第15話 今後の生活

 鈴木スバルがハローワークから戻ると、同棲中の恋人はいつになく不安げな顔で、一通の茶封筒を彼に手渡してきた。

「これ、書留で来たんだけど……」

 その郵便は地方裁判所からだった。スバルは、裁判所からの呼出状が来ることは既に弁護士から聞いて知っていたが、いざこうして封筒を受け取ってみると、ついに来たか――という緊張が抑えきれない。

「……労働審判の日が、決まったんだよ」

 そう言ってスバルは、恋人を伴って狭いリビングの狭いソファに腰を下ろし、ふうと一息ついてから、封筒をびりびりと慎重に開ける。

 弁護士が言っていた通り、それは労働審判の第一回の「期日」を示す呼出状だった。

 初めての法律相談の日以来、スバルは二度ほどあの真っ白な弁護士の事務所を訪れ、業務報告メールの記録など、残業時間の証拠となる資料を渡したり、労働審判の手続きについてあれこれレクチャーを受けたりしていた。弁護士に教わったところによると、労働審判とは裁判の簡易版のようなものであり、法廷に呼び出されて話をする機会のことを「期日」と言うらしい。

「大丈夫なの? だってそれって、要は裁判なんでしょ?」

 スバルの手にした書類を横から一緒に覗き込み、恋人はなおも心配そうに言ってくる。

「……大丈夫だって。あの弁護士さんを信じるしかない」

 もちろんスバル自身にも不安はあったが、ここまで来た以上、怖気づいていても始まらないのだ。

 それに、スバルは、あの白山しろやま白狼はくろうという弁護士のことは信用できると思っていた。その人柄も、手腕も。

 白山弁護士には、付き合っている彼女とデキ婚の予定があることまでは言っていなかったが――それでも白山は、なるべく早くに残業代の支払いを受けたいというスバルの事情を察してくれ、可能な限り早く第一回の期日を開いてもらえるよう裁判所にねじ込んでくれたらしいのだ。

 申し立てからたった一週間でこうして手元に届いた呼出状は、その成果にほかならなかった。

 正直、ありがたい。初めて会ったときは、上から下まで真っ白で固めたヘンな弁護士だという印象が先に立ったが――彼にお願いすることにしてよかったと、スバルは今や本心から思っていた。


 弁護士の事務所を初めて訪れ、もう会社に出社する必要はないと言われてから、はや二週間。会社の人間とは本当に一度も顔を合わせていない。最初の二日ほどはスマホに不在着信も入っていたが、直接マンションまで押しかけられるといったことはなかった。

 在職中は、あの会社で有給休暇を取得するなんて夢のまた夢だとスバルは思っていたが――白山弁護士は、会社が何と言おうとスバルには二十一日分の有給を行使する権利があるのだと言っていた。法定の有給日数が一年目に十日、二年目に十一日、合わせて二十一日。風邪で休んだ一日分を仮に差し引くとしても、二十日は休めるということになる。

 弁護士は土日を含めた三十日後をスバルの退職日に設定し、それまでの平日は全て有給を消化するので彼はもう二度と出勤することはない、という旨を内容証明郵便にしたため、スバルが相談したその日の内にはもう会社宛に送付していたのだ。こうした形での退職を個人が会社に申し出ても、不当にあしらわれる場合が多いというが、弁護士が間に入ることの威力はまさに絶大だった。

 あとは、労働審判で未払いの残業代を取り戻せば、あの会社とスバルの付き合いは全て終わる。


「ハローワークのお金のほうは、どうなの?」

「……多分、大丈夫なはずだけど」

 日頃、スバル以上にあの会社への不平不満を口にしていた筈の恋人だったが、いざスバルが会社を辞めてしまったとなると、今後の生活のことを彼以上に心配してくるのもまた彼女だった。

「次の職場が早くに決まれば、再就職手当っていうのがもらえるし……万一なかなか決まらなかったら、普通に失業保険が出るし」

 詳しく制度を知っているわけでもないスバルには、ハローワークの担当者から聞いたことをそのまま彼女に伝えることしかできない。

 彼がハローワークに度々足を運んでいるのは、職探しのためではない。ハローワークの求人には、彼のような大卒の若者が就く「普通の仕事」――つまり都会のホワイトカラーのオフィス仕事などなかなか出るものではない。スバルが次の職場を探す舞台は、もっぱらネットの求人情報サイトだった。

 ではなぜハローワークに行くのかといえば、失業保険か、それに代わる手当を受給するためだ。スバルはあくまで自分から会社を辞めた「自己都合退職」であるから、このまま失業中のままでいても、失業保険が下りるのは三ヶ月も先の話。だが、一定の要件を満たせば、三ヶ月経つ前に再就職しても、失業保険の何割かにあたるお金を再就職手当として受給することができる。

 そのためには、ハローワークで定期的に就職活動の様子を報告したり、講習に出席したりする必要がある。それだけで二十万円だか三十万円だかが貰えるのだから、かったるいなどと言ってはいられない。

「……パパになる時までには、次の仕事に就いててね」

 恋人の言葉は、とても明るい未来を思い描いている台詞とはいえなかった。彼女はスバルの今後の収入を本気で心配しているのに違いない。

「わかってるって。次はちゃんとした会社を探すよ」

 弁護士の助けでブラック企業の地獄から抜け出すことができたといっても、全く状況を楽観視してはいられない。有給消化によって実質一ヶ月は働かずに給料が貰えるとか、弁護士が残業代を取り戻してくれるとかいっても、それらはスバルが本来持っていた権利をただ取り戻したというだけの話。あったはずのものを奪われずに済むだけであって、天から金が降ってくるわけではないのだ。

 そして、ハローワークから再就職手当として貰えるお金は、せいぜいスバルの一ヶ月分の給料程度。つまり、早く次の職場を見つけなければ、無職の期間が長引いた分だけアシが出てしまう。

 そうしたあれこれを踏まえれば、遅くとも今から二ヶ月以内には、もう次の仕事に就いていなければならない。時間の余裕はどこにもないのだ。

「……あ」

 スバルがスマホでGメールをチェックすると、求人情報サイトからのシステムメッセージが着信していた。サイトの画面を開き、メッセージボックスを見ると、求人にエントリーしていた企業からの一次面接の知らせが来ている。

「面接決まった」

「ほんと? やったじゃん!」

 彼女は破顔一笑してくれるが、これだけで喜ぶわけにはいかないことくらいスバルにもわかっている。

 就職活動は新卒のとき以来だが、転職だってそれと同じかそれ以上には厳しい道だろう。スバルにはまだ第二新卒カードが使えるといっても、二流大学の文系卒で、前職でも営業以外の経験など大して積めなかった身では、そうそう良い仕事になんて巡り会えるものではない。

 だけど、やるしかないのだ。彼女との今後の生活のために。

 スバルはスマホの表示をじっと眺め、決意を新たにした。

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