第13話 給料分の責任

「ふむ。……念のため確認しておくが、キミは確かに自らの意志でそのクソ会社を辞めようというのだな。会社から退職勧奨かんしょうがあったわけではなく」

 真っ白なパーテーションで区切られた相談室に、白山しろやま白狼はくろうの鋭い声が響く。

 志津しづは白山の隣でメモ用紙に目を落としながら、テーブルの向こう側に座る相談者の様子をちらちらと伺っていた。

「はい。……会社からは、むしろ怒鳴って引き止められました」

 スーツ姿でチェアに収まっている茶髪の青年――鈴木スバルの表情は、志津の目にはまだどこかぎこちなく見える。弁護士への法律相談という、普通に生きてきた人間なら誰もが緊張する状況もさることながら、白山の真っ白な出で立ちに気圧されている部分も大きいのだろうなと志津は勝手に推測していた。

 いつものように白山が自ら淹れて相談者の前に置いたコーヒーも、未だ手付かずである。

「怒鳴って引き止められた? ほう。せっかくお前に目をかけてやった会社の思いを裏切るのか――とか何とか言われたかね」

「そ、そうっす。何でわかるんですか」

「クソブラックベンチャー企業のゴミ経営者の考えることなど手に取るように分かるとも。その次に続く一言は、辞めるならせめて会社がこれまで払ってきた給料分の責任を果たしてから辞めろ――あたりではないか」

「……べ、弁護士さん、コワイっすね。エスパーか何かですか」

「超能力者ではないが、正義の味方だ」

 恥ずかしげの欠片も感じさせない口調で白山は言い放ち、堂々たる態度で腕を組んだ。

 志津は手元のメモ用紙にボールペンを走らせ、白山と相談者のやりとりを可能な限り書き取っていく。白山はいつもメモなど必要とせず、全ての情報を自分の頭に仕舞ってしまうので、このメモは単純に志津自身のためのものである。

「気を悪くしないでもらいたいが――キミの勤務態度には、無断欠勤や常習的な遅刻、勤務時間中のサボリなどは無かったと思っておいていいのだな?」

「そんな、サボリなんてできませんよ。遅刻どころか、さっき言ったように、始業時間より一時間早く出るのが当たり前でしたし……。会社を休ませてもらったのは、風邪がよっぽどひどかったときの一回きりで」

 ちなみに、彼の社内には有給休暇を取得するという概念自体がなく、土日祝日以外で休みが取れる風土など全く存在しなかったということは、既に聞き取り済みである。

 今日だって、彼は営業先に出向いたあとの戻り時間をごまかして、なんとかここに相談に来る時間を捻出しているのだと言っていた。強いて言うなら、今この瞬間こそが最初で最後の彼のサボリだということになるかもしれないが、それを突っ込むのは野暮であろうと志津は思う。

「同僚との喧嘩、ムカつくクソ上司への執拗な反抗、セクハラ、その他トラブルとも無縁だったと信用していいかね?」

「無いっす、全然無いっす」

「ふむ。……ならば言うまでもないが、キミは給料分の責任などとうに果たしている。法を知らぬブラック経営者が何を言おうと、キミがクソ会社に引け目を感じる必要は全くない」

 白山は鈴木スバルを勇気付けるようにそう断言したが、スバルの表情はそれだけでは明るくならなかった。

「でも……。会社のノルマ、全然達成できてませんでしたし。責任を果たしてないっていうのは、まあ、わからないわけでもないっていうか――」

「哀れな。まあ、キミ、コーヒーでも飲んで落ち着きたまえ」

 白山はスバルの弱気な口調をさらりと遮り、彼の前のコーヒーカップをさっと手で示した。スバルは「はあ」と生返事をしながら、ゆっくりとカップに手を伸ばす。

 志津もせっかくなので自分の分のコーヒーに口をつけた。白山はといえば、今日は昼食の直後だからかアイスミルクを用意していることもなく、スバルの様子を悠然と見守っている。

