第17話 信じる常識
「では……鈴木さんの勤務は裁量労働制にはあたらないということで、話を続けますよ。鈴木さんは朝十時を正規の出社時刻とされながらも、実質上は朝九時に出勤することを強制されていた――ということで間違いありませんね」
「そうです」
スバルはまだ緊張の抜け切らない声で裁判官に答えた。松田社長は、ドヤ顔で主張していた「裁量労働制」の理屈が一顧だにもされなかったことが余程ショックだったのか、今にも口から泡を吹きそうな顔で裁判官を見返している。
「会社側、どうですか。従業員に朝九時の出勤を命じていた事実はあるんですか」
「……それは、まあ、社内の自主的な研鑽の時間として……。しかしですね、当社の営業時間は十時からということで間違いないんですよ」
「営業時間というのはよくわかりませんが、従業員を九時に出勤させていたことは事実なんですか?」
「だから、ウチはね、十時以降は全て顧客のために使う時間と考えてるんです。営業時間というのはそういうことで、社内の会議なんかはその時間外にやるべきことでしょう。会社からそういう呼びかけはしましたが、社員は皆、自主的に出てきていて――」
「十時より早い時間に会議をしていたんですね?」
スバルがハタから見ていても、裁判官と社長の会話はまるで噛み合っていないように思われた。社長は確かに、スバルら社員に対して、会議や企画書の作成などの社内業務は、「営業時間」である十時から十九時までの時間の範疇外に行うべきだといつも言っていたが――裁判官はまるでそんな話に取り合う気がないかのように、十時以前に社員を出社させていたのは本当か、ということだけを確認している。
ふと隣の
裁判官が、はあ、と小さく溜息のような声を出す。
「つまり時間外労働を恒常的に会社が命じていた事実がある、と……」
「時間外労働って、裁判長さん、言いますけどね。仕事の生産性を考えたら、社内のことは時間外にやるべきでしょう。法律以前の常識ですよ!」
社長がとうとうしびれを切らして声を荒らげ始めた。だが、それを諫めたのは裁判官ではなく、労働審判員の老齢の男性だった。
「社長さん、あなた、ビジネスをわかっとりませんな。社員を早く出社させれば生産性が上がるなんて、そんな単純な考えで人を動かそうなんて、甘いんじゃないですかね」
スバルはその男性の顔と社長の顔を交互に見た。社長は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になって、ぐう、と押し黙ってしまった。
いま発言した老齢の男性と、もう一人の中年の女性――。どちらが企業寄りの審判員で、どちらが労働者寄りの審判員なのかはわからないが、これまでに二人ともが、小さくスバルの味方をしてくれたことになる。
だが、社長はまだ諦めるつもりはないようだった。彼は裁判官と審判員達に食って掛かるような勢いで、手元の書面をこれ見よがしに持ち上げてみせる。
「しかしね、見て下さいよ、証拠として出した書類を。鈴木スバル君の売上達成率は、この半年でたったの六割です。目標を達成できてないんだから、彼はどんなに長時間会社にいても、実際は仕事をしてないのと同じということじゃないですか」
「は?」
三人の専門家が、何を言っているんだ、というような目で揃って社長を見た。白山はスバルの隣で腕を組み、フンと小さく鼻を鳴らしている。
スバルは会社で社長がよく言っていた台詞を思い出した。「契約を取れなかった時間は働いてないのと同じ」――。それはワイ・イー・エスの社内で標語のように繰り返される言葉だった。松田社長自身が、ナビルート社に居た頃に、いかにその考え方のもとで仕事に励み成果を挙げてきたかの武勇伝とともに。
「ウチはお店みたいに決まった品物を売ってるわけでもない――顧客との成約に繋がった提案だけが、仕事として対価を受け取りうるんです。つまり、結果として成約しなかった案件は仕事をしなかったのも同じ……だから厳密にノルマ制でやってるんですよ。ノルマを達成して初めて、給料を満額受け取る資格がある。だってね、そうでしょう、会社は彼らに給料を払うだけではなく、オフィスの家賃を払い、光熱費を払い、パソコンを与え、社会保険料なんかも負担して――彼らが成果を挙げる前から莫大な先行投資をしているんですよ。それだけの投資に報いられなかった分は、損害賠償として給料を返してもらってもいいくらいです」
社長の振るう熱弁を、どこかシラけた気分でスバルが聞いていると、二人の審判員が互いに順番を争うような勢いで突っ込みを入れていた。
「社長さん。それは無いんじゃないですか。ノルマを達成できなかった社員さんの給料は損害だなんて、本気でそうおっしゃってます?」
「あんた、自分の使っとる言葉の意味をわかっとるのか。『投資』というのは、儲かっても儲からんでも文句を言わん覚悟のもとにするものだ。アテが外れたから金を返せなんていうのは投資じゃない」
審判員達に挟まれて、裁判官もうんうんと頷いている。女性の審判員がさらに続けた。
「あなた、自分の会社のために働いてくれる社員さんを何だと思ってるんですか?」
