第16話 労働審判
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労働審判の第一回「期日」の日は、すぐにやってきた。
スバルはいつもと同じ紺色のスーツに身を包み、約束通りに
あと一時間もすれば、自分は法廷で松田社長と相まみえることになる。そのことを思うと、コーヒーのカップを持つ手が緊張でかたかたと震えた。
「よく眠れたかね」
白山弁護士がマグカップを手に、向かいのソファから問うてくる。今日も彼は白スーツに白ネクタイの全身真っ白な出で立ちをしていた。顔を合わせるのはこれで四回目だが、この弁護士が他の色の服を着ているのを見たことがない。
「……まあ、普通には」
スバルは答えながら、白山のカップを満たす液体を見た。それは冷たいミルクらしかったが、この弁護士がなぜそんなものを飲んでいるのかはスバルにはわからなかった。やっぱり変わった人だな、と思っている内に、少しだけ緊張が和らいだような気がした。
「あの……会社からの答弁書ってやつ」
スバルはコーヒーのカップをソーサーに戻してから、白山の顔を見た。
会社側からの「答弁書」というものを白山がスバルにメールで共有してくれたのは、つい昨日のことだった。こちら側の申立書に対する反論を会社が述べたものだ。
スバルは、裁判やそれに類するものといえば、法廷で向き合って初めて主張をぶつけ合うものだとばかり思っていたが――実際には、お互いの主張は事前に書面でやりとりされるのが普通らしい。
「向こうもかなり反論してきてるみたいですけど、大丈夫なんですか?」
「あんなものは反論とは呼ばんよ。素人の殴り書きだ」
白ブチ眼鏡の奥の目をぎらりとさせて、白山は言う。
スバルの目には、松田社長が書いたと思しき答弁書も、それなりに体裁や主張が整っていて恐ろしいものに見えたのだが。本職の目にはそうは映らないのだろうか。
「キミが恐れることはない。さあ、そろそろ向かうとするか」
白山はカラになったカップをことりと卓上に置き、立ち上がった。スバルも「はい」と頷いてそれに続く。
事務所を出る際、事務の女性が「頑張ってくださいね」と一言声をかけてくれた。
「緊張しているのかね。裁判官も労働審判員も所詮は普通の人間だ。気楽にしていたまえよ」
白山はそう言って勇気付けてくれるが、裁判所という空間に足を踏み入れるだけでもスバルは緊張で気が遠くなりそうだった。
二人が裁判所に着いたのは、告知された開廷時刻の二十分ほど前だった。係の女性に案内され、法廷らしき部屋の前の長椅子に並んで腰を下ろして待っていると、同じく係員に案内されて松田社長がそこに姿を現した。
細身の身体に髭面、紺色のスーツに赤ネクタイ。当然ながらと言うべきか、社長の顔はいつになく不機嫌そうだった。代理人らしき者は伴っていない。
「……スバル」
社長はスバルの顔を一瞥して、ぼそりと名を呼んだが、スバルはぐっと感情をこらえて彼を無視することに努めた。横から白山が、それでいい、とばかりに軽く頷いてくる。
こちらに弁護士が付いている手前、社長もそれ以上スバルに何か声をかけようとはしなかった。社長は長椅子に腰掛けようとすることすらなく、スバルらと距離を取って壁際に立っていた。
松田社長とこれから戦うのだ、という実感が、なぜだかスバルの胸を重く締め付けた。
社長の作った会社は狂っている。社長自身もまた狂っているのに違いない。
だが――確かにスバルは長時間労働に苦しめられ、貰うべき残業代も貰えずに今日まで来てしまったわけだが――この松田という人間のことを、自分は、裁判所に呼び出してまでやっつけなければならないほど憎んでいたのだったか?
「弱気になる必要はないぞ」
スバルの心の中を見透かしたかのように、白山が小さめの声で言ってきた。
「キミは己の権利を正当に主張しているだけだ。それ以外のことなど今は忘れろ」
「……」
はい、と答えるかわりに、スバルは黙って頷いた。
自分のスーツの袖ボタンの糸が少しほつれているのが目に入った。入社して半年ほどが経った頃、「コンサルタントたるものオーダーメイドの一着くらい持っておけ」と松田社長に勧められ、なけなしの数万円をはたいて作った安物のパターンオーダーのスーツ。
もう一着作れるような余裕は、たとえ未払残業代やハローワークの手当が無事に貰えたとしても、今のスバルにはない。この労働審判を終え、松田社長と完全に訣別したあとも、自分はこのスーツを着て就職活動やその後の仕事を続けるのだろう。そう思うと、何だか不思議と寂しかった。
いよいよ時間になり、スバルらは、係の女性の案内で法廷の中へと招き入れられた。
室内の光景はスバルの想像と全く違っていた。テレビのニュースやドラマで目にする、いわゆる普通の「法廷」ではなく――そこは、大きなラウンドテーブルをいくつかのオフィスチェアが取り囲むだけの殺風景な部屋だった。
室内には既に、係の女性のほかに三人の人物が着席していた。かっちりした黒スーツを着た中年の男性の両側を、上品な私服の中年女性と、灰色のスーツを着た六十代くらいの男性が囲んでいる。
スバル、白山、そして松田社長がそれぞれテーブルを囲んで腰を下ろすと、三人の人物がそれぞれ自己紹介をした。
黒スーツの男性は、この場では「労働審判官」と呼ばれるらしいが、つまりはプロの裁判官ということだった。テレビでよく見る黒い法服姿でないのは意外だったが、労働審判自体が裁判そのものではなくその簡易版だというのだから、部屋や裁判官の服装も色々違うということなのだろう。
