第20話 転倒事故

 朝の日差しが差し込む特研とっけんゼミナール本部校オフィス。窓の下の街路には、ちょうど学校へ向かう小学生達の賑やかな話し声が溢れている。

 その声を塗り潰すかのごとき勢いで、まなぶら若手社員は、いつものように一斉に声を張り上げた。

CKOシーケーオー、お早うございます! 本日も宜しくお願いします!」

「お早うございます。本日も宜しくお願いします」

 ぱりっとしたスーツに身を包んで学達に返礼するのは、特研ゼミナールの若きナンバー2、平賀ひらがCKOだ。二十八歳の若さで代表プレジデントの片腕役を務め、都内に二十以上展開する全教室のスーパーバイザーとして運営指導にも当たっている、社内で二番目に尊敬されるべき人物である。

 そんな雲の上の立場にありながら、茶目っ気を交えて「イケメン」を自称し、気さくな笑顔で社員達に微笑みかけてくれる彼は、まさしく学達の憧れの対象であった。

「特研ゼミナール社訓、唱和」

「はい!」

 平賀の号令に学達は大声で返事をする。どんな時でも返事は元気よく、というのは、ここに入社したときに学が真っ先に教えてもらった社会人の心得である。

 入社から一年以上が経ち、学は、ようやく自分も一人前の社会人の仲間入りをしてきたという気がしていた。それでも先輩達に比べると、まだまだではあるが――。

「一つ! 我々は国家の未来を支える功労者たらんと心得る!」

「一つ! 我々は地域に感謝される奉仕者たらんと心得る!」

「一つ! 我々は生徒の夢を育む教育者たらんと心得る!」

「一つ! 我々は己を厳しく律する勤労者たらんと心得る!」

 四つの社訓を大音声だいおんじょうで唱和し終えると、学達は平賀に「ありがとうございます!」と叫んで深々とお辞儀をする。これは、立派な社会人であるための素晴らしい人生訓を教えてくれたことに対する感謝の表明である。本来はこの社訓を書いた代表プレジデントに対して行うべき儀礼であるが、不在のときは、その名代みょうだいである平賀CKOに礼を述べればよいことになっていた。

 学生時代から塾の仕事に携わってきた学としては、社訓の三つ目、「生徒の夢を育む教育者」という部分が特に気に入っていたが――そのことは平賀や他の社員の前で口にしてはならないので、そっと胸の内に仕舞っていた。なぜ口に出せないかといえば、社員は四つの心得全てを同時に意識することが大事なのであり、どれが一番好きだなどと差をつけることは許されないからである。


 朝の挨拶を終えると、学達は早速、今日の分のポスティングに取り掛かる。

 ポスティングとは要するにビラ配りだ。業者から大量に印刷されてくる入塾案内のチラシを、学ら社員が自らの手で該当地域の個人宅やマンションの郵便受けに投函していくのである。

 よその塾では、ポスティングの作業を外部の業者に委託しているところもあるというが、こうした大事なことを他人任せにするのは良くないというのが代表プレジデントの教えだった。

 我々教育者が、まだ見ぬ大事な生徒と直接繋がる手段、それがポスティングである。また、このチラシを一枚印刷するのにだって、会社の大事なお金がかかっている。その重みを噛み締めるためにも、チラシは一枚一枚自分達の手で投函しなければならないのだ。

「行ってまいります!」

 他の社員達と同時に声を張り上げ、学は大量のチラシを入れた紙袋を持って本部校を出た。

 バイク通勤をしている学には、自転車で通勤する同僚達よりも遠くの担当エリアが割り当てられている。学はヘルメットをかぶって愛車の原付スクーターに跨り、エンジンをかけたところで、燃料メーターの針がもうカラに近い位置を指しているのに気付いた。ポスティングの途中でどこかガソリンスタンドに寄らなければならない。

 日々の通勤や校舎間移動、そしてこうしたポスティングのたびにかかるバイクの燃料費だって、まだ低い学の収入ではバカにならないが……そこに不平を言ってもいられない。多くの社員が自転車を漕いで仕事をこなしている中、学は特別にバイクでの移動を許されているのだから。

