第18話 既定の勝利

「先生。本当、ありがとうございます」

 労働審判の第一回期日に出陣してから僅か数時間。意気揚々とホワイトウルフ法律事務所に凱旋した白山しろやま白狼はくろうと応接テーブルを挟んで向かい合い、依頼者の鈴木スバルもすっかり晴れやかな表情をしていた。

 志津しづが自分のデスクから二人の様子をちらちらと見やっていると、白山は「シーズー君、キミもこちらに座りたまえよ」と手招きしてくる。

「はあ。いいんですか」

 書類仕事がまだ終わっていないんだけどなあ、と思いながら、志津は自分の椅子から立ち上がった。

「なんすか、シーズー君って」

 スバルが素朴な表情で志津への呼称を気にしていた。「俺が狼ならば彼女は子犬のようなものだからだ」と、白山がよくわからない説明をするのを横目に、志津は勝手に自分の分のコーヒーを淹れて白山の隣に腰を下ろす。まあ、雇い主が言うのだ、少しくらい休憩したってバチは当たらないだろう。

「スバル君、彼女はこの正義の味方・弁護士白山白狼はくろうの活躍を小説にあらわしてくれていてね。参考までに彼女に聞かせてやってくれたまえ、キミの輝かしき勝利について」

「えっ。俺の話、小説になるんですか?」

 スバルが素っ頓狂な声を上げるので、志津は「いやいや」と咄嗟に片手を振って否定した。

「あなたの話を直接書くわけじゃありませんよ。守秘義務がありますから。ただ、わたしも色々な案件を日々見て、参考にはさせてもらってます」

 早いもので、志津が挑戦している職業小説コンテストの応募締切まではあとわずか。幸い、定時での退勤を徹底できるこの職場に巡り会えたことで、執筆の時間は十分に確保できているが――より貴重なのは時間よりも題材だった。自分自身の案件はともかく、他の依頼者の案件はそっくりそのままを物語に書くわけにはいかないので、色々な要素を適当に組み合わせながら架空の事件を作っているのだ。

「作家さんだったんすか……。凄いですね、お姉さん」

「まだなってませんけどね」

 志津は事実を述べて謙遜するが、その実、凄いと言われると少しばかり気分が良かった。

「それにしても、スピード解決だったんですね」

 志津が言うと、白山が隣でふふんと軽く笑い、スバルに喋りを促すような視線を送っていた。普段の白山なら自らの口からぺらぺらと手柄話を並べ立てそうなものだが、今は依頼者本人に語らせようという魂胆らしい。

「先生がびしっと、社長に勝ち目はないと言ってくれたんで、裁判官の人も、これ以上やっても無駄ですよーみたいなことを言ってくれて。こんなに早く決着がつくとは俺も思ってなかったんで、助かりました」

「じゃあ、もう、調停もまとまって?」

「って言うんですかね、先生」

 スバルに言葉を向けられ、白山は「うむ」としっかり頷く。

「労働審判が一度の期日だけで調停成立になるケースは、全体の三割ほどといったところだが――こと俺が関わる限りにおいて、その割合は七割を下回ったことがない。なぜだか分かるかね」

 志津とスバル、どちらにともなく白山は問うた。スバルは茶髪の上にクエスチョンマークを浮かべているが、志津の脳裏には確かに一つ閃くことがあった。

「戦う前から相手を追い詰めてるから、ですか」

「ふむ。キミもなかなか分かってきたようだ」

 白山は組んでいた腕を開き、瞳をぎらりとさせて得意気に言う。

「今回の案件など、相手方も真っ当に弁護士に頼っていれば、労働審判にまでもつれ込む前に任意で支払いに応じて終わりだっただろう。敵にとって勝負を諦めざるを得ん状況が整っていることは、法曹プロが見れば誰でも分かる――無論、審判官にもな。この労働審判が早期に決着を見ることは、始める前から決まっていたわけだ」

