第14話 主張自体失当

 鈴木スバルの来所から一週間。彼の勤め先であった株式会社ワイ・イー・エスからの内容証明郵便がホワイトウルフ法律事務所に届いたのは、事務所の収入源の一つである「ホワイト企業顧問」に白山しろやま白狼はくろうが出ており、志津が先輩のおばさんとともに事務仕事に勤しみながら留守を守っている午前中のことだった。

 ホワイトウルフ法律事務所の日常はそれなりに忙しい。白山は常時多くのブラック企業被害者からの依頼を抱えており、平日は毎日のように企業側との任意交渉や法廷に出向いている。

 多くの案件を同時に抱えること自体はどの弁護士もそうであるが、白山自身の言動や周りの話から総合的に判断すると、彼の「集客意欲」は他の弁護士の比ではないように志津には思われた。何しろ、彼は出先からの帰りや、ふとした外出の合間にも、街頭でブラック企業の犠牲者を探してはお節介な声掛けをするのをやめないのだ。志津自身がそうであったように、白山からの唐突な勧誘と立ち話の結果、彼に救いを求めることになる者も少なくないらしい。

 むろん、鈴木スバルのようにWEBサイトを見て来所する相談者も多いし、解決した事案の依頼者が知人や元同僚を紹介で連れてくるケースもある。そうして日々増えていく案件のあれこれを事務処理するのは、法律事務員パラリーガルとして駆け出しの志津にはなかなか骨の折れる仕事だった。

「志津ちゃんは働き者ねえ。ウチはもっとのんびりしててもいいのよ」

 先輩事務員のおばさんはそう言うが、その余裕が、志津の二倍ほどの速度でテキパキと事務作業をこなしていく彼女のスキルに立脚するものであることは、志津も既に悟っていた。自分がその境地に達することができるのは、まだ相当先という気がする。

「わたしはまだ、のんびりなんて出来ませんよ。……あれ、この内容証明」

 志津はスバルの元勤務先からの内容証明郵便を白山のデスクに置こうとして、ふとその封筒の違和感に気付いた。

 株式会社ワイ・イー・エスからの内容証明――これがそもそもおかしい。なぜ、代理人弁護士からの内容証明ではないのだ?

「ミドリさん。内容証明が弁護士通さずに来ることってあります?」

 志津が何気なく先輩に尋ねてみると、彼女は、あー、と声を伸ばしてから、皮肉を楽しんでいるような微妙な顔をする。

「それねえ、先生がよく言うやつだわ。『主張自体失当しっとうのオンパレード』」

「内容がおかしいってことですか?」

「そうそう。素人がヘタに法律屋の真似事なんかして反論するもんだから、何もかもがメチャクチャ、おまけにその主張を日付入りで証拠に残しちゃうわけだからね。先生が鼻で笑うのが目に浮かぶわよ」

 毒を含んだおばさんの苦笑に、志津は、白山が戻ってきてこの書面を目にする瞬間が少し楽しみになった。


「ふん。見事なまでに主張自体失当のオンパレードだな」

 古株の予言通り、白山はデスクでその封筒を開けて中身に目を通すやいなや、志津の目の前で書面を叩いて鼻を鳴らした。

 白山が複数の企業顧問先を回って戻ってきたのは昼過ぎのこと。おばさんは既に朝から四時間のフレックス勤務を終えて退勤していた。今日は雇われ弁護士の男性も関西の裁判所まで一日出張に出ており、今この事務所には白山と志津だけである。

