第3章 会社まるごと叩き潰せ!

第19話 洗脳会社

「息子はおかしな会社に騙されてるんです。弁護士先生、なんとかあの子を救い出してやってください」

 志津しづの斜め前に座り、悲愴な面持ちで訴えているのは、疲れきった顔をした五十代ほどの女性。痩せぎすな顔には化粧っ気もなく、パーマを当てた髪には白髪が混じっている。

「おかしな会社……ですか」

 真っ白な相談ブースで彼女とデスクを挟んで向かい合っているのは、我らがホワイトウルフ法律事務所のあるじ白山しろやま白狼はくろうではない。志津がいま同席させてもらっているのは、雇われ弁護士の青梅おうめの法律相談だった。

 志津がこの事務所で働き始めて一ヶ月近くになるが、ブラック企業の被害者本人ではなく、その親からの相談というのは初めてのケースだ。これが珍しい状況なのは青梅弁護士にとっても同じようで、彼の受け答えが少しばかり歯切れ悪くなっているのは決して彼自身の力不足を示すものではあるまい。

「奥さん。その会社がどうおかしいのか、聞かせてもらえますか」

「ええ……。聞いてください、先生」

 もともと悲痛に歪んでいた表情をさらに辛そうに歪め、女性は語り始めた。一人息子が勤めているというブラック企業……いや、企業と呼ぶのもおこがましい、洗脳集団の話を。


 亡き父親に「まなぶ」と名付けられたのが良かったのか、その子は高校まで成績優秀に育ち、高偏差値の部類に入る関東の国立大学に進学した。大学在学中から塾講師のアルバイトを始め、その経験を活かして卒業後も教育関係の小さな会社に就職。だが、それが悲劇の始まりだったのだ。

「あの会社はね、宗教ですよ、宗教。息子はそこの社長を人格者だと信じ込まされて……会社に滅私奉公することが幸せだと思い込まされてしまっているんです。休みもロクに取れないで、毎晩、日付が変わったあとにバイクで帰ってきては……朝早くにはもう塾に出ていくという具合で……」

「ひどいですね。いくら教育系でもそんなのおかしいですよ」

 青梅弁護士を差し置いて、志津は思わず口を挟んでしまった。だが、女性も青梅も志津の口出しを咎めはせず、むしろ女性は話が通じたのを喜ぶように「そうなんです、ひどいんですよ」と続けた。

「日曜は塾も休みでしょ。でも、息子は休めないんです。勉強会があるからと言って出かけていくんですが、そこで何をしてるのか聞いたら、他の先生達と一緒に本を読んでるらしいんです」

「本ですか。それはまさか、その会社の経営者が書いたという……?」

 青梅が尋ねると、女性はかすかに驚いていた。

「よくわかるんですね、弁護士さん」

「ブラック企業にありがちなパターンだと、ウチの所長が申しておりましたので……。つまり、息子さんは、毎日のように長時間労働を強いられている上、休日も実質的に勤務に出ておられるわけですね」

「そう、そうなんです。でも、休日の勉強会のぶんは、あくまで仕事ではないからと言って、休日手当だとかそういったものは貰えていないようなんです。そもそも残業代が真っ当に出ているのかどうかも……」

「それは確かに悪質な会社ですね」

 青梅が断言する隣で、志津も憤りに身を震わせながら頷いた。

 教育業界の事情は志津にもよくわかっているつもりだった。塾、予備校、家庭教師――。学生にとっては美味しいアルバイトであることが多いこれらの仕事も、いざ中小企業の正社員として携わるとなると、途端に薄給で拘束時間も長いブラック労働に変わる。「教育業界は地雷」というのは新卒の就活生の間でも半ば常識だ。

 あのムカつくハゲ校長とブタ部長のいた西進せいしんサテライト予備校など、その中ではまだマシだったようなもの。志津がそのさらに前に在籍していた学習塾の会社など、休みは取れないわ、残業代は出ないわ、今にして思えば酷いものだった。生徒の笑顔が報酬だと言えば聴こえはいいが、労働環境としてはロクなものではない。

 だが、それを身をもって知っている志津でさえ、話を聞いているだけで戦慄を覚えてしまうほどのブラック・オブ・ブラック――それがこの女性の一人息子、まなぶ氏が勤めている会社らしいのだ。

「ねえ、先生。どうかお願いします。息子をそこから連れ出してやってください」

「は、はあ、しかし……。ブラック企業対策はこの事務所の、いや、全ての法律関係者の果たすべき使命ではありますが。しかし、ご本人からの依頼がないことには、我々には動きようがないというのも事実でして」

 青梅は困ったような顔になっていた。そう、それは、女性の相談を聞き始めた時点から、素人に毛が生えたレベルの志津にもわかっていたことではあった。

 白山が度々言っていることだ。弁護士は、事件があり、依頼がなければ動けない――。仮にまなぶ氏本人が自ら納得してそのクソ会社に勤めているのであれば、いかなブラック企業専門の弁護士といえど、勝手に会社に乗り込んで彼を連れ出すことなどできない。あくまで本人が助けを求めてくれなければ、正義の味方も動きようがないのだ。

「ダメなんでしょうか、先生。でも、絶対、息子はあのおかしな会社に洗脳されているんです。……旦那が死んでからこれまで、母ひとり子ひとりで何とか生きてきて……もしあの子がブラック企業に過労死なんかさせられてしまったら、わたしはどうすれば」

 女性はとうとうハンカチで目を押さえて泣き始めてしまった。奥さん、と思わず声をかける志津の隣で、青梅はううむと一つ唸って言葉を発する。

「とにかく今度、息子さんご本人をここへお連れしてください。ご本人の意志さえあれば、退職なり、待遇の改善なり、我々が間に入って動けることはいくらでもあります」

「ええ……わかりました。引っ張ってでも連れてきます」

 女性はまだ涙の滲む目で、青梅と志津を順に見て、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。

 彼女が事務所を後にしてからも、その悲哀に満ちた顔を志津は忘れられなかった。

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