 はああ、と、スバルは感慨深そうに感嘆の声を出していた。

「それって、先生がそれだけの準備をしてくれたってことですよね。普通の弁護士さんが普通にやったら、もっと泥沼になっちゃうんでしょ」

「ふん、まあ、今回は敵が勝手に自爆してくれた部分も大きいわけだが――」

 白山はそこで、再びスバルと志津のそれぞれに視線を振って、言葉を続けた。

「巷では、法曹といえば法廷での舌戦ぜっせんこそが本懐であるかのように思われているようだが、何のことはない。法廷でプロと向かい合った時点で相手は負けているのだ。こちらは法廷闘争になる前から用意周到に罠を張っており――敵が慌てて飛びかかろうとした時には、既に落とし穴の底というわけだ」

 なるほど、と志津も得心した。相手方が送ってきたトンチンカンな内容証明を見たときの、白山の不敵な笑いが記憶から蘇る。あの時点で彼は、この争いが法廷にまで持ち込まれることを見抜いていたし、勝利を確信して笑っていたというわけか。

「いやあ……本当、勉強になりました」

 スバルはちょこんと白山に頭を下げていた。そこで、ホワイト弁護士はふいに「ときに」と言って話題を変える。

「就職活動の方は順調かね」

「はぁ、それが」

 若者は片手で頭をかいた。

「やっといくつか一次面接に呼ばれたくらいで……。面接は全部これからなんですけど、エントリーの時点で落とされるところの方が多いですね」

「ふむ」

 白山はソファに深くもたれ直し、腕組みの姿勢を作ってから、白ブチ眼鏡を片手の親指でくいと上げた。

「求人サイトの類で職を探すのも結構だが――えてして、そうしたところに載る求人には、善良な企業を装った隠れブラックが多いものだ。そうしたものを目の当たりにしながら、求人広告を選別する目を磨いていくのもよいが……。スバル君、キミには時間がないのだろう」

「えっ」

 突然言われ、スバルは白山にキョトンとした顔を向けていた。志津もうっすらとは勘付いていたが――鈴木スバルは普通のブラック企業犠牲者と比べても、お金の回収や再就職を焦っているように思えた。志津わたしなど、猶予期間モラトリアムがどれだけあるかを計算して喜んでいたくらいだったのに。

「キミが望むなら――俺が企業顧問をしている先で、いくつか第二新卒のホワイトカラーを募集している会社がある。あいにく、俺の口利きで入社できるというようなものではなく、あくまでそれらの会社が出している求人に普通に応募してみてはどうかというだけの提案ではあるのだが――それらの会社がブラックと程遠いものであることは、この白山白狼が保証しよう」

 白山の話が進むにつれて、スバルの表情がみるみる明るくなっていくのが志津にも見て取れた。

「せ、先生。それ、教えてほしいです!」

 当然のように飛びつくスバルも甘ければ、そんな話を簡単にちらつかせてやる白山も十分に甘いと志津は思う。志津自身をこのホワイトウルフ法律事務所で雇ってくれたことも含め――なんというか、白山という人物は、極端なまでのお人好しに見えることがたびたびあるのだ。

 白山の顧問先の求人リストをメールで送ってもらう約束を取り付け、嬉しそうに事務所を後にする鈴木スバルを見送ってから、志津は自分の応接テーブルの上を片付けにかかり――ふと思った。

「白山さん。今回みたいな解決もいいですけど、せっかく小説に書くなら、もっとこう、とんでもない極悪企業を正面からぶっ潰すエピソードも欲しいですね」

「ふん。いかなブラック企業の根絶を心に誓った俺といえど、実際に会社をまるごと壊滅させることなど滅多にないぞ。弁護士はあくまで依頼者の代わりに相手方と斬り結び、依頼者の望みを叶えるだけだからな。それ以上のことに関わる機会など滅多に持つことはできん」

 自分のデスクでチェアに腰を下ろし、すらすらとそう言ってのける白山の言葉は、理想と現実の狭間に揺れる彼の生き方を表しているようでもあった。――だが、「滅多にない」とは?

「いくらかはあるんじゃないですか」

「まあ、俺がそこまでの力を振るうことがあるとすれば、それは――この俺自身が心底虚仮コケにされた時、くらいだな」

 大窓から差し込む夕陽を浴びて、白山の鋭い眼光がきらりと一瞬輝きを放った。


(第2章 未払残業代編――完)

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