「そんな、決まってますよ、社員は大事な仲間ですよ。一緒に理念を共有して、ビッグな人間に成長していく仲間だと――」
女性は社長の言葉を最後まで聞こうとしすらしなかった。ぴしりと厳しい口調で
「会社が何よりもまず社員さんに対して果たすべきは、労働への対価を法に則ってきっちり支払うことですよ。人格的成長であるとか、理念の共有であるとか、そういったことは、その最低限の責任を果たしてからの話です」
女性の言葉に、裁判官がもう一度黙って頷いたところで、社長はとうとうテーブルを叩いて声を上げた。
「こんなのは、おかしいじゃないか! 労働審判はフラットな話し合いの場じゃないのか!? あんたら、三人が三人とも社員のほうの肩ばかり持って――それのどこが中立な立場なんだ!? 経営者は、従業員とは背負ってるものが違うんだ。違う言い分があって当たり前だろう!」
社長ひとりが肩を上下させているが、彼以外の空気は完全に冷め切っていた。
「言い分を主張されるのは結構ですが、法律的に明らかに間違っている内容であれば、我々は間違っているとハッキリ言いますよ。ここは法律に則って揉め事を解決する場ですので」
裁判官にドライな口調で言われ、社長はぎりりと唇を噛みしめている。
数秒の沈黙が流れたところで、彼は唐突にスバルのほうを指差し、怒鳴った。
「やってられるか。こうなったら裁判だ、裁判! スバル、お前、会社にこんな迷惑をかけて――このまま残業代を取って終われると思うなよ。お前の給料は損害賠償だ。いいか、こっちも凄腕の弁護士を立てて、徹底的にやってやるからな!」
「やめておけ」
と、そこで、これまで沈黙を保っていた白山弁護士が、ぎらりと鋭い眼光を社長に向けて言った。
「何をやっても貴兄に勝ち目などない。悪人を法が助けることなどないからな」
「な……!? 俺が悪人だと!?」
激昂する社長をフンと鼻で笑い、白山は腕組みの姿勢のまま淡々と言葉を続ける。
「普通の人間は、ルールについて勉強したなら、そのルールを遵守しようと努めるものだ。貴兄は裁量労働制という言葉を覚えるまでに、素人ながらに数多くのネットの記事を読み漁ったのであろう。そのどこにも書いてあった筈だ――企業は基本的に、従業員への残業代の支払いを免れることはできないと。それが許されるのはごく限られた場合のみであると。真っ当な経営者であれば、そこで思いとどまり――残業代を支払いたくないなどという我儘が、この国の法のもとでは通らぬことを知る。法を知ったことで、己の望みのほうを法に合わせて修正するのだ。何も労働法に限ったことではない。法治国家においては、誰もがそうして、己の願望と法の掟の間で折り合いをつけて生きている。人の金を盗めば楽に生きられるが、刑法が禁じているからしない。公道を時速百五十キロでかっ飛ばしたいが、道路交通法が禁じているからしない。配偶者以外の者と肉欲に溺れたいが、民法が禁じているからしない――」
そこで白山は組んでいた腕を解き、びしりと社長に人差し指を向ける。
「だが貴兄は、こともあろうに、僅かな法の例外に自社の事案を当てはめることを必死に考え――己の望みに合わせて法の理屈をこじつけようとしている。俺には到底理解できんね。なぜ、法を学ぶことを、法を破るための手段とする? なぜ、せっかく学んだ法を守ろうと真っ先に考えないのだ。抜け道を探せる者が賢いとでも思っているのか」
社長はもはや、うぐぐと声を抑えて唸ることしかできないようだった。
「知識不足や理屈の稚拙さ以前の問題だ。悪用するために法を学ぶような者を、法が助けることなど絶対にない。ゆえに――訴訟に移行しようが何をしようが、貴兄に勝ち目などないのだ」
そう言って白山が長い語りを締めくくり、裁判官らの方へ小さく一礼すると――
彼からバトンを受け取るかのように、裁判官は社長をまっすぐ見据えて述べた。
「まあ、そういうことですね。第二回、第三回の期日までで調停がまとまらなければ、裁判所のほうから審判を出すことになりますが――このままいけば、会社側に有利な裁定になることはありませんよ。訴訟にするなら担当裁判官は変わりますが、まあ、誰が担当しても、この状況で会社有利の判決を出すことはないでしょうね」
それが事実上、もう判決を下しているのに等しい言葉であることは、スバルにもよくわかった。
「……俺は」
社長が力なく口を開き、スバルのほうを見てくる。
「俺は、コイツに、ビッグになって欲しかっただけなのに」
社長の言葉は苦し紛れの出まかせのようには思えなかった。きっと――スバルの常識では信じられないことではあるが、この人は、本気で、長時間労働をさせたりノルマ未達社員の給料をカットしたりすることが、ポジティブな愛の鞭だと思っているのだろう。自分が鞭と飴の使い分けに長け、人を導き育てることに長けた、良き経営者であると――どうやら彼は本気で思っているのだろう。
だから、ある意味、彼に悪気はないのだ。そう。だからこそ――
こういう人間と関わってはならない。
信じる常識が違う人間には、どんな話も通じないのだ、と、スバルは強く教訓として胸に刻み込むことにした。
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