あとの二人は労働審判員といって、民間から専任された有識者だそうだ。中年女性と老齢の男性――一人は企業側、一人は労働者側の立場から選任されているらしいが、どちらがどちらなのかはスバルらに明かされることはない。
「では、早速、申立書と答弁書に沿ってお尋ねしていきますが――」
スバルには状況を理解するのがやっとというところで、あれよあれよという間に審議は始まってしまった。手元の書類をめくりながら、裁判官がスバルに顔を向けてくる。
「鈴木さんは現在、有給消化中で……書類上の退職日は今月末ですが、実際、もう会社には出ていないということですね」
「は、はい、そうです」
裏返りそうな声でスバルが答えたところで、テーブルの向かいから松田社長が声を発した。
「内容証明をいきなり送りつけてきて、勝手に辞めたんですよ。事前に相談してくれればいいものを」
彼の言い分にスバルはむっとなった。先程の寂しい気持ちなど一瞬でどこかへ吹っ飛んでしまう。
辞めたいと言っても怒鳴って引き止めてきたのはアンタじゃないか――。だが、それをスバルが言い返すよりも早く、審判員の女性が、やんわりと社長の発言を咎めていた。
「会社さんの主張は、あとで聞かせて頂きますから」
「続けますよ。退職は鈴木さんの意志による自己都合退職ということで、双方争いはないですね」
「はい」
スバルは裁判官に答えた。続けて裁判官から視線を向けられたので、社長も、渋々といった顔で「はい」と答えていた。
スバルがちらりと白山に目をやると、彼はすました顔で沈黙を保っていた。スバルが上手く答えられない話になったら、もちろん彼が代わりに主張を述べてくれるという手筈だったが、今のところはまだ弁護士の出番はない。
「争いは残業代の支払義務に関してだけ、ということですね……。えー、会社側からは、鈴木さんの勤務は裁量労働制であるから残業代は発生しないとの答弁が出ていますが――」
「そう、そうです。ウチのコンサルは全員、裁量労働制ですからね。所定の勤務時間は八時間と定めてるので、それ以上働いてても残業代は払わなくていいはずです」
自分の順番が回ってきたことを悟ったのか、社長は水を得た魚のようにぺらぺらと言葉を並べた。だが、裁判官の態度はあくまで淡々としている。
「鈴木さんの勤務体制が裁量労働制にあたるか否かが争点の一つになりますが――鈴木さん側からは、申立書の時点で、それを否定する陳述が出ていますね」
「
スバルの隣で白山がさらりと答えるのと対照的に、社長はそれを聞いて目を丸くしていた。
労働審判を申し立てる前にスバルは白山から聞かされていたが――白山は、最初に裁判所に提出する申立書の時点で、彼の労働が裁量労働制などではないことの立証を織り込み、予測されうる松田社長の弁明を先回りして封じていたのだ。社長自身もその申立書を読んだ上で答弁書を作ったはずなのだが、今になって驚いているのは何だか滑稽にも感じられた。
「メールの記録などを見ますと……従業員は就業の時刻を明確に定められており、これを裁量労働制と見る余地はないように思えますが……会社側、いかがですか」
「それはですね。出勤や退勤の時間は目安であって、義務とはしていないんです。就業規則には、ちゃんと、コンサルは裁量労働制と書いてあるんですよ」
社長はスバルにとって初耳となる主張を繰り出した。就業規則などというものは、スバルはただの一度も見たことがなかった。
そういえば、白山への相談の中で、就業規則なんて見たこともないとスバルが言ったとき――なぜか白山がニヤリと口元を釣り上げていたことを、彼は思い出す。
「その就業規則ですが、申請証拠にはありませんね。普通は会社側から提出があるものなんですが……」
えっ、と意外そうな顔をしている社長を横目に、白山が悠然と片手を挙げていた。
「審判官。その点に関して一点宜しいでしょうか」
「どうぞ」
「鈴木氏は、この会社の就業規則を入社以来一度も目にしたことがないそうです。法定の周知義務を怠っている可能性が高いと思慮致します」
それを聞いて、裁判官の眉がぴくりと動く。
「ほう。会社側、どうですか?」
「ど、どうですかとは」
「就業規則を従業員のいつでも見られる状態に置いていたかということです。書類として配るとか、社内のわかりやすい場所に置いてあるだとか。周知義務をご存じない訳ではないですよね」
「……就業規則は、ちゃんと労基署に出してますよ」
「それだけですか? 従業員が就業規則を確認したいと言ってきたとき、会社ではどうしているんです?」
「それは……これまでそういうことを言い出す社員は居なかったので」
「はあ」
裁判官が呆れたような顔をしているのが、スバルには少し気持ち良かった。理屈はよくわからないが――松田社長は何か失態を犯してしまったらしい。それもかなり痛いやつを。
「従業員に周知されていないのであれば、たとえ就業規則に何を定めていても無効ですね。ただ、今回はそもそも労働の実態が会社側の主張する就業規則とかけ離れているようですから、それ以前の問題ですが……」
つい先程まで自信に満ちていた社長の顔が、見る間に青白くなっていった。
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