「見たまえ。大社長様のご高説を」

「見ていいんですか」

「守秘義務を理解しているならな。折角の機会だ、どこがどう狂っているか指摘できたらキミも労働法初学者の仲間入りといったところだ」

 そう言って白山が差し出してくる複数枚の書面を、志津はデスク越しに受け取り、内容に目を通してみる。

 まず内容以前の問題として、B5サイズのプリンタ用紙に印刷された書面は、字間が空白でスカスカになっており、非常に不細工に感じられた。

「なんなんですか、このスカスカな手紙」

「電子サービスを用いず、個人が郵便局に内容証明を持ち込むなら、どうしてもそうならざるを得ん。窓口取扱アナログの内容証明は字数や行数の制限が厳しいからな」

 へえ、と頷いて、志津は文章の内容へと意識を向ける。

 それは、退職と有給消化を申し入れる一通目の内容証明に続き、各種証拠をもとに算出した未払残業代の請求を告げた、二通目の内容証明への反論だった。

「ええと……『当社規定では、コンサルタントが当社の定める営業ノルマを達成できなかった場合、その未達割合に応じて給与を減額することを定めている』……ひどい話ですね。……『当社は鈴木氏に対し、彼がノルマ未達であったにも関わらず、入社当初と同額の給与を支払い続けていたのであるから、本来は遡ってその差額分の給与の返還を求める権利を有すると解釈されるべきである』……されるべきなんですか? 『したがって、鈴木氏からの未払残業代の請求に対し、当社は、本来返還されるべき差額分給与をもって相殺そうさいすることを主張できる』……できてたまるか! わたしでもわかりますよ、これがメチャクチャなのは」

「笑えるであろう。ここまで面白い主張もなかなかお目にかかれるものではない。よくもこんなものを弁護士プロに送りつけようと思ったものだ」

「しかも……『当社ではコンサルタントの勤務時間について裁量労働制を採用している。そのため、鈴木氏が規定の労働時間を超過して勤務していたことに対し、当社は残業代の支払い義務を負うものではない』……これはどうなんですか? 労働時間を超えてるのに残業代を払わなくていいなんて有り得ます?」

「ごく限られた状況においてはな。おそらく、このゴミ経営者は、ネットで適当に読みかじった裁量労働制という言葉を、従業員に残業代を支払わずに済ませるための屁理屈として以前から念頭に置いていたのであろう。だが、なに、このクソ会社の勤務形態が断じて裁量労働制などでないことは、各種証拠から容易に立証できる」

 そう言って白山は、チェアに大きくもたれて腕を組み、フフンと機嫌良さそうに笑った。

「この書面の面白いところはな。残業代請求の根拠となる時間外労働の事実について一言も否定せず、それどころか『鈴木氏が規定の労働時間を超過して勤務していたことに対し』などと自ら書いてしまうことで、結果的にことになってしまっている点なのだ。日付と社名がしっかり入った内容証明郵便の中でな。敵はわざわざ鈴木こちらに有利な証拠を自分で作って送りつけてくれたというわけだ」

 そこまで聞いたところで、志津は思い至った。白山という男が時折見せる恐ろしいまでの慧眼に。

「まさか……白山さん。相手がこういうトンチンカンな内容証明を自分で打ってくることを狙ってたんですか?」

「いや、相手が初手からきっちり弁護士を入れてきたところで、やることは変わらんよ。ただ、まあ――相手の自爆によって、より手っ取り早くコトが進められる状況になったのは確かだ」

 そして、白山は卓上に並ぶ無数のバインダーの中から、鈴木スバルの案件ファイルを迷わず手に取り――リフィルをぱらぱらとめくって、株式会社ワイ・イー・エスの企業サイトを印刷したものをデスクに広げた。

 松田という細身の男が、ヒゲ面にドヤ顔を浮かべて「代表挨拶」に写っている。

「この男の性質を考えれば、労働審判であれ通常訴訟であれ、戦いの場は法廷になるであろうな。こんな主張が弁護士に通用すると思っているなら、即ち裁判官の前でも通用すると思い込んでいるということだ」

 白山はバインダーをくるりと手元で回し、志津の前に差し出してきた。松田社長なる人物の顔がでかでかと映ったその印刷物を。

「キミも見たかね、この男の間抜け面を。生まれとカネに助けられてたまたま好き勝手に生きてこられただけにも関わらず、何の根拠もなく己を有能と信じ込み、人の上に立って当然と考えている阿呆あほうの顔だ。そう、この無能は今も信じているのだ。己の唱える理屈は法曹をも打ち破るものであり、己の打ち立てた牙城は法よりも強いものであると」

 正義の味方の目は静かな怒りに燃えていた。彼の中に眠る白き狼の魂が、獲物の喉元を食い千切る瞬間を待ちきれず唸りを上げている。

「思い知らせてやろうではないか。所詮、素人がプロに勝てるはずがないと」

 冷たく吐き出される白山の言葉に、志津は思わず身震いした。

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