第21話 最上級の奴隷

 若手社員の内田まなぶから電話が入ったとき、平賀ひらがはオフィスでパソコンに向かい、新しい求人広告の原稿を打っているところだった。ナビルート社の求人情報サイトに掲載する中途採用の原稿だ。

 中途採用は、CKO――最高知識責任者の自分が責任を持って成し遂げなければならない大事な仕事だ。その原稿をナビルートの代理店の営業マンなどに任せるわけにはいかない、というのは代表プレジデントから下りてきている建前ではあるが、なんのことはない、外部に支払う僅かな手数料を惜しみたがるあの代表オヤジの方針を平賀はよくわかっていた。

「もしもし」

 パソコンのキーボードを叩く手を止め、平賀はまなぶからのスマホの着信に応答した。即時のホウレンソウを徹底せよと社員に教育している手前、上に立つ自分が電話に即応しないということは避けたい。

「お疲れ様です、CKO」

 電話越しの学の声は、どこか狼狽しているような息遣いを纏っていた。

「どうした?」

 平賀は努めて優しく聴こえるように聞いた。学は、泣きそうな声で、「申し訳ありません」と言ってくる。

「ポスティング中に、バイクで転倒しまして……。職務中に申し訳ありませんが、一応、病院へ行ってもいいでしょうか」

「バイクで転倒? ケガは?」

 問いかけを発しながら、平賀は、この質問はちょっと間抜けだったなと自省する。病院へ行っていいかと尋ねてくるということは、救急車で運ばれる程度の負傷ではなく、さりとて無傷でもないという程度なのが分かりきっているではないか。

「その……左足がバイクの下敷きになりまして……かなり痛みます」

 学の辛そうな声を鼓膜にとらえつつ、平賀が考えていたのは、どうすれば代表プレジデントの機嫌を損ねない形でこの件を丸く収められるかということだった。

 今はまだ朝の十時過ぎ。幸い、代表が会社に出てくるのは、早くても小学生の授業が始まる十五時台だ。昼までの内に病院で応急処置なり検査なりを済ませ、勤務に復帰させれば、学がヘマをやらかしたことは代表に伝わらずに済む。

「わかった。どこか最寄りの病院に寄って、授業時間までに戻ってこい。今日の分のポスティングはもういいから」

「ありがとうございます!」

 絶望を喜びに変えたような学の声に、やれやれと内心で溜息をつきながら、平賀は通話を終える。

 自分のほかに誰もいないオフィスで、ふうと一つ息を吐き、平賀はコーヒーで一服することにした。紙コップにインスタントの粉で淹れるだけの安っぽいコーヒーだ。給湯室でヤカンを火にかけ、平賀は学の負傷の件について考えを巡らせる。

 あの代表オヤジは、自己責任によるミスには極めて厳しい人間だ。もちろん、新入りの下っ端であればあるほど、ミスをやらかした際の代表の機嫌の損ね方も大きい。そして、バカな社員が犯した失態は、そのまま上司の自分の責任ということにもなるのだ。

 ゆえに、この件は代表には隠し通さなければならない。まかり間違っても、学の勤務中の負傷を会社が公式に認め、労災だ何だという話に発展する事態だけは避けなければならない。仮にそんなことになれば、代表はためらいなく学をクビにするだろうが――その時には、CKOたる自分の評価さえも危うくなる可能性がある。

 平賀はしゅうしゅうと音を立てるヤカンをぼんやり見つめながら、自分もまたブラック企業の奴隷であることを強く噛み締めていた。

 親ほども年上の者も含め、全ての社員の上に君主のごとく君臨することを許されている平賀だが――その彼とて、実態は、代表プレジデントという造物主のもとで役目を果たす一つの歯車に過ぎない。社員の誰も表立って口にしないことではあるが、平賀自身はそのことを日々いやというほど思い知らされている。

 CKOなどと大それた肩書をもらっていても、自分はこの会社の取締役に任じられているわけでもないし、厳密にいえば「正社員」として雇用されているのですらない。我が特研とっけんゼミナール株式会社は、自分を含めた全従業員につき、雇用契約を一年限りで締結して毎年更新していくという形式を取っていた。世の中的に言えばこれは「契約社員」の形態にあたるわけだが、社員にはそのことを説明していないため、おそらく社員の大半は己が正社員雇用されているものと信じ込んでいるはずだ。学のように新卒でこの会社に入った者はほぼ確実にそうであろう。

 こんな詐欺求人スレスレの――いや、のやり方で人を雇っているのは、ひとえに、都合の悪くなった従業員はいつでも切り捨てられるようにしておきたいという代表プレジデントの悪知恵の賜物にほかならない。それはCKOの自分とて例外ではないのだ。

 ヤカンに沸いた湯を紙コップに注ぎ、平賀はそれを持ってデスクへと戻った。

 不味い粉コーヒーを一口すすって、平賀は作りかけだった求人原稿のテキストにちらりと目をやる。「自己実現が叶えられる職場」「のれん分けを目指して経営者思考を身につけられます」――彼自身が代表プレジデントの好みに合うように作ったフレーズだが、そんなものが嘘っぱちであることを彼は知っている。だが、それが嘘ではないと信じ込んでいる演技を、自分は代表に対しても社員達に対しても貫かなければならない。

 難儀な仕事ではあるが――そうして上手く代表オヤジの機嫌を取り、哀れな社員達の上に君臨しているだけで年俸一千万円を超える報酬が得られるのであるから、ブラック企業さまさまだと平賀は考えていた。二十八歳の若さでこれほどの幸運な立場を手にしている者は、この世にそうそう居ないであろうとも。

 そう、少なくとも平賀自身の自覚する限りにおいて、自分が学のような本物の奴隷達よりも遥かに上等な奴隷で居られるのは、ごく僅かな自己アピールの才能と、多大な幸運に支えられてのことに違いなかった。新卒で就職したWEB関係の大手代理店の仕事につまらなさを感じ、調子に乗って登録してみた「エグゼクティブ向け」を謳う転職エージェントサービスが、その時ちょうど特研ゼミナールを立ち上げようとしていた代表プレジデントと自分をたまたま引き合わせてくれたのだ。代表はたまたま「若くて切れ者なCKO」をを探しており、自分はたまたま、人の上に立って見栄を張れる仕事を探していた。その奇跡の出会いがあったからこそ、度を超えて恵まれた今の自分の生活がある。

 だから、自分は、代表から見限られるわけにはいかないし、このクソみたいな宗教会社を潰れさせるわけにもいかない。この居場所がなくなったら、偉そうぶることだけが取り柄の自分のような若造に年俸一千万円を弾む会社など他には絶対にないと分かりきっているからだ。

 学のやつには、どうあっても、労災を使いたいなどと言い出さないように上手く言いくるめなければならない。いや、そもそも労災という言葉が彼の頭に浮かぶこと自体あってはならない。仕事中のミスの責任を自分自身で取るのがいかに社会人として重要であるかを説き、学が納得して治療費を自分で出すように持っていかなければならない。

 正直、学を可哀想だと思う気持ちがないわけではなかったが――仕方がない。自分のような幸運に巡り会えず、奴隷の中の奴隷に甘んじてしまった彼が悪いのだ。

 この世には所詮、搾取する者と搾取される者しか存在しない。自分でも月並みすぎる言葉だとは思うが、平賀はいつもその教訓を思考の中心に置いていた。会社が学らを冗談のような薄給でこき使い、ビラ配りの外注費や求人広告の原稿料すらも惜しむような経営方針を貫いてくれるからこそ、自分の年収一千万がある。まこと、この世はブラック企業さまさまではないか――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る