 哀れな相談者がカップをソーサーの上に戻すのを待って、白山が再び口を開いた。

「被害者たるキミに厳しいことを言うのも酷だが――若くしてブラック企業の精神に洗脳されてしまうと、生涯、ブラック労働から抜け出せなくなるぞ。いいかね。真面目に会社に出勤し、サボリもせず職務をこなしているその時点で、キミは立派に給料分の責任を果たしているのだ。営業成績がどうのと言うのは会社の勝手な理屈に過ぎぬし、そもそも会社の要求する成果を従業員が挙げられないのは、ひとえに会社の教育体制なり目標設定なりの瑕疵かしにほかならない」

「……はあ」

 スバルの口からはまた生返事がひとつ出るだけだったが、朗々と語られる白山の言葉を受けて、その表情は心なしか緩んだように志津には見えた。

「さて――概ね、状況は把握した。キミの望みは、クソ会社からの執拗な引き止めを断ち切って自主退職を果たすことと、本来支払われるべき残業代を取り戻すこと――この二点で間違いないのだな」

「……はい。今は正直、少しでもカネが戻ってくればそれで……」

 そう言って唇を噛むスバルの表情は痛々しかった。

 志津は、ホワイトウルフ法律事務所に入ってからの三日間だけでも、既に幾人ものブラック企業被害者の姿を目の当たりにしていたが――ほぼ自分と同い年である鈴木スバルの生々しい境遇には、特に同情の念を抱いてしまう。

 勤め人というものは、誰もが貴重な人生の時間を切り売りすることで日々の糧を稼いでいる。だが、時間だけを搾取され、相応の対価を得られないというのでは、たまったものではないだろう。

 歴史ある大企業から、出来たてのベンチャー企業に至るまで――日本の職場の多くは、未だ、正当な対価を支払わず従業員の時間を搾取する違法雇用に染まりきっている。それをただすのが己の使命であると、白山白狼は毎日のように志津らに語っていたのだ。

「よかろう。そのクソ会社の連中とは完全に訣別してしまって構わないのだな?」

 白山の瞳がぎらりと光った。スバルは少し逡巡するような素振りも見せたが、ややあって、自分の中の何かを断ち切るようにふるふると首を振り、そして白山に「はい」とまっすぐ答えていた。

 白山の言葉の意味は、この事務所を訪れる前から彼にもわかっているに違いない。弁護士を入れて強硬な法的手段を取る以上、会社とは円満なお別れとは行かなくなるが、それで構わないのか――と白山は確認したのだ。

「ならば話は早い。すぐにでも退職と有給休暇の消化を申し入れる内容証明を作成し、会社に送付しよう。キミは明日から一切、会社に顔を出す必要はない。携帯も連絡が付かぬように電源を切るなり何なりしておくがよかろう。従業員が退職と有給消化を申し入れたとなれば、会社がそれを拒む権利は一切ない。問題は残業代だが――これについては資料をもとに適正額を算出し、後日、速やかに別の内容証明を打つことにしよう。会社が任意で支払いに応じるかどうかは未知数だがね」

「……応じなかったら、裁判ですか」

「労働審判が妥当だろうな。トチ狂った相手が通常訴訟への移行を申し立ててくる可能性がないわけではないが――それを阻止するのも俺の仕事の内だ。安心したまえ」

 白山の力強い言葉に勇気付けられたのか、スバルははっきりと「お願いします」と言葉を発した。

 委任契約は志津のときと同じく、着手金ゼロ、成功報酬十パーセントという破格の安さだ。たとえ労働審判や訴訟に移行したとしても、依頼者には郵券代などの実費を請求するのみで、追加の弁護士報酬は発生しない――という、普通の法律事務所では絶対に有り得ない条件である。

 契約書にサインをする間際、スバルも不思議な顔をして白山に尋ねていた。弁護士に頼むのって、もっとお金がかかるものじゃないんですか、と。

 白山がそれにどう答えるのか、志津はもうとっくに知っている。

「キミのような被害者から採算など取る必要はない。ブラック企業の撲滅は俺自身の生きる糧でもあるのだ」

 白ブチ眼鏡の奥で鋭い両眼をきらりと光らせ、正義の狼は断言した。

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