかね」

「……そんなの、想像はできませんが……。でも、プレジデントの作られた塾のシステムがあってこその、ウチの会社だと思うので、やっぱり会社に残ると思います。僕は、この塾の仕組み自体にも未来を感じているんです。こんなに工夫の行き届いた学習塾は、他にないと思いますし」

「ほんとに?」

 思わず志津は声を上げてしまった。他のことなら我慢して聞き流せても、今の一節は聞き捨てならなかった。

 おっと、と口元を抑える志津に対し、白山が「何かね」と発言を許すような空気で言ってくる。青梅も誰も咎めはしないので、志津は学に問いかけを続けることにした。

「その塾の仕組みって、例えばどんなのなんですか?」

「……あの、個別指導の塾って、生徒が宿題をやってこないのが悩みのタネなんですよ。あ、個別指導っていうのは、一人の講師に三人くらいの生徒を――」

「知ってます。それで?」

「……普通だったら、生徒が宿題をやってこないのは野放しじゃないですか。講師も学生バイトだから、そこまでの指導力は期待できないし……。でも、特研とっけんゼミナールでは、塾の授業の時間以外に、週にもう一コマ、自習に来る時間っていうのを設けてるんです。塾の自習室って、自由に利用可能ってことにして開放してても、なかなか来ない子は来ないんですけど――ウチでは、生徒一人ひとりに、有料の授業一コマにつき無料で一コマ、この自習室に来る時間を設定してあって」

「はあ。つまり生徒には『何曜日の何時は塾に来る時間』と意識させることでサボらず自習に来させることができて、宿題もそこでやらせちゃえると。保護者に対しては『一コマ分の授業料で二コマ分の指導』ってセールストークが使えるってわけね」

 学の言いたいことをさらっとまとめて志津が言ってやると、学はぽかんと間抜けそうに口を開けて彼女を見返してきた。

「なんというか、単純。え、あなた、その程度のことが斬新な工夫だと思ってるの? そんなのわたしが学生時代のバイト先で独自に思いついてやってたわよ。他には?」

「え……あ、あの、その自習室にはもう一つ工夫があって。個別指導って、生徒と講師の相性が大事じゃないですか。合わない先生を変えて欲しいってクレームもよくありますよね。でもウチでは、新人のバイト講師にはまず自習室の机間きかん巡視だけを担当させて――」

「そこで生徒と上手くコミュニケーションを成立させて、生徒自身のお墨付きを得られたバイトだけが個別指導の授業を受け持てるっていうんでしょ。単純。誰でも思いつく。次」

「あ……ええと、生徒が塾に来るたびに、お菓子とスタンプを――」

「来塾一回ごとに小さいお菓子をあげる。来塾何回目かで大きいお菓子をあげる。ポイントが溜まったら好きな賞品と交換。どこでもやってるっていうの」

「せ、生徒の弟や妹に」

「小学生無料授業? その子達が学年上がって正規に入塾してくれたら万々歳よね。後は?」

「……そんなところです」

 撃ち出す全弾を志津に迎撃されたことで、学はすっかりシュンとなって、また力なく俯く姿勢に戻ってしまった。横から母親が「ほら、やっぱり、その会社だけが特別なんてことはないのよ」と声を掛けている。

 志津からすれば、バカじゃないの、の一言だった。保護者に対するセールストークとして「斬新なシステム」を謳うのは勝手だが、こんな、学生時代の自分でさえ当たり前に考えてバイト先に提案していたような初歩的な工夫を、社員ら自身が本気で斬新なものだと思い込まされているのなら――もう、洗脳というか、ただのバカである。

「まあ、特研ゼミナールとやらが学習塾として優れているのかはともかく――」

 白山が全てを締めくくるように言った。

「その実態が違法なブラック企業そのものなのは間違いない。まなぶ君、キミがひとたび依頼に踏み切るならば、我がホワイトウルフ法律事務所の総力を上げてキミの現状を救済すると約束しよう」

「……だから、僕はそういうのはいいですって」

「無論、これは仮の話だ。今はその気になれずとも――いつかキミが救いの手を求めたくなった時、思い出してくれればよい。我々は常に、ブラック企業に苦しめられる全ての被害者の味方であると」

「白山先生、青梅先生、どうかその時はよろしくお願いします」

 母親が深々と弁護士達に向かって頭を下げるのが、なんとも痛々しい。

 結局、最後までまなぶ本人は、勤め先をブラック企業だと認めることも、白山らに救いを求めることもないまま、松葉杖をついて母親とともに事務所を後にした。

 この件はこのままでは終わりそうにない。きっと何かが起こる――と、志津は根拠もなく予感していた。

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