 もっと学生時代に体力を付けておけばよかったな――などと思いながら、チラシの紙袋を両足の間に挟み、右手のアクセルを回して、学はスクーターを発進させた。


「こら、アンタ、チラシは禁止って書いてるだろうが!」

 既にいくつかの大規模マンションを回り終え、学が新たなマンションの集合ポストでチラシの投函に勤しんでいると、常駐していたらしい初老の管理人が怒り顔で声を上げながらずかずかと近付いてきた。

「スミマセン」

 ポスティングをしていればよくあることだ。マンションの管理人に噛み付かれたら、長居せず退散するように、と学ら社員は教わっている。そして、そのマンションの所在地や名前を記録しておき、今後ポスティングに立ち寄ってはならない「ブラックリスト」に入れるのだ。

 教育者たるもの、地域住民との間に軋轢を生じさせて信用を損ねるようなことがあってはならない、というのは代表プレジデントの大事な教えの一つである。

「スミマセンじゃないだろう、どこのモンだ。そのチラシ一枚寄越せ、会社に文句言ってやる」

 マンションの管理人が無理やり手を伸ばして学からチラシを奪い取ろうとするので、彼は慌てて身を引き、バイクの停めてある路上へと走った。

 無断でポスティングをしているこちらもマナー違反かもしれないが、この管理人の怒り方はちょっと常軌を逸している。関わり合いになれば会社に迷惑がかかってしまう。

 学は大急ぎでスクーターに跨り、ヘルメットをかぶって愛車を発進させようとした。だが、惜しくも間に合わず――その場に追いついた管理人が、怒りの形相で彼の左腕を掴んでくる。

「ちょっ、やめてください」

「勝手にビラ撒きなんぞしおって、お前どこの会社のモンだ! 名乗れ!」

 あまりの勢いに恐怖さえも感じ、学は左腕を掴まれているのも構わず右手のアクセルを捻った。さすがにスクーターが動き出せば管理人も手を離すだろうと思ったのだが――それが甘かった。

「あっ」

 左腕を引っ張り続ける管理人の力と、緩やかに発進しようとしたスクーターの動きが噛み合わず――学の身体は、たちまちバランスを崩す。咄嗟にアクセルから右手を離したのがせめてもの幸運だった。だが、スクーターが頼りなく路面に倒れるのはもう止められない。

 愛車の下敷きになる形で、学は大量のチラシとともに路面に投げ出された。

 左の足首に、スクーターの車体に潰されたような激痛が走る。

「し、知らんぞワシは。勝手に逃げようとして、アンタが悪いんだからな!」

 管理人の男はそれだけ言ってさっさとマンションに戻ってしまった。愛車とともに道端に倒れたままの学に、車道を通り過ぎる車のクラクションが幾度も浴びせられる。

 学は激痛に耐えながらなんとか立ち上がり、必死に踏ん張ってスクーターを起こした。幸い、骨折などの重症ではないようだったが――左の足首はずきずきと痛み続けている。

 どうしよう、と動転する学の頭は、とにかく、平賀CKOに連絡すればいいという結論をなんとか導き出せた。

 だが、このマンションの前に居続けるのは恐ろしかったので、学は左足の痛みを我慢しながらトロトロと少しスクーターを走らせ、数百メートルほど行ったところのコンビニの駐輪場に再び停車して、そこでやっとスーツにポケットからスマホを取り出した。

 正直、すぐにでも病院に行った方がいい気もしたが――大事な仕事を勝手に投げ出すわけにもいかない。どんな時でもホウレンソウを徹底せよという会社の教えに従い、学は平賀CKOに通話を発信した。

 応答を待つ間、スマホを持つ手が震えるのを感じる。平賀は気さくな人柄だが仕事には厳しい人間だ。業務中にケガをしてしまったと報告したら、どれほど怒られるだろうか――。

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